Wikipedia:井戸端/subj/創作物の解説の検証可能性について
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創作物の解説の検証可能性について
[編集]主に創作物全般の登場人物などの解説部分なのですが、検証可能性を満たすと思えないものが増えてきています。一次情報に対する説明なので、「全部読めば」どこかに対応する記述はあるのでしょうが、そもそも要約なので全部確認しても読解の違いや、勘違いによって本当に記述が間違っている可能性も出てきます。該当しそうなジャンル全般で同様の傾向にあるのでこの記事以外もひどいものですしこれだけがひどいわけでも無いのですが、例えばこれですが、検証可能性を満たすのでしょうか?あらすじ節ならまだ本全体の要約なのでわからなくもないですが、注9辺りの「可能性はある」というのもセリフがあるなら場所を示せば問題なさそうですが執筆者の感想なら独自研究の類です。仮に間違ってなくても記述が本当か?と思って確認するために現状で七冊読めと?完結するまで量は増えていくのですから検証可能性の低さは放置するだけで低下していきます。下手すれば七冊読んでも該当部が一文字も無い可能性すらある。それは検証可能性を満たしているのですかね?本文に対応する記述がありそうな部分すら該当部の明示がありません。これなんかも「ほぼスマブラなゲームが出てくるラノベを書く身としてここまでは義務」というツイートが出典になっており、今は一冊しか出版物がないので辛うじて成立しそうですが、複数作品が出てくれば「発言時期」と「内容」の情報を合成しないと事実を構成できないので典拠としてはアウトのラインの気がするのですが、有効なのでしょうか?これに限らず新しい記事はこれと大差がない有様の記事が(執筆者の興味が偏る以上同じ人が書くほど同じ傾向になるので当然ですが)増えています。では、どうすればいいのか?といえば、少なくとも転生したらスライムだった件の同様の節は少なくとも多くが書籍該当部の明示があり、記事を見て確認する際に「その根拠となる一次情報」にはアクセスできるようになっていますし、多くの記事が以前はこうなっていたように思います。実際問題として放置した場合、当然既存の記事を加筆したりそれを参考に記事を起こしたりするわけですから、「記事が維持されるなら」楽な方に倣いたくなるのが人情というものですし、放置されているのですからこれでいいと考える新しい人を責めることは難しい気がします。既に改善を試みるにはかなりの労力が必要な有様になってるような気がするのですが、放置すれば更に作業は指数的に増えると思われるのですが、出典の在り方や、最低限の記述として容認されるラインはどうにかすべきと思うのですが、ご意見伺えればと思います。問題があるなら早急にどうにかしないと「個人的な感想文とまとめ」サイトになっていくことを止められなくなる気がします。--2409:12:10E1:9500:8163:2D02:28A7:F3D5 2021年2月26日 (金) 11:22 (UTC)移させていただきます。--舌先現象になります(会話) 2021年2月26日 (金) 12:06 (UTC)
- 正直、「言うだけ無駄」だろうなと思いつつ。
- IPさんのように考える方が多数集まって、それらの分野の改革に着手しないと、どうにもならないでしょう。
- 分野では、分野の利用者による合意として、「作品そのものを出典とする逐次的記述」がOKとされています。私個人はそれに反対ですけど、一人で言ってもどうしようもない。
- 「視覚的に描かれたもの」がタダシイ情報なのかはムズカシイ。映画でも「結局、夢か現実か、妄想か幻覚か、どっちだったんだ」みたいな解釈の余地を残す作品は多数。アニメやマンガでは、いわゆるメタファーとか記号化された表現のようなものの場合、解釈の問題がつきまといます。ガンダムでアムロのおでこから稲妻みたいのがキラキラっと出たとき、あれは何なのか、本当に電光みたいのが物理現象として発生していて誰にでも視認できるものなのか、とかね。SEEDでは何の説明もなく種割れたりしますけど、アレは視聴者がみなガンダムを知っていて「ああニュータイプみたいなやつね」と暗黙知が通用するけど、実際あれは何なんだとかね。エヴァンゲリオンの最終回はなんだったんだとかね。
