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Wikipedia:井戸端/subj/定義文の主語と述語の間に読点を追加する行為

定義文の主語と述語の間に読点を追加する行為

[編集]

どうもこんにちは。普段よりウィキペディアを楽しく利用させていただいております荒巻モロゾフと申します。「楽しく」とは申し上げましたが、もっと楽しくウィキペディアを利用するためには、改善すべき箇所がウィキペディア日本語版の利用者の全体的な行動指針にはいくつもあることを普段からひしひしと感じております。まずはそのうちの一つだけを、この井戸端で提議させてください。

それは各々の記事の頭の部分、定義文のスタイルについてです(Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (導入部)にて発案するべき話なのかもしれませんが、利用者全体の問題ですので、できるだけ多くが目にするべきと考え井戸端で言うことにしました)。

今回提起する問題は本文の一番目の文の主部と述部の間に読点(、)を挟むスタイルを好む利用者がいるという事です。定義文の主語(主題の名前)と述語(定義)の間には読点が必要なのでしょうか?Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)に書かれている例にはその様なスタイルが掲載されていますが、これには何か文法的機能を有していて、だからわざわざ書き直してでもそういうスタイルを適用するべきとされているのでしょうか?もしくは何か他の権威ある文章の書き方のスタイルとして第一文の主語と述語の間には読点を置けと指導している教育機関があって、方針もそこの指導に基づいているのでしょうか?

単文の短文なのにわざわざ「○○は、××。」と書かれて(書き直されて)いるのを見ると、冗長・余計・言葉に詰まっていると思ってしまいます。他の言語版の定義文、少なくとも英語では普通の文章には主語と述語の間(動詞の前後)にコンマが挟まる事はありません。文字通り項目の第一印象を決定する部分ですので、ここに無頓着であると、日本語版利用者は他の部分にまで無頓着な人種であるととられかねないと危機感を感じました。--荒巻モロゾフ会話2014年7月13日 (日) 04:55 (UTC)[返信]

Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#導入部の書き方の4つ目の段落内の箇条書き5項目目に「「(項目名)は」、「(項目名)とは」の後の読点は入れても入れなくてもよい」とあります。終了。

読点は意味の区切りや、場合によっては可読性の確保のため(長い主語と述語の区切り)のために使うものだから、あってもおかしくない。そういう場合に該当しないのに入っていたとしても、それで意味が分からなくなるならともかく、そうでないなら目くじら立てて「入れるな!」「入れさせろ!」とやりあう意味はない。要は、あってもなくても構わない。どっちかでなくてはならない、ではなくて必要なら入れる。必要もないのに入っていたとしても、そのことにより、定義を説明する文としての機能が損なわれないのであればどうでもいい。ウィキペディア日本語版で書くことを求められているのは、文学的文章ではなく客観的な説明のための文章であって、必要なのは印象ではなく機能性です。

ヤボ承知でに突っ込んで起きますけど、文法も文章を書くスタイルも異なる英語を持ち出すことになんか意味があるんですか?読点があってもなくても、それはその言語のスタイルだと思われるだけです(その言語のことを知らない人からすれば)。以前の定義文の体言止NGか否か、もそうですが、機能的に差異を生じず単なる個人的な感覚だけを根拠(!)に瑣末事にグダグダと時間が使われすぎています。機能的に本質な差異が生じない(個人的な美観なんかどうでもいい)ところにこうやってグダグダと固執することのほうが、本質的な問題に無頓着なダメな言語版だと思いますが。--ikedat76会話2014年7月13日 (日) 05:52 (UTC)[返信]

結論から言えば、日本語と言っても人それぞれクセのようなものがあり、読点の位置のようなものはぶれあって、WPはある程度の文章の特徴やクセは許容されていて、そこまで細かく決まってはいません。また何かを推進して決めなくて良いですよ。あなたにとって楽しくても、間違いでもなくどうでも良いことに関して強制される側のことも考えましょう。--Gyulfox会話2014年7月13日 (日) 08:12 (UTC)[返信]

