Wikipedia:井戸端/subj/「一次資料」にもとづいて書く?
|
「一次資料」にもとづいて書く?
[編集]Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料に次のように記されています。
一次資料を直接ウィキペディアで公表すること、たとえば投稿者自身の体験の記述や、投稿者が行ったアンケートやインタビューなどを掲載する事は独自研究に あたり許されません。ウィキペディアにある記事は全て、既に発表されている一次資料や二次資料に基づいていなければなりません。なお、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません—それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です。 — Wikipedia:独自研究は載せない(2009-12-13 14:09:12 (UTC)版)
この記述のうち、「一次資料」について述べられている部分に実は疑問をもっています。「既に発表されている一次資料」であろうとも、「現存する一次資料から情報を集めて整理する調査」は独自研究に該当するのではないか、ということです。このような疑問を抱くに至った具体的なポインタとしては、1、2、3、4などがあり、あらかじめ申しておくと歴史学とその周辺分野・関連分野をめぐってということになります。
さて、歴史学において「一次資料」に該当するのは、史料でしょう。しかし、「史料に『○○』と書いてある」ということは容易に言えても、そこから「(だから)××という出来事は○○だった」ということとの間には大きな飛躍があります。こうした事情は、E・H・カーの『歴史とは何か』で外交交渉の当事者の残した記録を例に挙げて指摘されている通りです。カーの挙げた例では、いずれの側の当事者も、自分は理路整然としているが相手は支離滅裂という記録になっており、単にそれらの記録を史料として採用しても何が起きたかは分からない、としています。つまり、史料(=一次資料)に何が書いてある、というレベルを超えて出来事として何が起きたのか(起きなかったのか)を確定する(「情報やデータの概括、分析、総合、解釈、評価」)ということになると、そこには史料の信頼性を考量するとか、複数の史料を信頼性を考量しつつ突合するとか、・・・大まかに言えば史料批判といわれる手続きが必要になります。
しかし、史料批判には専門的な訓練を必要とします(各時代や領域ごとに史料の持つ性質は異なり、それを踏まえなければ、史料批判は出来ません)。さてここで、Wikipediaの依拠する前提(つまり方針文書等)を鑑みると、個々の書き手の能力や資格は実は記事の信頼性の基礎となりえないと考えられているように思われます(WP:NOR、WP:Vなど)。であるならば、史料に基づいて歴史上の出来事について記事を書く(まして既存の学説批判の文脈で記事を書く)というのは、少なくともWikipediaにおいては記述の信頼性の基礎たり得ないものを基礎としようとする試みであって、一言で言えば独自研究なのではないか、と考えます。
歴史学(およびその周辺)に限定してのことでも結構ですが、他の方の意見をお伺いしたく存じます。ここではなく別の箇所が適切であるということであれば、誘導いただけるとありがたいです。--ikedat76 2010年5月1日 (土) 23:22 (UTC)
- 「史料に書いてあること≠事実」であることは当然の前提であると考えます。史料がどういう立場で書かれたものなのか、そもそも(後世の人が偽作していない)本物かどうか、同じ書名でも版が違えば記述内容が異なることがあるとか、他の史料との整合性等、史料を扱う際には留意しなくてはならないことが多くあります。そういう判断を専門家ではない、あるいは専門家かどうかわからない人間が行いWikipediaを編集することは、記事の信頼性を損ねると思います。つまり、史料に書いてあるからといって安易にそれを書くことは独自の研究にあたるでしょう。--獨頭 2010年5月2日 (日) 00:15 (UTC)
- ◆Ikedat76氏と同様の疑問を感じる場面が、ノート:山縣有朋&oldid=23442739、ノート:冀察政務委員会、ノート:ルワンダでありました。竹槍事件(ノート / 履歴 / ログ / リンク元)東條英機(ノート / 履歴 / ログ / リンク元)では現在進行中です。信頼できる情報源の正式運用を図る方向で矛盾点を改訂していくように提案して頂ければと思います。johncapistrano 2010年5月2日 (日) 00:36 (UTC)
