Wikipedia:コメント依頼/Sutabo
利用者:Sutabo(会話 / 投稿記録)さんが「自明」との理由で出典なしで特定人物へのレッテル貼り編集をすることについて、コメントを依頼します。--Zakinco(会話) 2014年2月20日 (木) 00:09 (UTC)
これまでの経緯
[編集]先日私(Zakinco)は、記事長谷川三千子の編集で出典の見当たらない
岩波文化人の大御所夫婦
という記述を「レッテル貼りを除去」という説明を付けて除去しました[1]。
これについて利用者:Sutabo(会話 / 投稿記録)さんは、「Zakincoさんよ、野上豊一郎・弥生子夫妻が何者か知らない貴方が無知なだけ」という説明で差し戻しをされました[2]。
出典がないことを説明しなかった私が悪かったのかなと思い「出典なし」との説明を付けて再び除去編集しました[3]。
Sutaboさんは再度除去編集を差し戻し、ノートページで議論を呼びかけられたので[4]、私はそこで議論しました。
議論
[編集]ノート:長谷川三千子#祖父母の野上豊一郎・弥生子についてと利用者‐会話:Sutabo#特定の人物を岩波文化人、正論文化人と記述することに関してでの議論をまとめます。
Sutaboさんの主張は以下です。
- 長谷川三千子の祖父母、野上豊一郎・弥生子は「岩波文化人」であることは「自明」なので記述する。除去をしたい人が自明でないことを証明すべき。
- 「自明」とは広辞苑によれば「何らの証明を要せず、それ自身ですでに明白なこと」をいいます。あなたが自明でないことを証明して下さい。
私(Zakinco)の主張は以下です。
- このようなレッテル貼りが自明であるなら、このようなが記述がなされているWikipedia:信頼できる情報源が多く存在するはず。
- Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にあるのでSutaboさんが出典を示すべき。
- Wikipedia:存命人物の伝記#出典無き批判は除去があるので、出典が付いていなければ除去は正当。
議論の詳細については、ノート:長谷川三千子#祖父母の野上豊一郎・弥生子についてと利用者‐会話:Sutabo#特定の人物を岩波文化人、正論文化人と記述することに関してをご覧ください。
私は、今回の場合は故人に対してですし、このようなレッテル貼りでも信頼できる情報源による出典があれば、編集者の責任で記述してもらってかまわないとは考えています。ですが、自身が自明だと仰る記述であれば新聞のデータベースを検索すれば何かしら出てくると思うのですが、そういった努力をしないでただ「自明」だから記述するということには反対です。私が出典を探しても良いのかもしれませんが、大きな図書館が近所にありませんし、新聞のデータベースを見られる契約もしていませんので、今すぐには難しいです。大きな図書館に行く機会があれば検索してみようとは思っています。
自身が「自明」と考えるから記述するというのは、Wikipediaの基本的な方針を理解していないという告白のようにも思います。場合によってはブロック依頼もやむを得ないと考えています。
みなさまのご意見をいただければと思います。--Zakinco(会話) 2014年2月20日 (木) 00:09 (UTC)
Sutaboさんのコメント
[編集]Googleで「岩波文化人」を検索すると約 208,000 件ヒットします。このことから、「岩波文化人」という言葉が特殊な言葉でなく、一般に使われている言葉であることがわかります。これについて学者が規定した例としては、法政大学大原社会問題研究所兼任研究員吉田健二が「“岩波文化人”と呼ばれた安倍能成・津田左右吉ら同心会のグループ」としています[5]。そして野上夫婦が安倍能成らの同人であることは、野上豊一郎の項目や、[6]を見れば分かります。
①と②が自明なのは、それが事実上の定義だからです。「朝日・岩波文化人」と揶揄するのでなく、政治的にも全く中立な定義になるでしょう。「岩波文化人」という言葉があまりに一般的に使われる言葉であるため、web上ではあまり定義しているページはありませんが、①と同義の定義をした個人のページとして「岩波書店で継続的に本を出版できる人を岩波文化人とか言ったりする」という[7]がありますが、そもそも岩波から全集全26巻を出している野上弥生子を、一般用語である「岩波文化人」とすることに何か異存がありますか?