(Ikedat76さまへ)ふむふむ。つまり、『貴様の美意識なんぞ知るものか。ウィキペディアは専門家でも文筆業でもない素人連中でも誰でも寄稿が許されているのだ。「この様な文体は物書きとして許容できない」とか思っても心に堅く閉まっとけ!』という事になりますでしょうか。
では、訊き方を変えます。この様な編集この様な編集に対してはどの様に思いますか?もちろんこれらの記事は私が以前立項した拙いものでもあるし、たとえ現在でも私の最適であると思うスタイルが絶対のものであるとは考えていません(上の文章が疑問形で書かれているのもそのためです)。なので、こういう編集を見ても積極的に自分のやり方に戻そうなどという気は微塵も起きない訳なのですが、危惧しているのはもっと一般化された問題、細かなスタイルの違いだけで延々と編集合戦が行われたり争いが繰り広げられたりしたりはしないか(そして、それを誰も仲裁しようともしないかもしれない)という事です。その様な事の起りうる危険性が内包されているとあれらの編集を見て思ったのです。ようするに以前あった「Wikipedia:井戸端/subj/小説における著作物名の表記の『』と「」の区別の仕方について」の様な事が冒頭文でまで将来誰かと誰かの間で起きやしないかと心配しているのです。
そんな事に意味がある/ない、それもその人その人それぞれの勝手な事です。ええ、その通り。では意味があるのだと力説する人同士が激しく争いあったら?他の利用者たちは鍵括弧論争の時の様に怪獣大決戦にタジタジになるばかりで、関わり合いになる事を倦んで後手に回るのでしょうか。仮に喧嘩両成敗にするとしても迅速には行えないと思います。現に、上述した類例でもどちらへも何も対処できていません。
これは自ら日本語文献からの情報を収集しての立項と、複数の他言語版からの翻訳の経験のどちらともがある私にしか感じられない違和感なのかもしれませんが、英語版(とくにbe動詞is, are, was, wereで主語と目的語が繋がれた定義文)から日本語版へ翻訳された文章を見ますと、まず主語と述語の間には読点が挟まらないという傾向があるのです。もちろん日本語版特有のガラパゴス化が一概にNGだと言っている訳ではありません。ダメな事、それは先人がそうやっているからと言って、なぜそうしたのかを理解しないで無批判にかつ状況を考慮せず猿真似してしまう事だと私は思っております。だから訊きました、あれに何か意味があると思う人はおりませんかと。
(Gyulfoxさまへ)一つ質問があります。その「人それぞれのクセ」はWikipedia:秀逸な記事Wikipedia:良質な記事の選考に影響すると思われますでしょうか?--荒巻モロゾフ会話2014年7月13日 (日) 11:54 (UTC)[返信]
明らかに推奨されるもの(丸括弧や数字は基本的に半角)(システムの都合上こうした方がいい)などがあれば大概草取りとして修正が入ります。しかし荒巻モロゾフさんのいうような修正が入るかは微妙です。--Gyulfox会話2014年7月13日 (日) 16:08 (UTC)[返信]
どっちでも良いでしょう。むしろ、わざわざ新規参加者の会話ページに乗り込んでいって「定義文の間に『、』を入れる編集はおやめください 」「意味のない行為は慎んで」[1]と言うことのほうが、よっぽど理解に苦しむ行動です。また、他の利用者が真面目に議論しているのを「怪獣大決戦」などと呼ぶのは失礼ですよ。--122.18.240.181 2014年7月13日 (日) 12:49 (UTC)[返信]

どう思うか?くだらないことするな、とは思うけどわざわざ乗り込んでいってあれこれカマすだの、差し戻すだの、そういうことをするのも同じ位くだらないと思いますけど。

誰かがもめ始めたら?くだらないことでもめるな、といって止めさせればいいでしょ。読点がその位置にあることで説明文・定義文としての機能に差があるんですか?瑣末な差異をグダグダやりあう、内容の充実に意を注いだらどうなんだ、と思いますけど何か間違ってます?--ikedat76会話2014年7月13日 (日) 14:49 (UTC)[返信]

読点#用法をお読みになることをお勧めします。そのほか、Googleで「読点 用法」で検索すると、[2][3]のように、「主語の後に打つ」ことを原則とする文書がでてきます。少なくとも、主語の後に読点を打つのが奇異であるとは考えられません。Wikipediaとしてはあってもなくてもどちらでも良いということにしてあるので、読点一つの追加だけの変更というのは好まれないでしょうが、まあ、善意による追加でしょう。--T6n8会話2014年7月13日 (日) 23:31 (UTC)[返信]