- WP:RSの正式運用ということで対応できることではないように思います。史料自体は信頼できる情報源であったとしても、それを誤用するという問題ですので。なお、en:Wikipedia:No original researchの12:29, 1 May 2010版を確認してみたところ、Primary, secondary and tertiary sourcesという節で本件に関する記述がありますが、日本語版とは相当隔たった記述になっています。WP:NORの改訂で対応すべきことなのかもしれません。仮訳を参考までに掲げます。大分意訳(超訳?)交じりなのはご容赦いただきたく。--ikedat76 2010年5月2日 (日) 01:14 (UTC)
信頼できるかたちで公刊された一次情報源(Primary sources)はウィキペディアで使用してもかまいませんが、慎重であるべきです。というのも、一次情報源は容易に誤用しうるからです。一次情報源に解釈を加えるには、信頼できる二次情報源が必要です。一次情報源は、教育のある人であれば誰でも特別な知識なしに確証しうるような記述的な叙述のみに限って使用できます。例えば、ある小説に関する記事において、プロットを記述するために一節を引用することはできますが、それに解釈を加えるには二次情報源が必要です。一次情報源に含まれる素材に対して、分析的・総合的・解釈的・説明的・評価的な言明はしてはなりません。記事全体を一次情報源にもとづいて執筆してはなりません。利用者の個人的体験から得た出典なき素材を追加してはなりません - というのも、そうした行為は、ウィキペディアをそうした素材の一次情報源にしてしまうからです。 — en:Wikipedia:No original researchの12:29, 1 May 2010版より仮訳
コメントある事実について論評した一次資料をWikipediaに追記するのと、ある事実の一時資料に対して投稿者が論評を合成するのは違うというだけです。当然前者の場合は一次資料に論評内容の記述が存在していますから出典で確認できます。後者の場合は出典にはWikipediaに書かれた論評に合致する記述が無いです。つまりWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成とは論評を合成することであり、回答するかどうかは論評が出典にあるか無いかの検証になります。--あら金 2010年5月2日 (日) 02:52 (UTC)
コメント「史料に基づいて歴史上の出来事について既存の学説批判の文脈で記事を書く」というのは「自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなこと」ですから、排除されるべき独自研究以外の何者でもないでしょう(個々の議論は見ていません)。
英語版の「Primary, secondary and tertiary sources」の記述への修正には賛成します。もっとも、書かれた時代や文化背景がそれほど現在の日本とは違わない「情報源」に基づいて、百科事典の項目として扱うような事柄の記事を書く場合、十分な先行研究がない分野では、情報源のコンテクストを考慮しつつ、「分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事」として、「教育のある人であれば誰でも特別な知識なしに確証しうるような記述的な叙述」によって書かざるをえないことも生じます。いわゆる「アップルパイ」事例の解釈として、もめることが多いという印象を持っているのですが、ここらへんのバランスをとるのが難しい。過度に一次資料からの記述を許容するのも問題ですが、同時に、ウィキペディアは、歴史的な事柄のみを扱うものではないので、史料の収集や史料批判、学説の積み重ねがある歴史分野などと同じようにはいかない部分も多いということは、ご理解ください。--Ks aka 98 2010年5月2日 (日) 13:48 (UTC)
コメント 編集競合したけど、そのまま。
まず、単純な指摘として、ikedat76さんが2010年5月2日に取り上げられたen:Wikipedia:No original researchに近い内容は、Wikipedia:信頼できる情報源#情報源にあります。そこではウィキペディアの記事の基礎として「一次資料」は奨励できないといったことが述べられており、現在のWikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料とは、矛盾しないまでもかなりの方向性の違いがあります。