- いわゆる「ハイカルチャー」の分野では、然るべき作品には然るべき研究や書評が存在します。すなわち、シェイクスピアや紫式部や夏目漱石みたいな「文学」の世界では、作品そのものの研究、分析、解説が十分に行われていて、それらを「高次情報源」として使うことができます。いま挙げたような水準の作品では、「2次」=研究者による作品の研究書・解説書、「3次」=文学史家による研究史や百科事典類、が存在します。また、これらに比べると上質とは言えないかもしれませんが「5分で読める世界の文学名作」みたいな書物も存在し、高次情報源としての「あらすじ」もあります。
- 原則的には、こうした情報源だけを使用し、「原典そのもの」(1次)は使用せずに記事を書くことが理想です。(ただし、原文を引用するのがわかりやすい、というところもあるし、研究書を読む前提として当然原典は読んでいるはずなので、実際には記事づくりには原典も当然欠かせません)
- それに比べると、ポップカルチャーはムズカシイです。たとえば映画作品や推理小説などの娯楽作品のうち、古典的名作みたいなものには、ハイカルチャーと同水準の各種情報源があるでしょう。手塚治虫とか藤子不二雄クラスの漫画作品でもいけるでしょう。(ハイカルチャーとポップカルチャーの境界は曖昧で、かつてポップカルチャーだったものが300年後にはハイカルチャーとみなされるようになるわけです。)
- 目下放送中のTVアニメとか、連載中のマンガとか、なろう小説とかになると、そういう情報源を期待するのはムリスジでしょう。
- 私のごくごく個人的な考えとしては、「だったら書くな、書くのは10年後にしろ」とか思います。が、それを強制することもまたムリです。現実問題として、Wikipedia内ではこうした分野では広ーく「ファンサイト化」「まとめサイト化」していて、個人的にはそれはヨクナイコトだと感じますけど、多数の利用者がそうしているのを私一人でヤメロということもできない、って感じですねえ。これらの分野でも和は少ないですがGA以上の記事に仕上がっているものもあり、「イシキタカイ」利用者が無数にいればあるいは、って感じですけど・・・そういう利用者がたくさん集まって、分野の記事の水準を底上げしようぜっていう機運が生まれないと。--柒月例祭(会話) 2021年2月26日 (金) 15:07 (UTC)
- まず、問題のレベルとして
- ろくに出典がついていない
- 出典はついているけど適切じゃない
- 出典が一次資料ばっかり
- 二次資料の出典はついてるけど、その二次資料の質が低い
- というかんじに分けるとすると、IPユーザーさんが問題提起されているのは 1、2あたりのレベルの話なのに対して、柒月例祭さんは3、4あたりのレベルの話にも触れていらっしゃって、いきなりそこまで行ってしまうとちょっと難易度が上がりすぎなんじゃないかなと思います(理想論としてはある程度同意しますが)。別件でも同じようなことを述べましたが、こちらも「ウィキペディア全体のレベルの底上げ」という観点から考えるのが適当かと思います。
- また、漫画や映像作品にまで話を広げると、柒月例祭さんも仰っているように、視覚的に描かれたものを文章に落とし込むという、文芸作品について書く場合よりも重層的な解釈が必要になってくるので、ひとまずIPユーザーさんが例に上げていらっしゃるようなライトノベルのみに対象を絞り込んで考えたほうが糸口が掴みやすいのではないでしょうか。
- フィクション関連はほとんど編集していないので、とりあえず以上です。関連文章等に目を通してから追加でコメントするかもしれません。--Jutha DDA(会話) 2021年2月26日 (金) 15:56 (UTC) 微修正 --2021年2月26日 (金) 15:58 (UTC)
- 返信 現状に対する難易度と言われると、たしかにおっしゃるとおりかもしれません。でも「理想論」というよりは「基本・初歩」でしょ、と私は思います。まあ実態に程遠いのは確かです。--柒月例祭(会話) 2021年2月26日 (金) 16:31 (UTC)
- 返信 一応ドキュメントの通り操作したつもりだったのですが変な書き込まれ方をしたようで、移動してくださった方ありがとうございました。アドレスが変わってる可能性もありますが、起こした本人です。リンクのある部分だけ太字の装飾も入れました。
- 正直理想はわかっているのですが、雑多な作品の多くはきっとそんなもの100年経っても研究書なんて作られないと思うので、妥協のラインが「せめて根拠、典拠くらいは明示しろ」だったりする(というこれくらいはやってという例とこれでいいのか?という例)わけです。
