ノート:長谷川三千子
この記事は2014年5月1日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、版指定削除となりました。 |
この項目では存命人物を扱っているため、公式方針である存命人物の伝記を厳守する必要があります。訴訟になりそうな記述については、出典が明記されていなかったり、信頼性に乏しい情報源を出典としている場合、直ちに除去しなければなりません。{{要出典}}や{{要検証}}などのタグを貼るなどして記述の出典を求める行為は、このケースにおいては間違った対応です。そのような記述を残したままにしないでください。名誉毀損のおそれのある記述については特にこれが強く当てはまります。 |
憲法9条については
[編集]憲法9条については「日本の武士道精神を体現するもの」として、護るべきと主張している。
ソースがないため削除
--以上の署名の無いコメントは、210.145.7.82(会話/Whois)さんが 2006年9月23日 (土) 16:07(UTC) に投稿したものです(Type20(会話)による付記)。
著書『からごころ』
[編集]「『日本人であることに気づいてしまつ』(著書『からごころ』より)た」と持論を述べる哲学者、評論家。Uryah 2007年6月23日 (土) 00:40 (UTC)
- 雑誌論文だの講演録だの論集への寄稿だのまで載せる必要はない。ファンサイトでも作ってそこでやってくれ。116.83.34.160 2010年3月23日 (火) 14:16 (UTC)
祖父母の野上豊一郎・弥生子について
[編集]長谷川三千子の祖父母、野上豊一郎・弥生子について「岩波文化人の大御所夫婦」と書かれるのが嫌な人がいます。しかし長谷川三千子の右翼文化人としての特異性は、岩波文化人一家という、普通では「左翼」と考えられがちな家庭に育ちながら、天皇を現人神視する右翼に育ったことにあります。事実は事実です。長谷川三千子の家庭的バックボーンが「左翼」だと知られると都合が悪いのでしょうか?--Sutabo(会話) 2014年2月16日 (日) 12:31 (UTC)
- 記述内容について議論する以前の問題です。Wikipedia:存命人物の伝記、Wikipedia:出典を明記するをお読みください。Sutaboさんが確認された出典をお示しください。出典が示されなければ除去します。--Zakinco(会話) 2014年2月16日 (日) 15:14 (UTC)
- 示された出典を確認しましたが「岩波文化人」との記述を見つけられませんでした。信頼できる出典で、誰がどの程度の業績をもって「岩波文化人」とその二人を評価したのか示してください。Sutaboさんの意見は記述することはできません。--Zakinco(会話) 2014年2月16日 (日) 23:40 (UTC)
- ①岩波書店から多数の著作を出している人物が岩波文化人なのはあまりにも自明だし、②岩波茂雄のサロンのメンバーが岩波文化人なのも自明です。「正論」の執筆メンバーが正論文化人といわれるのと同じです。野上夫婦が岩波文化人でないというなら、①と②が自明でないことか、野上夫婦が①と②に当てはまらないことを証明して下さい。--Sutabo(会話) 2014年2月17日 (月) 16:23 (UTC)
- これ以上の議論は、記事の内容には関係のない物ですので、Sutaboさんの会話ページ(利用者‐会話:Sutabo)に移動します。--Zakinco(会話) 2014年2月17日 (月) 23:07 (UTC)
- 私は①と②が自明だと考えています。「自明」とは広辞苑によれば「何らの証明を要せず、それ自身ですでに明白なこと」をいいます。ですから、あなたが①と②が自明でないことを証明して下さい。なお、合意形成前の削除は取り消しておきます。--Sutabo(会話)2014年2月19日 (水) 15:07 (UTC)
Sutaboさんには、広辞苑の記述による「自明」ではなく、Wikipedia用語としての「検証可能性」を踏まえた上での「自明」の意味を理解していただきたい。Wikipediaに記述しようとする限り、①②が(Wikipedia的な意味で)「自明」であることを証明する責任があるのは、記述を望むSutaboさんの方です。Wikipedia的には、外部の情報源に「確かにその表現がある」事実を以て「たしかである」ことを担保するのです。関係者(だけ)の常識によるのではない。 だいたい、「岩波文化人」ちゃら言う記述を記載しようとする根拠に広辞苑の記載を頼るなど、岩波書店視点もいい所じゃないですか。--Cossy(会話) 2014年2月19日 (水) 15:26 (UTC)
- 報告 Wikipedia:コメント依頼/Sutaboを出しました。自明云々についてはコメント依頼の方にコメントください。--Zakinco(会話) 2014年2月20日 (木) 00:27 (UTC)
- 岩波文化人の定義はさておき、その「岩波文化人」というのはしょせん、当記事の主題である人のおじいちゃんおばあちゃんのことですよね。おじいちゃんおばあちゃんの独自記事で言及されてないことを、たかが孫の記事のページで書かなきゃいけない理由は無いと思うんですが。--Cossy(会話) 2014年2月20日 (木) 15:13 (UTC)