ここからは私の意見ですが、想像するところ、このウィキペディアにおける「一次資料」「二次資料」という用語は、もともと「ウィキペディアは独自研究の発表の場ではない」という文脈で出てきたものではなかろうかと思います。Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料はそういう文脈・視点で書かれています。しかし、ikedat76さんが懸念されるように歴史分野などで古代の一次史料そのものを以って記事をかかれても困る、それは専門家の分析が必要なのだ、だから「一次資料」ではなく「二次資料」に基づくべきだ、という話も出てくるようになったのだろうと思います。(私の想像が混じっていますが)このような議論はよく理解できます。確かに、ウィキペディアは独自研究の発表の場ではないし、古代の一次史料を基礎にしてトンデモ歴史観を展開されても困ります。しかし、どちらもそれを「一次資料」「二次資料」という概念に落とし込んで、ウィキペディアが収録する多種多様な分野に押し広げるのは無理があると思えます。
つまり、「一次資料」が「二次資料」に比べてどうかということも含め、そもそも「一次資料」「二次資料」という区分・判断枠組みがあまり有用ではないだろうと思います。例えば…
A. 2世紀の探検家がある風習について報告している。そして、5世紀の思想家の著述がその報告を批判してる - その風習についての記事の場合、後者の著述は「一次資料」なのか、「二次資料」なのか
B. 現在店頭に並んでいて国会図書館にも献本されている小説 - その小説についての記事の場合、その作品それ自体は「一次資料」なのか、「二次資料」なのか
理屈でいえば、Aは「二次資料」(記事の対象についての報告についての記述だから)、Bはいわば「ゼロ次資料」(記事の対象それ自体だから)、ということになるだろうと思います。
しかし、ではAの場合、それが「二次資料」だからという理由で、その5世紀の著述が記事の直接の出典とするのにふさわしいとか、2世紀の報告それ自体よりも信頼できるとかいうのは、ナンセンスでしょう。どちらにせよ、現代の専門家による分析が必要なものに違いはなく、その程度も大差ないとしか言いようがありません。Bの場合、「ゼロ次資料」については方針・ガイドラインにおいて言及がありません(たぶん)。
ウィキペディアで記事を書くための資料、出典として利用する基準としては、概ね次の三つがあるだろうと私は考えています:
- その資料の内容が正しいか、妥当か、適切か - 「信頼性」「特筆性」の問題
- その資料を読者がアクセスしやすいか - 「検証可能性」の問題
- その資料の解釈の曖昧さや理解に必要な学識など - 「独自研究」の問題
この三つの基準のいずれも「一次資料」なのか「二次資料」なのかといった形式的な問題と密接に関係しているとはいえませんし、この三つの基準で判断するならば、「一次資料」「二次資料」という問題を別に判断する必要はないと思います。--mizusumashi(みずすまし) 2010年5月2日 (日) 14:32 (UTC)
- コメント こんばんは。「一次資料」や「二次資料」の扱いについては各分野で大きく違うところもあると思いますので、こうした話題は当該分野に的を絞ってやったほうがいいのではないかと読んでいて思いました。そういう意味で本題の歴史学については門外漢なのでコメントできませんが。本筋と外れたコメントですが、一つ上でmizusumashiさんが仰っているように、日本語版では創作作品記事でその創作作品そのものが「ゼロ次資料」扱いされたり、猿山の猿観察呼ばわりされることがよくあるのですが、最初にikedat76さんが翻訳してくださっているように(– en:Wikipedia:No original researchの12:29, 1 May 2010版より仮訳)、小説の記事でその小説そのものは「一次資料」とするのが(日本語版外での)世間一般の解釈ではなかろうかと思います。ついでに言えば創作作品系統の記事(文学分野)で、一次資料を抜きにして執筆するというのは些か抵抗がある行為です。少なくともまともな記事を書こうとした場合、私はまずやりません(一次資料だけで記事を書くという意味では勿論ありません)。(本筋と離れた脱線話ですので返信等不要です)--Giftlists 2010年5月2日 (日) 15:32 (UTC)