- 噂話レベルの元ネタがそれも典拠なしで書き込まれるのって本来はここじゃなくてポリシーが許容する別の類似プロジェクトにあるべき文献だと思います。典拠となる資料がなければ書き手によって妥当性や責任を担保できないのですから、中身を保証するものがなくなります。原作を典拠としても「どこが」根拠かもしめさないならあらすじで水増しした読書感想文と変わりません。
- ですから、きっと書かれることがない二次、三次資料という無茶な話ではなく、現実的に直接的に事実を示すためなら使ってもいい「一次資料の該当部」を典拠にすれば少なくとも記述に対応する部分や根拠は見つかることになるので「最低ラインの質」は保てるように思います。一次資料によって「明白ではない」事は普通に維持できない記述と思います。上の注9の例なら「~とは思うが事実を確かめる勇気はない」などの地の文やセリフがあれば担保できますが、ないなら蛇足な独自研究です。一次資料で直接的に書かれていないメタファ表現や資料に基づかない設定はガンダムのページでどうなってるかは知りませんが普通に除去対象でしょうし私は「ここにはあってはいけない」独自研究の記述だと思います。映像であっても、何話の~というセリフ、何分辺りの演出など「一次資料の確認が取れる程度の明示」はできるはずで、それすら放棄するのは正確さを放棄するのと同じです。
- というより、「作品そのものを出典とする逐次的記述」を拡大解釈しすぎで、根拠を求められたときに「全部読めばあるから読め」って完結した時100冊あったらどうするんです?酷いからマシにとおもっても、興味のない文章も整ってないラノベ100冊検証の為に読まないといけないなんてのは拷問とか刑罰の類です。100冊は極論でも記事を残したいと思わない人がする作業としてはタスクが重すぎます。もっと小規模な作品を前提にしていたのではないでしょうか?現状を許容するような合意をした人が何を考えてそれで通したのか見つけられないのですが、本当に今の有様を許容するほど「ガイドラインや三本の柱」を前提としても合意が形成できたのでしょうか?流石に度が過ぎる気がしますし、編集の手は入ってるけど誰も(書いた人がどこ読んで書いたか書くか、同じものを読んでる人が該当部を明示するだけなのに)改善しようとしないのはもう遅いとは思いますが、増えていくだけ直さないといけないところが増えるわけですが、本当に放置していいのですかね?大きな爆弾を見なかったことにして「でたらめが書いてある自称百科事典」にしたいならそれはそれで私に責任のあるプロジェクトじゃないので知ったことでもないですが。--2409:12:10E1:9500:5916:560D:F693:1419 2021年2月26日 (金) 16:41 (UTC)
- まず、問題のレベルとして
- 尚、主観では出典とされた「情報の合成が必要なツイートの出典」は出典無効ではないかとおもってます。また、通常の二次情報、三次情報の出典でも論文や書籍のタイトルだけではなくページも要求されることを考えれば主題について書かれていて一次情報を出典として用いることができても、記述に対応する主題の中の該当部分の明示は「記事を維持したい者」が明記するのが義務であると思っています。が、もし現状が正しい、許容される理由があるというのであれば、そういう観点からもご意見や情報を持ってる方がいらっしゃるようならお聞かせいただけるとありがたいです。--2409:12:10E1:9500:5916:560D:F693:1419 2021年2月27日 (土) 00:18 (UTC)
- 結局のところ共同作業なので。方針上はWP:Vなんかでバッサリ除去して良いことになっています、が、それをやると現状をヨシと思っている利用者との衝突が起きるでしょう。分野で常態化しているということは、それをヨシと思っている利用者が多くいることを示唆しているでしょうから、いくら理屈はタダシイとしても一人で急に大改革を始めても理解が得られず、往々にしてトラブルになるだけです。
- しっかりアカウントとって、ノートページで事前に丁寧に説明して、時間をかけて個別具体的に一歩づつ改善していくしかないですね。
- 私の個人的な感覚でいうと、よいものへ改善しようというとき、前へ進もうとするときには、何かを除去したり削ぎ落とすことは不可欠だとは思います。でも「情報を減らす」だけだと反発を招くのもまた事実です。なので、質の悪い部分をマイナスする作業と同時に質の高いものをプラスしていけば、理解や賛同を得やすいでしょう。--柒月例祭(会話) 2021年2月27日 (土) 00:43 (UTC)