②と同義のものとしては、ノンフィクション作家の杉田望[8]が、「岩波文化人という言葉は岩波の人脈と同義である」としています[9]。「岩波」とは岩波茂雄のことです。そしてその中核をなすのが夏目漱石門下グループだということをご存知ない? 野上夫婦が漱石門下だと16日に書いたことで、これに関してはすでに証明が終わっているのですよ。
野上豊一郎・弥生子が「岩波文化人」であるというのは、私の世代では常識なのですがね。『迷路』とか読んでいないんですか?--Sutabo(会話) 2014年2月20日 (木) 11:17 (UTC)
コメント
[編集]- 文学は門外漢の第3者で、「岩波文化人」なる単語も知らないド素人です。出典なしに存命人物記事への加筆はダメです(これは当然)。ノートで提示された出典ですが、1は単なるリスト、2は全く関係ない話、3と4は個人ブログなので除外。野上豊一郎や野上弥生子は拝見していませんが、もしそういう記述があれば、その記述の出典を提示すれば良いだけ。Sutabo様が仰るように「日本近代文学史の常識」であれば、「岩波文化人」なる単語が出ておらずとも、関連する内容が記載された出典程度は提示できるはずです。私も最近別の分野で常識の真偽を問われたので、7つほど出典を提示しましたが、そのうち3つはすぐに見つかりました。「常識」であれば出典が見つかり、「常識と思い込んでいたもの」は出典が見つかりません。--JapaneseA(会話) 2014年2月20日 (木) 05:02 (UTC)
- (Sutabo様 2014年2月20日 (木) 11:17 (UTC)コメントを受けて)一言で言えば「独自研究」以外の何物でもありません。google検索は最初のページと最後のページで物凄く件数が変わります。"岩波文化人"("でくくると余計なものにはヒットしない)で検索した最終ページは184件です。それを以って一般的であるとも、一般的でないとも判断できません。5番の出典とそれ以外を合成する事は、Wikipedia:独自研究の「情報の合成」です。杉田氏を用いての内容も「情報の合成」です。まずはWikipedia:独自研究を読んで下さい。「迷路」と言われても、私はド素人です。その「迷路」という書籍?雑誌?に「野上豊一郎と野上弥生子は岩波文化人である」と書いてあるのですか?書いてあれば、その出典を以って「『迷路』によれば野上豊一郎と野上弥生子は岩波文化人であるとしている」と記述できますね。ちなみに広辞苑やイミダスや現代用語の基礎知識に「岩波文化人」って書いてあるのでしょうか?なお個人サイトは提示されてもそれは無視しますので。--JapaneseA(会話) 2014年2月20日 (木) 12:23 (UTC)
- コメント JapaneseAさんがおっしゃられている事と重複しますが、現在Sutaboさんによって提示されている情報・材料だけでは「野上豊一郎と野上弥生子は岩波文化人である」というのは独自研究と言わざるを得ず、ウィキペディアに書くべきではないと言わざるを得ません。Wikipedia:独自研究は載せないに抵触せず、かつ信頼できる情報源に基づいているのでない限りは書くべきではありません。端的に申し上げて、ウィキペディアに記載するには、ウェブ上の個人のページなどではなく、Wikipedia:信頼できる情報源に照らして問題のない情報源(理想的なのは専門書籍)において「野上豊一郎と野上弥生子は岩波文化人である」とはっきり書いてある必要があるでしょう。「同心会グループ=岩波文化人」→「岩波文化人=岩波の人脈」はまぁ論拠があるのでいいとしても、そこからさらに「岩波の人脈の中核=夏目漱石門下グループ」→「夏目漱石門下グループ=野上夫婦」→「野上夫婦=岩波文化人」とやられちゃうと、ちょっと物事の説明として苦しいんじゃないかと思いますね。下線を引いたところがまさに(現時点では)「独自研究」ではないのでしょうか。--Rienzi(会話) 2014年2月20日 (木) 13:18 (UTC)
- コメント 被依頼者Sutaboさんは「○○を読んでいれば当然に理解できるはず」の意味で「自明」と仰っているようですが、Wikipediaというのはその○○を読んでいない人間にも開かれている、ということを理解されていないです。理解の前提となる教養を共有していない者であっても記述の確からしさを確認できるように「検証可能性」という基本方針が立てられていることを理解してください。Wikipediaが読者に対して、Sutaboさんが期待するほどの教養を要求していない事実に関して、Sutaboさんが失望したり幻滅したりするのは勝手ですが、Wikipediaが要求する以上の教養を読者に期待するのであればWikipedia外でやってください。--Cossy(会話) 2014年2月20日 (木) 13:33 (UTC)