(Gyulfoxさまへ)文体は良質な記事の要素たりえるかをお訊きしたのですが……。
(122.18.240.181さまへ)喧嘩や多重アカウントや投稿ブロックだらけのウィキペディア活動歴なのにそれを鼻にかけて先輩面して威張り散らす傲慢な人や、外部サイトで利用者を名指しして陰口を叩く陰湿な人は怪獣ではないのですか?それに真面目に議論しているのを「理解に苦しむ」と言う事は失礼にあたらないんでしょうか?言いたいことがあるのなら、きちんとアカウントを持って特定の個人として認識される覚悟を持ってください。名無しで人を謗る事こそ最大の失礼であり、このサイトに潜む魑魅魍魎妖怪変化なんですよ。よいですか、先達は後継者の訓導に努めなければならないんです。ウィキペディアの執筆されるべき内容はとても多くて一人ではやりきれないし、自分が死んだ後もデータは残る訳です。少しでも見込みのある新規参加者を見つけたら怪獣化しない様に、そして自分の投稿を手伝って引き継いでくれる様に積極的に働きかけるべきなんです。自分さえよければそれでいいとか、自分の縄張りに入ってきたら排除する、そんな態度は共同作業を前提としたウィキではやっちゃいかん事です。
(ikedat76さまへ)「推敲」という言葉の語源をご存じですか?唐の詩人賈島が「僧推月下門(僧は推す月下の門)」という自作の詩句の「推(おす)」を「敲(たたく)」に換えようかと散々迷った末、韓愈に問うてようやく「僧敲月下門(僧は敲く月下の門)」に改めたという故事成語です。押そうが叩こうが些細な違いでしょうが、それだけの事が詩人を大いに悩ましたのです。
読点の位置をはじめとするさまざまな意味の違いを齎さない文体の違いによって、人はその文章から異なる印象を受けます。それだけではなく、熟達者ならば文体から筆者の人となりまでもが透けて見えることでしょう。そして今私は文体に推敲を重ねると読者からのよいフィードバックが返ってくる(高い評価を受けている)ということを実感しています(「※あくまで個人の感想です。商品の効能を保証するものではありません」と言われればそれまででしょうが)。
それは別に、ない事を重ねて物事を美化する事ではないし、中二病じみた美辞麗句でゴテゴテと飾る事でもありません。ただ理解の助けとなる様に視覚的ないし読み上げた場合の音声的な印象を考えて、そしてメタな語句を補って読者の思考の流れをコントロールすることにあります。いうなればそれはあたかもナレーターが語っているかの如くです。講師でも漫談師でもありません、あくまでもナレーターです。ナレーターなので自分の独自見解は述べないし、第四の壁を破ったりもしません。
まあそれはともかくとして、努力をしたのにそれが報われないという事はとても精神が参ってしまいます(「俺様は誰にも評価されなくていいんだー自分の好き勝手してやるぞー」という自己中心的なソウルの持ち主を除く)。努力を労いあい、仕事ぶりを評価しあい、利用者同士が親睦を結ぶ、そんな気持ちがここでは足りていません。ここでしょうもない雑談をしたっていいじゃないですか、なんたって井戸端なのですから。ギスギスした雰囲気の中では新規利用者も毒気に充てられてしまい、何を言われても暴れ続ける様なゴジラキングコングになってしまうことでしょう。なので「くだらないことでもめるな」と言われて揉めるのを止めることのできるミニラリトルコングのうちに褒めて伸ばしてやる必要があるのです。その口実として顛末な差異、いやそう言うと語弊がありますね、正しくは印象を左右する様な文体の違いを評価する事はとても大切なことでしょう。
ところでikedat76さんの活動を見てみますとずいぶんとまあ手広くしていらっしゃいますね。でもそれによってどれだけの人から愛されていますか?せっかく良かれと思って問題に取り組んだとしても、それが裏目に出て恨まれたりしては元も子もありませんよ。
(T6n8さまへ)その外部サイトこそが、私の探し求めていたものです。後者を見ますと、「文の分断につながりやすい箇所」として「文節中の主語の後」というものがあり、まさにこの事を言っていました。勘違いしないで頂きたいのは私は主語の後に読点を一切入れるなとは一度も申し上げていない事です。ただ、その行為に意味があるのかという事を訊きたかったんです。もしここが某質問サイトだったならベストアンサーに選んでいるところですね。ありがとうございます。--荒巻モロゾフ会話2014年7月14日 (月) 03:57 (UTC)[返信]
(荒巻モロゾフさんへ)スタイルマニュアルでも統一していないような、微妙な表現の違いでわざわざ登録まもない利用者の会話ページに書き込むのは、ともすれば初心者いじめとも見られかねない行動だと考えます。もちろん善意からやっているのは間違いないとは思いますが、百科事典としての正確さを失うでもない、微妙な表現の差を取り上げた結果、角を矯めて牛を殺すような結果になっては本末転倒です。
あと、選考期間中も記事の編集は通常どおりに、投票者自身の手によってすら行えますので、表現などその場で修正できるようなことで秀逸や良質な記事の選考が影響を受けることは「制度上ありえない」と言い切って問題ないと考えます。--Jkr2255 2014年7月14日 (月) 08:06 (UTC)[返信]