- そもそも論評の類があればそれを引くことができるはずなので、「ろくに資料も作られないものを主題としてるのが間違っている」わけですが、削除依頼も数カ月放置されたうえ、ろくに議論されないことも多い有様なので消すだけでもコストが重すぎると思いますし、最低限記述が正しいのか議論できる程度の根拠の明示は必要だと思います。
- またそれを明確にするのは「独自研究」の無駄に入り込む余地を減らす効果もあると思ってますし、精度を守ることが記述を守ることでもあると思います。精度が維持できない落書きに落ちていくなら精度が重要だと思うなら消えてもらうしか道はありません。--2409:12:10E1:9500:5916:560D:F693:1419 2021年2月27日 (土) 02:40 (UTC)
- (コメント)これはWikipedia:井戸端/subj/記述に印刷された情報源が絶対必要かと性質が近い感じがします。こちらの話題を提起したMidzさんの意見も個人的には同意できる部分がありまして、暗示にとどまっていたとしてもそれが繰り返し描写されているのであれば、「AはBであることが暗示されている」くらいは書いてもいいのではないかと思っています。--ペン打ゴン(会話) 2021年2月27日 (土) 01:26 (UTC)
- 私は「感想文」や「妄言の羅列」にならないためには「その根拠」が最低限必要だと思っています。感想文や論評や妄想でできた考察ごっこなら「よそでやったらよろしい」とおもってます。そのご高説を発表したいならご自身のblogでもみんなで話し合いたいなら「レンタルwikiのどこか」でやればよろしいとおもうのです。ここじゃなくてもgoogle先生は拾ってくださいますし、enpedia辺りのポリシーならセーフになる気もします。「信頼できる情報源」に掲載される方だったりすればそれこそ出版物にしてからなら出典にできるじゃありませんか。そうならないなら世間ではそれに満たないということです。少なくともここでは書き手がその質や妥当性を保証できません。したがって、「依拠する資料」がなければその正確さや根拠を証明できません。それこそ陰謀論でもオカルトでも「辻褄だけは」多くが成立しているのですよ。構成している要素は都合がいい情報と妄想だから事実も真実でもないのですが、独自研究を安易に許容することは匿名が書き手の場所ではそういう状況を引き起こしかねません。その「発表の場」がここでなければならない理由はなんでしょうか?このサイトの信頼性をもって、信頼性のない記述を箔付けするのは不誠実な記述であると私は思いますが如何ですか?--2409:12:10E1:9500:5916:560D:F693:1419 2021年2月27日 (土) 02:40 (UTC)
- コメント私は<「AはBであることが暗示されている」くらいは書いてもいい>とは思いません。それは読んだ人の感想です。今回はもっぱら「検証可能性」についての提議ではありますが、高次情報源の存在は、「検証可能」であると同時に、「それは特筆に値することだ」ということの証明でもあります。原典をもとにした過剰な記述は、WP:IINFO(WP:NOTFANSITE)やWikipedia:独自研究は載せない、Wikipedia:過剰な内容の整理なども併せて考えると良いでしょう。--柒月例祭(会話) 2021年2月27日 (土) 04:55 (UTC)
- (IPさんと㭍月例祭さんへの返信)あくまでも個人的に思うだけで意見を押し通すつもりはないです。コミュニティを消耗させる利用者として投稿ブロックされることは望んでいないです。--ペン打ゴン(会話) 2021年2月27日 (土) 09:53 (UTC)
- 一応言っておきますが「独自研究そのものが悪い」わけではありません。ただ、典拠の要約はできてもその内容の合成によって何かを主張することは「してはいけない」とされる書き手によって担保するものがない場所と、資料によって直接担保できない事実の明示は相性が悪く「やってはいけないこと」に包含される以上は「別の適切な場所で」行われるべきだろうというそういう話です。--2409:12:10E1:9500:BDB9:959E:688F:EE27 2021年3月7日 (日) 11:11 (UTC)
- (IPさんと㭍月例祭さんへの返信)あくまでも個人的に思うだけで意見を押し通すつもりはないです。コミュニティを消耗させる利用者として投稿ブロックされることは望んでいないです。--ペン打ゴン(会話) 2021年2月27日 (土) 09:53 (UTC)