- 野上豊一郎は岩波書店から57冊、弥生子に至っては146冊も本を出しているのですよ。しかも豊一郎は、漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員の一人です(安倍能成『岩波茂雄伝』より)。--Sutabo(会話) 2014年2月20日 (木) 14:34 (UTC)
- 返信 (Sutaboさん宛) えーっと、まさか「野上豊一郎は岩波書店から57冊、弥生子に至っては146冊も本を出しており、しかも豊一郎は、漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員の一人」だから、「岩波文化人」と呼ぶ事は妥当だ、野上夫婦が岩波文化人であるというのは「自明の事」である、ということをおっしゃられているのではありませんよね・・・?--Rienzi(会話) 2014年2月20日 (木) 14:46 (UTC)
- 「岩波文化人という言葉は岩波の人脈と同義である」に野上豊一郎が含まれる事例です。野上弥生子に至っては、なぜ「岩波文化人」にカテゴライズされないのか、世代的に理解が出来ません。--Sutabo(会話) 2014年2月20日 (木) 14:55 (UTC)
- 返信 (Sutaboさん宛) 「『漱石全集』編集委員」が「岩波人脈」の「中枢」である、ということに関して、適切な出典・情報源を示していただければ、(それで即「野上豊一郎=岩波文化人」とはならないにしても)「野上豊一郎」と「岩波文化人」という言葉を結びつける手がかりになるかもしれません。一方、野上弥生子に関しては、現時点に至るもなお、「岩波文化人」とカテゴライズする事が妥当であることが、適切な出典・情報源によっては示されていないと言わざるを得ない状況です。Sutaboさんが「世代的に理解が出来ない」というだけでは「野上弥生子=岩波文化人」と記事本文に記載する事は出来ません。--Rienzi(会話) 2014年2月20日 (木) 15:05 (UTC)
- 「漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員の一人」としているのであって、「『漱石全集』編集委員」が「岩波人脈」の「中枢」である」とは書いていません。安倍能成の『岩波茂雄伝』でも、「岩波書店の大を成した最も重大な契機が、『漱石全集』の刊行にあつたことは疑ない」としています(144ページ)。野上豊一郎の親友である安倍能成も編集委員の一人です。--Sutabo(会話) 2014年2月20日 (木) 15:23 (UTC)
- 返信 (Sutaboさん宛) 私の質問の仕方が悪かったようで申し訳ございません。改めて一点お訊ねしますが「漱石門下の岩波人脈の中枢となる」という表現については、『岩波重雄伝』にそのように書かれているのでしょうか?それともSutaboさんのオリジナルでしょうか?もう一点お訊ねしたいのは「漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員」は「岩波文化人(「岩波文化人という言葉は岩波の人脈と同義である」に野上豊一郎が含まれる事例)」であるとした文献・資料があるかないか、ということです。度重なる質問で申し訳ありません。(Sutaboさんには大変申し訳ないのですが、現在ご提示いただいている情報では「野上豊一郎は、漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員である」→「岩波人脈は岩波文化人(と同義)である」→「野上豊一郎は岩波文化人である」というふうにしか見えないのです・・・)--Rienzi(会話) 2014年2月20日 (木) 15:51 (UTC)
- 野上豊一郎、安倍能成、岩波茂雄は一高、東大の同級生(岩波は一高のみ)で親友なんですよ。旧制高校は全寮制だから、文字通り「同じ釜の飯を食った」、戦後の日本では考えられない理屈抜きの親友。しかも野上弥生子の甥、小手川力一郎[10]の証言によれば、「三人は、大変仲が良くて死んだあとも一緒に居ようという事になり、鎌倉市の東慶寺に野上と岩波と安倍能成の三人の同じ形をした墓が三つ並んで建てられております。野上弥生子もそこへ葬られたわけです」とのこと[11](墓のことは、さすがに初めて知った)。そんな三段論法を経る必要はないのです。