選考と文体の関係に関するご意見ありがとうございます。普段お世話になっております(とまで言っていいのやらわかりませんが)Jkr2255さんが「制度上ありえない」とまでおっしゃるなら安心いたしました。--荒巻モロゾフ会話2014年7月14日 (月) 11:06 (UTC)[返信]
コメント 荒巻モロゾフ氏の最初の投稿では、
改善すべき箇所が…いくつもあることを普段からひしひしと感じております。まずはそのうちの一つだけを、この井戸端で提議させてください。それは各々の記事の頭の部分、定義文のスタイルについてです。
単文の短文なのにわざわざ「○○は、××。」と書かれて(書き直されて)いるのを見ると、冗長・余計・言葉に詰まっていると思ってしまいます。他の言語版の定義文、少なくとも英語では普通の文章には主語と述語の間(動詞の前後)にコンマが挟まる事はありません。文字通り項目の第一印象を決定する部分ですので、ここに無頓着であると、日本語版利用者は他の部分にまで無頓着な人種であるととられかねないと危機感を感じました。
と述べられております。「読点を入れるのは意味がないので、読点を入れないように統一したほうがよい」としか受け取れません。「そうではない。読点を入れることに意味があるか訊いただけだ」とおっしゃるならば、他者の勘違いではなく、貴方の表現が不適切と思われます。--118.6.71.92 2014年7月14日 (月) 08:53 (UTC)[返信]
ではあなたを納得させるという勝負事では私の負けですね。「書き直してでもそういうスタイルを適用するべきとされているのでしょうか?もしくは何か他の権威ある文章の書き方のスタイルとして第一文の主語と述語の間には読点を置けと指導している教育機関があって、方針もそこの指導に基づいているのでしょうか?」という訊き方をしているのに「「読点を入れるのは意味がないので、読点を入れないように統一したほうがよい」としか受け取れません」と仰るのなら、まるでマリオに踏まれたノコノコの様に私には手も足も出ません。あなたはスターを取ったマリオの様に無敵の光に包まれています。脱帽です!><;惜しむらくはその功績が利用者名として記録されないことです。嗚呼、げに口惜しや……。--荒巻モロゾフ会話2014年7月14日 (月) 11:06 (UTC)[返信]
コメント 私の引用した部分についてノーコメントということは、「訊きたい事はしっかり書いたが、余計な事も書いてしまった」というわけですね。余計な部分は省きもっとストレートに質問されたなら、「余計な部分」に対する回答も無くなるわけで、ベストアンサーのような回答を得られやすくなると思いますよ。--118.6.71.92 2014年7月14日 (月) 16:37 (UTC)[返信]
コメント西岡本」は一文が非常に短いので読点は無くても良さそうですが、「打出」の方は読点を入れたことで良くなったと思います。読点だけの編集は非効率だったかもしれませんが、「利用者‐会話:Sidiouschancellor#定義文の間に「、」を入れる編集はおやめください」での荒巻モロゾフさんの対応とコメントの内容はいろいろ不適切に思います。たまたま相手の方の対話スキルが高く、上手くかわしておられるようなのでその点は一安心ですが、読点を手直しするのに方針もスピード違反の論理も無関係ですし、管理者はそのようなことを担う方々ではありませんので、今後のために不正確な説明は訂正される方が望ましいでしょう。
たとえ読点ひとつであってもその有無が記事にとって重要だと主張されるのであれば、新規参加者の会話ページまで訪れて持論を力説されるよりも、記事のノートで提案の上、合意形成を経て記事を修正するかどうかを判断されるのが建設的で良いと思います。あるいは表記ガイドのルールに不備があると思われるなら、ルール改訂を提案することもできます。荒巻モロゾフさんの他にも同じ考えの編集者が相応の数いらっしゃるのであれば、それは容易に可能でしょう。
ところで、[4]の内容について若干読み違いがあるようですが、そこに例示されているのは「文節中の主語の後」であって「文中の主語の後」ではないので、ここでの荒巻モロゾフさんの問題提起(単文の中の読点)とは無関係ですよ。念のため。--ディー・エム会話2014年7月14日 (月) 13:33 (UTC)[返信]
文節と文の違いに拘ることでディー・エムさんが幸せになるというのならそれでいいではありませんか。文節と文の違いに拘るのが大好きであるならそれで幸せになれませんか?それを邪魔するなんてとんでもない!--荒巻モロゾフ会話2014年7月18日 (金) 01:13 (UTC)[返信]
Wikipediaは百科事典をつくる非営利のプロジェクトです。百科事典には事実のみが記載されるべきものであって、句読点を入れるか入れないかと言う些末な印象に対して議論することが無意味。営利目的のプロジェクトでない以上、見た目の印象によって受ける評価など、どうでもいいことです。統一していない現状がよくないと言うのであれば、どちらのスタンスかをはっきりと示して、スタイルマニュアルの改訂を訴えるべきでしょう。--翼のない堕天使会話2014年7月19日 (土) 09:26 (UTC)[返信]