- コメントとりあえず、一通り議論を読んだ感想として、色々な問題点、論点がゴチャまぜという印象です。まず、「作品それ自体(一次資料)で明白であるか否か」と「それが説明に必要な情報か否か」が切り分けられていないと思います。あと「作品を読めばわかること」の適応範囲ですかね。
- ◆たとえば100、200巻の大作でも全部読んで検証しなければならないのか(だから全部出典を付けるべき)という話に関して言えば、例えばONEPIECEのルフィは「主人公で性別は男、麦わら帽子がトレンドマークで、左目の下に傷があって、海賊王を目指している」あるいは、こち亀の両さんは「本名は両津勘吉で、男性で、亀有公園前派出所勤務の警官で、金にがめつくタフ」というのは、逐次出典が無くても作品を読めばわかることです。それはそういう前提で物語が展開されているのだから、自明な情報であって、対象が大河作品であろうと逐次的な出典はいらない。一方でルフィの誕生日が5月5日であるとか、勘吉の伯父の名前が元五郎というのは、作品を読んでもわからない、あるいは、該当の話を読めばわかるだろうけど、普通にその作品を読んだ分にはわからないし、それを知っている前提で読むものでもない、もっとはっきり言えば知らなくても作品理解に問題がない、というようなものは出典を付けるべきという話になります。だから、これは逆説的な話なのですが、「ただ普通に読めばわかる自明なこと」「そういう前提で物語が展開されているもの」こそ、ウィキペディアに書くべき情報であって、逐一細かいページ番号を必要とする情報というのは大半がむしろ必要ない情報なんですよ。もちろん、作品の形式などによったりケースバイケースの部分は大きいですが。
- ◆次にフィクションに限らず、書籍とは、それを理解できると期待されている水準や属性というものがあります。カントの『純粋理性批判』とは言いませんが、それを理解するための前提知識を要求されているなんていうものはごまんとある。ここでその前提知識が無い者が「俺には理解できないから出典として無効だ」なんていうのは話が通らない。ここでフィクションの話でわかりやすいものとしてパロディ系を例に出しますが、しばしばパロディとオマージュとパクリの違いという話で「パロディは元ネタを知っていることが前提」という話があります。例えば『銀魂』で頬をひっぱたかれた主人公が「ブライトさんにも殴られたこと無いのに!」と言うシーンがありますが、その時、想定される読者はそれがガンダムのパロディだという前提知識があるんです。確かにガンダムを知らない人からすればこれはまったく意味不明なやり取りかもしれませんが、少なくとも作品として作者は「これはガンダムのパロディだとわかる読者」を想定しているのであって、古典芸能の人間国宝を相手にしているわけではないです。それを読んで理解できない人がいると期待できることは、ただちに解釈の問題が生じているというものではなく、少なくとも作者が想定する読者の水準を前提において解釈の問題が生じうるかを想定しなければならない。で、これはウィキペディアにおける特別な話ではなくて、物語論における読者の想定という基本的な話(正確には古典的な物語論への批判)であって、だから、単に「不特定多数を対象としてそれが理解できない人がいること」と「想定する読者の中でも理解できないこと(解釈の余地がある)」は別問題で切り分ける必要がある。厳密にはテクスト論の領域ですが、ウィキペディアとしては作品から必要以上の意味を見出す必要はないので個々の読者の解釈論を厳密に踏み込まなくてもいいと思いますが、今回の話であれば「スマブラをモチーフにしている」かどうかは想定する読者層の問題であって、そこでラノベもスマブラもよく知らない人が俺にはわからんから無効だは、まったく別の話だと思います。知ってると自負する人間が問題があると指摘するならわかりますが。ちなみに、スマブラモチーフの話は、ツイッターじゃなくても、あとがきとか、このラノの2018の作者インタビューとかあると思うんですけどね。
- ◆まあ、そういう観点もあることながらIP氏は「興味のない文章も整ってないラノベ100冊検証の為に読まないといけないなんてのは拷問とか刑罰の類です」とおっしゃられるけど、じゃあ、検証などしなければ良いじゃないですか。フィクションに限らず、ほぼすべての分野で言えますが、興味もない、対象を知ろうともしない人間が、なぜ検証などという高度な作業をしようとするのですか。ウィキペディアに貢献したいというなら、ぜひ興味のある分野の記事の執筆をしていただきたいです。その方がIP氏の限りある時間の消費方法としても効率的でしょう。--EULE(会話) 2021年2月27日 (土) 02:23 (UTC)