- なお、岩波書店が昨年、大学教授3人に社史を書かせており、その第2巻を佐藤卓己という京都大学准教授が担当していますが、「岩波文化人」という言葉は何の定義もなく使われています。日本大学教授の紅野謙介が担当した夏目漱石と岩波書店との絡みを扱う第1巻は貸し出し中なので予約しましたが、佐藤卓己が「岩波文化人」を定義しなかったのと同様、別に定義はしていないでしょう。少なくともアラフィフ以上の世代で高校・大学教育を受けた者にとって、「岩波文化人」というのは、特に定義するまでもない普通名詞なんですよ。常識は語られないから、web上ではあまり出てこないんじゃないですか? 私らの世代にとっては、夏目漱石の小説は中学・高校時代までに全部読んでいなければ恥ずかしい代物だったし、高校の現代国語の授業は、そうした生徒の教養を前提に日本近代文学史の説明をしていましたから。「岩波人脈は岩波文化人と同義である」ということは了解されているようですから、野上豊一郎・弥生子夫婦を「岩波文化人」とすることに何の問題もないと思いますが。明日、明後日は仕事で朝が早いので、今晩は遅くまではお付き合いできません。--Sutabo(会話) 2014年2月21日 (金) 11:37 (UTC)
- 返信 (Sutaboさん宛) 詳しくお答えいただきありがとうございました。「野上氏、安倍氏、岩波氏が親友だった」ということは「岩波文化人」という単語とは直接的に結びつくものではない、という事、そもそも、岩波書店発行の「社史」において「岩波文化人」という語は定義なく使われている(つまり法政大の吉田氏や作家の杉田氏の「岩波文化人の定義」が正当なものであるかどうか不明)という事、「野上豊一郎・弥生子夫婦は『岩波文化人』である」と言及し定義した文献がないことがよくわかりました。また、Sutaboさんのおっしゃる「アラフィフ以上の世代で高校・大学教育を受けた者にとって、『岩波文化人』というのは、特に定義するまでもない普通名詞」ということに関しては、私個人は即座には首肯しかねますので、今後他の方のコメントの待たれるところかと思います。現時点でSutaboさんが提示して下さった様々な情報・資料が「野上夫婦=岩波文化人」を裏付けるものかどうかは、これから様々な方のコメントが集まる中で明らかになるでしょう。Sutaboさん、私の度重なるお願いにも関わらず、ご回答くださりありがとうございました。--Rienzi(会話) 2014年2月21日 (金) 12:05 (UTC)
- Sutabo様へ。「常識」がWEBで見つからない事は多々あると思います。しかしその場合は文献で見つかると思います。文献にも見つからなければ、(よほどレアな分野でない限り)「常識でなく思い込みだったのではないか?」と疑うべきかもしれません。後は「第1巻」の記載次第ですね。それまではその記述の加筆を控えて下さい、でないと独自研究を強行すると判断されますので。なお、第1巻に記述があったところで、「~によれば~は岩波文化人と称される」という書き方になります。ちなみに、貴方の御提示の年齢条件を満たし、かつ文学に造詣のある方2名に伺いましたが、そのような単語は御存知ないそうです。少なくとも一般用語ではないと判断できますね。--JapaneseA(会話) 2014年2月21日 (金) 12:38 (UTC)
- 「「野上氏、安倍氏、岩波氏が親友だった」ということは「岩波文化人」という単語とは直接的に結びつくものではない」というのが理解しかねます。野上豊一郎が「岩波茂雄人脈」の人間⊂「岩波文化人」であることを示したのですから。
- 長谷川三千子のノートに書いたように、「①岩波書店から多数の著作を出している人物が岩波文化人なのはあまりにも自明」というのは、「正論」の執筆メンバーが正論文化人といわれるのと同じではないですか? 「正論」の執筆メンバーを正論文化人と呼ぶのを否定しますか? 国会図書館のOPACで検索すると、野上豊一郎を著者とする岩波書店からの本は57冊、弥生子に至っては146冊もあるのですよ。
- また、「「野上豊一郎・弥生子夫婦は『岩波文化人』である」と言及し定義した文献がない」とは書いていません。何しろ夏目漱石、野上豊一郎・弥生子夫婦らについて言及している岩波の社史の第1巻が、いま図書館で貸出中で予約しているところですから。さらに吉田・杉田両氏のは定義ではなく例示でしょう。どちらも「岩波文化人」の一部の人々の属性を述べただけで、「岩波文化人」全体を定義しているわけではないですから。たとえば杉田氏のが定義なら、岩波茂雄の没後は「岩波文化人」は新たに生まれないことになります。「岩波茂雄人脈⊂岩波文化人」であって、逆ではありません。
- とにかく京都大学・佐藤准教授が「岩波文化人」という言葉を定義なしに使っているのは、彼にとって定義するまでもない常識的な言葉だからでしょう。
- >かつ文学に造詣のある方2名に伺いましたが、そのような単語は御存知ないそうです。
- そんな言葉を普通、京大准教授が定義もなしに使いますか? 信じがたいですね。--Sutabo(会話) 2014年2月21日 (金) 12:45 (UTC)
- 追記
- >「常識」がWEBで見つからない事は多々あると思います。しかしその場合は文献で見つかると思います。
- 現に京大准教授が岩波の社史で定義なしに使っている言葉なのですが。--Sutabo(会話) 2014年2月21日 (金) 12:49 (UTC)
- 『「岩波文化人」という言葉が定義なく使われていた』と明言いただきました。この意味するところは、Sutaboさんが主張するような「定義の必要のない普通名詞である」ということではなく「定義の不明なままに用いられている曖昧模糊とした概念である」ということです。少なくとも検証可能性を外部文献に依拠するWikipediaにとっては、そうなります。「誰と誰が親友」だの「墓が並んでる」だの、そういった事実関係をまとめてWikipedia外で「岩波人脈」なり「岩波文化人」に関して論じられた文献があって、その後でそれを参照する形でWikipediaの記述が成立するのです。Wikipedia内で「事実関係をまとめる」行為を独自研究という用語で呼び、忌避されています。Sutaboさんの意識しているところは「岩波人脈」なり「岩波文化人」なる概念の整理にはたいへん有用と存じますが、Wikipediaはそれをする場所ではないのです。--Cossy(会話) 2014年2月21日 (金) 12:57 (UTC)
- 返信 (Sutaboさん宛) 私の質問の仕方が悪かったようで申し訳ございません。改めて一点お訊ねしますが「漱石門下の岩波人脈の中枢となる」という表現については、『岩波重雄伝』にそのように書かれているのでしょうか?それともSutaboさんのオリジナルでしょうか?もう一点お訊ねしたいのは「漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員」は「岩波文化人(「岩波文化人という言葉は岩波の人脈と同義である」に野上豊一郎が含まれる事例)」であるとした文献・資料があるかないか、ということです。度重なる質問で申し訳ありません。(Sutaboさんには大変申し訳ないのですが、現在ご提示いただいている情報では「野上豊一郎は、漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員である」→「岩波人脈は岩波文化人(と同義)である」→「野上豊一郎は岩波文化人である」というふうにしか見えないのです・・・)--Rienzi(会話) 2014年2月20日 (木) 15:51 (UTC)
- 「漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員の一人」としているのであって、「『漱石全集』編集委員」が「岩波人脈」の「中枢」である」とは書いていません。安倍能成の『岩波茂雄伝』でも、「岩波書店の大を成した最も重大な契機が、『漱石全集』の刊行にあつたことは疑ない」としています(144ページ)。野上豊一郎の親友である安倍能成も編集委員の一人です。--Sutabo(会話) 2014年2月20日 (木) 15:23 (UTC)
- 返信 (Sutaboさん宛) 「『漱石全集』編集委員」が「岩波人脈」の「中枢」である、ということに関して、適切な出典・情報源を示していただければ、(それで即「野上豊一郎=岩波文化人」とはならないにしても)「野上豊一郎」と「岩波文化人」という言葉を結びつける手がかりになるかもしれません。一方、野上弥生子に関しては、現時点に至るもなお、「岩波文化人」とカテゴライズする事が妥当であることが、適切な出典・情報源によっては示されていないと言わざるを得ない状況です。Sutaboさんが「世代的に理解が出来ない」というだけでは「野上弥生子=岩波文化人」と記事本文に記載する事は出来ません。--Rienzi(会話) 2014年2月20日 (木) 15:05 (UTC)
- 「岩波文化人という言葉は岩波の人脈と同義である」に野上豊一郎が含まれる事例です。野上弥生子に至っては、なぜ「岩波文化人」にカテゴライズされないのか、世代的に理解が出来ません。--Sutabo(会話) 2014年2月20日 (木) 14:55 (UTC)
- 返信 (Sutaboさん宛) えーっと、まさか「野上豊一郎は岩波書店から57冊、弥生子に至っては146冊も本を出しており、しかも豊一郎は、漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員の一人」だから、「岩波文化人」と呼ぶ事は妥当だ、野上夫婦が岩波文化人であるというのは「自明の事」である、ということをおっしゃられているのではありませんよね・・・?--Rienzi(会話) 2014年2月20日 (木) 14:46 (UTC)