- 例示と問からその返事が来る時点で、私の書き方が悪かったのだとは思います。あと、念のためはっきりさせておきますが「問題は同じ構造で典拠を明示しない記述を量産すること」であって、例示の記事の主題自体はどちらもここでは関係がありません。マシとしたほうもいい記事なのかといえば「別」ですし、論点もそこではないです。が、記事品質の印象に引っ張られて構文に配慮が足りなかったのだろうなと反応から反省はしますが、ここでのあらゆる表現が「直接主題の方の装飾や評価にはかかってない」事だけは明言し、そう見えたのならお詫びします。否定的な該当部は「第三者がサイト全体を考えた状況改善の為に典拠を示すことが困難な形で肥大化すること」のデメリットとコスト以外の意味を持ちません。事実大きな興味がない記事について出典のないものを補記する程度の編集はしていますが、今の構造で創作物のカテゴリの無出典なそれに対して私はそのコストは負担できません。それ以外の部分は二例の例示の状況と説明から整合する返答や意見とは「私は」思いませんが、説明すれば既述したことの繰り返しになりそうなので「人物定義があらすじになりかけている」状況で本当にその返答が妥当かは確認していただけるとありがたいです。そもそも主題の内容だからと該当部を示さないことが記述の根拠に当たりにくくしているという話で、それこそ「ファンサイトでもないので」よほどの条件で自明と言えない限りは「典拠がない記述はおかしい」と考えますし、一般的な読み書き以上のものを読み手に要求するのは論外です。ここはファンサイトでもデータベースでもないのです。主題のどこを切っても明らかに字面通りなことまで出典をつけろと言ってるように見える記事2例になっているか該当記事も確認してみてください。そもそも、人物の定義部分があらすじ同然になってる構成からおかしいと思ってますが、「そこも今回の主題ではありません。」それでも整合すると思われるのでしたらよほど私の書き方が悪いのでしょう。これは書き手としての能力の問題ですので、申し訳ございませんとしか言いようがありません。--2409:12:10E1:9500:BDB9:959E:688F:EE27 2021年2月27日 (土) 12:12 (UTC)
- 返信 「人物の定義部分があらすじ同然になってる構成からおかしい」というのは妥当な指摘だと思いますが、それはそれこそフィクション分野においては昔から指摘されている内容であって、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)やプロジェクト:フィクション/登場人物と設定の記述といったルールが既に存在しています。IP氏は表題も含めて検証可能性の有無をしきりに主題にするかのように論ぜられているように見えましたが、そうではなく構成の問題だというのあれば、それは一応ウィキペディアとしては既に認識されている問題であってルールとしては整備されているものになります。それを守っていない記事が多いとしても整理や直すのであれば、そうしたルールに基づいて対処していくという話になります。--EULE(会話) 2021年2月28日 (日) 03:27 (UTC)
- (追伸)「そこも今回の主題ではありません。」と言われてるのに、上記の書き方だけなら私の方も誤解を生みそうなので補足しますが、IP氏の指摘されている問題点は結局、従来のウィキペディアで議論されてきた問題に起因していているというのが私の見立てであって、私の主題はこれだというのは反論はあまり意味をなさんでしょう。スタイルマニュアルや登場人物と設定の記述に従った内容の範疇にある場合には、個々の読者によって解釈が大きく異なるようなものを記述しなければならないケースはさほど多くはないというのが率直なところです。
- あと、誤解してほしくないのですが、私は何も一次資料からなら読み取れるなら一切出典は不要だという論者ではないです。例えば、過去にこういう説明もしているし、銀河英雄伝説の登場人物・銀河帝国は全部に逐次出典を付記してます。日本語版の登場人物の一覧記事でここまで徹底的にやったのは他にあまりないでしょうね。--EULE(会話) 2021年2月28日 (日) 03:59 (UTC)