- 野上豊一郎は岩波書店から57冊、弥生子に至っては146冊も本を出しているのですよ。しかも豊一郎は、漱石門下の岩波人脈の中枢となる『漱石全集』編集委員の一人です(安倍能成『岩波茂雄伝』より)。--Sutabo(会話) 2014年2月20日 (木) 14:34 (UTC)
(インデント戻し)いや、ですから「一般用語」でなく「専門用語」なのでしょう。佐藤准教授にとって「常識的な言葉」でも一般人は知りません。私の得意とする分野は科学全般、とりわけWikipediaでは天文分野を多く編集しておりますが、その分野の準教授の使用する「常識的な言葉」など、私レベルでは知らない事の方が多いでしょう。何にせよ、1巻を御覧になってからコメント下さい。それまでは水入りという事で。--JapaneseA(会話) 2014年2月21日 (金) 12:58 (UTC)
- 「岩波文化人」という言葉が岩波の社史で使われているということは、岩波書店が社として認めた用語だということを示すと思いますが。なお物理学の分野では、夏目漱石の一番弟子である寺田寅彦が岩波文化人に数えられますが。まあ、ともかくは社史の第1巻を見てからということで。--Sutabo(会話) 2014年2月21日 (金) 13:07 (UTC)
コメント 現時点では「岩波文化人」という言葉は結局「定義不詳の単語」と言わざるを得ない状況ですので、Sutaboさんから「社史」第1巻の内容について情報が寄せられるまで、一旦「水入り」とすることに賛成です。(というか、この場でのやり取りの内容は、そもそもコメント依頼の場が妥当なのか、それとも各記事のノートが妥当なのか・・・)--Rienzi(会話) 2014年2月21日 (金) 13:12 (UTC)
- 当該記事のノートでされるべき内容だと思います。--Sutabo(会話) 2014年2月21日 (金) 13:16 (UTC)
- 私もそれには最初から疑問を感じていました。確かに独自研究とはいえど、利用者のコメント依頼とする程のものなのか?また、合意形成のコメント依頼が出され、その数日後というのは性急すぎるように思います。まー今更こういうのも何ですが。--JapaneseA(会話) 2014年2月21日 (金) 13:22 (UTC)
- とはいえ、当コメント依頼を通してSutaboさんに検証可能性とか独自研究とかいった、Wikipediaの根幹に関する不理解があるのは明らかになったと思います。「京大准教授でさえ定義不定の曖昧な用語を使いうる、況や一介のWebユーザをや」という概念が欠落している人に編集に携わられるのは、Wikipediaプロジェクトに対する重大な危機と言わざるを得ないでしょう。--Cossy(会話) 2014年2月21日 (金) 13:28 (UTC)
- 「Wikipediaプロジェクトに対する重大な危機」とか話を大げさにしたがりますね。嫌がらせですか?--Sutabo(会話) 2014年2月21日 (金) 13:33 (UTC)
- とはいえ、当コメント依頼を通してSutaboさんに検証可能性とか独自研究とかいった、Wikipediaの根幹に関する不理解があるのは明らかになったと思います。「京大准教授でさえ定義不定の曖昧な用語を使いうる、況や一介のWebユーザをや」という概念が欠落している人に編集に携わられるのは、Wikipediaプロジェクトに対する重大な危機と言わざるを得ないでしょう。--Cossy(会話) 2014年2月21日 (金) 13:28 (UTC)
コメント依頼者のZakincoです。みなさまコメントありがとうございます。私がコメント依頼に至ったのは、Sutaboさんが「岩波文化人の大御所夫婦」という記述を「自明」との理由で記述しようとしたことで、これについてSutaboさんとノートや会話ページで議論した結果、Wikipediaの方針を理解されているか疑問に思ったことが原因です。コメント依頼がコミュニティに負担をかけることは十分に理解しているつもりですし、できれば直接対話で解決したかったのですが、私との対話では「自明」の一点張りで、Wikipediaの方針を理解していただくことは難しいと思いコメント依頼に至りました。
「自明」云々については多くのコメントで現状の出典では独自研究と判断されてもやむを得ないという判断が出ているように思います。このような判断が出て、Sutaboさんは出典を探す努力をされているようなので、SutaboさんがWikipediaの方針に従うつもりがないかもしれないという疑問は晴れました。Sutaboさんも今回のような編集はWikipediaでは独自研究とみなされるということは理解されたと思います。余計なお世話ですが、Sutaboさんには自身の過去の編集で似たような編集をされていないか自己チェックをしていただければと思います。
出典を提示しての「岩波文化人の大御所夫婦」との記載が妥当かどうかという議論は、ノート:長谷川三千子#祖父母の野上豊一郎・弥生子についてで議論を継続したいと思います。
コメントいただいた方、依頼を見ていただいた方にお礼を申し上げます。ありがとうございました。--Zakinco(会話) 2014年2月21日 (金) 15:44 (UTC)
- コメントSutaboさんは、まず「Wikipedia:検証可能性」「Wikipedia:独自研究は載せない」をよく読んでみていただきたいと思います。ある人物が、どういうコミュニティに属し、どういう属性を持つかというのは、その人物について関心を持ち、知識を持たなければ、それほど明らかなものではありません。そうした知識を、その記事を調べようとしている百科事典の読者に期待することはできないでしょう。ウィキペディアは、誰が書いたかわからないし、誰でも書けるので、できるだけ外部の情報源を示すことで正確性を担保し、読者にもそれが提供されることで、読者自身も確認することができ、さらにより広い、深い情報へと導かれます。これは、ウィキペディアの性質に由来あする、通常の百科事典、論文、ブログ、レポートと、ウィキペディアの大きな違いです。
- ウィキペディアの読者は、ウィキペディアが誰でも書けることは知っているので、書かれていることを鵜呑みにしない(するべきではない)けれど、調べようとしている主題のことは知らないのですね。そこで、おまえは無知だからわからないのだと言い放つようでは困ります。この人たちは、岩波文化人です。なぜなら、(俺はこう考えるからではなく)この本やこの研究でもそう紹介されています、と教えてあげる。
- ただ、「岩波文化人」は、けっこう前から揶揄的に使われることもありますし、いろいろな意味が内包されていて、時代のなかで様々なニュアンスを含みつつ用いられている語でもありますから、岩波と関係が深い、進歩的な思想を持つ、というような、より具体的・説明的な表現に改めるほうが好ましいと思います。
- Zakincoさん、コメントをつけているみなさんも、記事の主題についての新聞や本、岩波文化人についての本などを調べてみてください。まずはネットで検索するだけでもいいです。調べていく中で、直接の情報源を見つけることができるかもしれませんし、確かに両夫妻が岩波文化人とするのが自明、または十分許容できるものだということを知ることになるかもしれません。そういった努力をしないでただ相手が情報源を示さないことだけを理由に除去したり、自分のほうから対話を呼びかけなかったりというのは、適切な振る舞いとはいえません。
- 十分調査する余裕がない時には、知識はあるが、不慣れな執筆者をサポートするつもりで臨んでいくのがよいと思います。ウィキペディアにおいて適切ではない編集だという指摘は、ある程度記事の主題に詳しい執筆者さんからすると、間違いと言われている、不確かと言われているように受け取られがちです。そういう視点から見れば、おまえはわかってない、といわれるのもしょうがない。この記事では、「岩波文化人」というのは、それほどおかしくない説明ですし、根拠も示されていますから、「レッテル貼り」と呼ぶべきではありません。アップルパイ案件とするほど自明ではなく、直接の情報源が示されていないだけなら、そのように指摘しましょう。そうではなく、たとえば夫妻が、その思想や仕事、交友関係から「岩波文化人」とみなされるとしても、それは表層的なものであり、たとえば当人の意識として「岩波文化人」ではないということが、回想録や随筆で示されているなら、「レッテル貼り」と言ってもいいかもしれませんが。誰でも編集できて、共同作業で作る百科事典であるウィキペディアの特性から、その内容が正しいかどうかは関係なく、こういうふうに編集してほしい、ということを上手に伝えるにはどうしたらいいか、考えましょう。--Ks aka 98(会話) 2014年2月22日 (土) 02:08 (UTC)
- コメント 私自身のコメントをノートへ転記しましたが、転記先で取り消しましたので、転記先へリンクすること自体不適切と判断し、ここにあった私のコメントをコメントアウトさせていただいております。--Rienzi(会話) 2014年2月25日 (火) 16:04 (UTC)