- 例示と、人物節と明言することで話の範囲を「広がらないように」限定しているのですが「安い煽りまでつけて」皮肉じみたことを言われる理由すらわかりません。むしろあの辺りに至っては「他人の読み書きの水準なんかに期待してはいけない」という実感を伴う証左にすら感じます。そんな人が書いても情報を担保するのが「典拠」です。残念ながら主観なので証拠足りえませんがね。検証可能性は基本文書なのでリンクしていませんが、単語レベルで意味が拾えていない様な文言までまざったそれに何と答えれば満足でしたかね?私はその条件を「何も知らない人間が見ても、確認したい事実を出典によって記述の内容に相当する資料が実在し、記述の正しさを確認できること」と認識しています。貴方は違うのですかね?今の「レイアウトとスタイルで書き散らかしたい」ならせめて典拠くらいは明確にすべきではないか?そうするにはどうしたらいいですかね?という話なのであって、私は「かなり諦めて妥協して最低ラインを探る」話をしているのですよ。物理的に直して回るのは「絶対に無理」なので書き散らかしたいそのスタイルを維持しても中身を担保するラインはどこだろうって話を最低ラインと思われる例を引いてしてるんですが。「現状はさすがに底が抜けてしまっているのではないか?」と。精度を維持したいなら人物定義をあらすじで行うような間抜けなことをしなければいいだけですが工夫をする気は「執筆者にはない」のでしょ?だからそれもとっくに「諦めて」るんですよ。分散された情報からレイアウトをし直すとか主題に興味もない人間ができるわけないですよね?ましてや根拠に情報の合成が必要になりそうなものを堂々と持ってくる有様に、どう説明すべきか、どう対応するのがよろしいかという話をしているのですよ。主観では論外ですが、あくまで主観なので「誰も手を出さないそれは他の人はどう考えているのか」聞いているのですよ。どうせ無駄だから何もするなとそういう話なら「さんざん議論されたがどれも無駄だったからあきらめろ」の一言で済む話のように思いますが「いったいどういうことが書かれてると思ってそれを書いたのか」教えていただけませんか?私が書いたものに対する返事としてはきちんと読んでいないか対話する気がないようにしか見えないくらい位相のずれたことを言われて困っています。もし文字以外の部分になにかがみえてらっしゃるなら「それは幻覚」ですから、見なかったことにして読み解いていただけませんか?--2409:12:10E1:9500:BDB9:959E:688F:EE27 2021年3月7日 (日) 11:11 (UTC)
- 例示と問からその返事が来る時点で、私の書き方が悪かったのだとは思います。あと、念のためはっきりさせておきますが「問題は同じ構造で典拠を明示しない記述を量産すること」であって、例示の記事の主題自体はどちらもここでは関係がありません。マシとしたほうもいい記事なのかといえば「別」ですし、論点もそこではないです。が、記事品質の印象に引っ張られて構文に配慮が足りなかったのだろうなと反応から反省はしますが、ここでのあらゆる表現が「直接主題の方の装飾や評価にはかかってない」事だけは明言し、そう見えたのならお詫びします。否定的な該当部は「第三者がサイト全体を考えた状況改善の為に典拠を示すことが困難な形で肥大化すること」のデメリットとコスト以外の意味を持ちません。事実大きな興味がない記事について出典のないものを補記する程度の編集はしていますが、今の構造で創作物のカテゴリの無出典なそれに対して私はそのコストは負担できません。それ以外の部分は二例の例示の状況と説明から整合する返答や意見とは「私は」思いませんが、説明すれば既述したことの繰り返しになりそうなので「人物定義があらすじになりかけている」状況で本当にその返答が妥当かは確認していただけるとありがたいです。そもそも主題の内容だからと該当部を示さないことが記述の根拠に当たりにくくしているという話で、それこそ「ファンサイトでもないので」よほどの条件で自明と言えない限りは「典拠がない記述はおかしい」と考えますし、一般的な読み書き以上のものを読み手に要求するのは論外です。ここはファンサイトでもデータベースでもないのです。主題のどこを切っても明らかに字面通りなことまで出典をつけろと言ってるように見える記事2例になっているか該当記事も確認してみてください。そもそも、人物の定義部分があらすじ同然になってる構成からおかしいと思ってますが、「そこも今回の主題ではありません。」それでも整合すると思われるのでしたらよほど私の書き方が悪いのでしょう。これは書き手としての能力の問題ですので、申し訳ございませんとしか言いようがありません。--2409:12:10E1:9500:BDB9:959E:688F:EE27 2021年2月27日 (土) 12:12 (UTC)