- 野上豊一郎の項にも、野上弥生子の項にも、岩波茂雄との交流についてはほぼ皆無です。せいぜい豊一郎の同級生として名が挙がっているくらい。おじいちゃんおばあちゃんの項の記述が不十分である可能性も多分にありますが、本人自身に関する以上に祖父母の交流関係を記述しなきゃいけない理由は無いでしょう。--Cossy(会話) 2014年2月21日 (金) 13:07 (UTC)
こんにちは。コメント依頼と重ねて書きます。
- ご夫妻は、岩波文化人と呼んでも差し支えない経歴ですし、端的に家庭環境を説明する言葉であり、この記事の主題となる人物の立場、捉え方を説明する上では欠かせない内容だと思います。この点では、Sutaboさんがおっしゃることはもっともなんです。
- ひとまず、「Wikipedia:検証可能性」「Wikipedia:独自研究は載せない」をよく読んでみていただきたいと思います。ある人物が、どういうコミュニティに属し、どういう属性を持つかというのは、その人物について関心を持ち、知識を持たなければ、それほど明らかなものではありません。そうした知識を、その記事を調べようとしている百科事典の読者に期待することはできないでしょう。ウィキペディアは、誰が書いたかわからないし、誰でも書けるので、できるだけ外部の情報源を示すことで正確性を担保し、読者にもそれが提供されることで、読者自身も確認することができ、さらにより広い、深い情報へと導かれます。これは、ウィキペディアの性質に由来あする、通常の百科事典、論文、ブログ、レポートと、ウィキペディアの大きな違いです。
- ウィキペディアの読者は、ウィキペディアが誰でも書けることは知っているので、書かれていることを鵜呑みにしない(するべきではない)けれど、調べようとしている主題のことは知らないのですね。そこで、おまえは無知だからわからないのだと言い放つようでは困ります。この人たちは、岩波文化人です。なぜなら、(「俺はこう考える」からではなく)この本やこの研究でもそう紹介されています、と教えてあげる。
- ここでのやりとりで実感できると思いますが、「岩波文化人」は、Sutaboさんが思っているほど、どこででも通用する言葉ではなかったりします。出版文化や、日本の啓蒙思想に関心を持つ人の間では常識ですし、百科事典の編集に関わり、そうした分野の編集に関わるならば、常識として知っているようなものではありますが、逆に読者にとっては、三千子のことを理解する上で、未知の単語として出会う可能性もあるものかもしれません。
- また、「岩波文化人」は、揶揄的に使われることもありますし(岩波そのものの立ち位置や、岩波という言葉が体現する思想の立ち位置も変化していますし)、いろいろな意味が内包されていて、時代のなかで様々なニュアンスを含みつつ用いられている語でもありますから、ここでもめるよりも、岩波と関係が深い、進歩的な思想を持つ、というような、より具体的・説明的な表現に改めてはいただけませんか?--Ks aka 98(会話) 2014年2月22日 (土) 02:22 (UTC)
- Ks aka 98さん、援護射撃どうも有り難うございます。「岩波文化人」という言葉を「知らないことが偉い」とでも言いたげな、反知性主義、反教養主義的なコメントに辟易しておりました。
- Ks aka 98さんが「出版文化や、日本の啓蒙思想に関心を持つ人の間では常識」とおっしゃる通り、大学業界界隈で飯を食っている人間なら、「岩波文化人」という言葉は、文系であれ理系であれ、常識です(理系にも岩波文化人は多数いる)。語っている本人にとって常識であれば、その言葉は定義されません。岩波書店の創立100周年社史第1巻の著者紅野謙介も大学教授(日本大学文理学部教授)ですから、おそらく「岩波文化人」という言葉を定義なしに使っているでしょう。
- 私が「①岩波書店から多数の著作を出している人物が岩波文化人なのはあまりにも自明だし、②岩波茂雄のサロンのメンバーが岩波文化人なのも自明です」とし、「①と②が自明でないことを証明して下さい」としたことにZakincoさんが逆上して、私を投稿ブロックに追い込むためコメント依頼を出した訳ですが、反証可能性の開かれている仮説に対して、反証してみて下さい、反証できなければ、その命題は正しいというのは、学問的に、しごくまっとうな論法です。しかし、その後にコメントされた方は、この反証可能性の議論が通じる相手とは思えなかったので、個別の論点にのみ回答していました。
- さて、「岩波文化人」という言葉ですが、これはKs aka 98さんの使われた言葉を用いれば、岩波茂雄が岩波書店の創業者として個人的ネットワークを駆使して形成し始め、現在に至るコミュニティを表す言葉だと思います。単に「進歩的な思想を持つ」ということではなく、特に大学業界で飯を食っている人間にとっては、コネクションを表す言葉でしょう。Ks aka 98さんが「端的に家庭環境を説明する言葉であり、この記事の主題となる人物の立場、捉え方を説明する上では欠かせない内容だと思います」とおっしゃる通り、長谷川三千子という人間が飯を食ってきたコミュニティを表現する言葉として、これほど適当な言葉はないと思います。
- 長谷川三千子の経歴を見ると、東京都立新宿高校から東京大学へ入る時に1浪した様ですが、その後は大学院修士課程2年を修了した後(これは普通)、博士課程に3年いただけで助手となり、助手の任期3年を終えてすぐに埼玉大学教養学部講師に就職しています。これは、哲学科という就職の極めて難しい領域であることと、博士課程・助手時代に特に傑出した論文を発表したわけでもないこと(現にここの項目で話題にもなっていない)を考えると、順調すぎるほど順調なキャリアコースです。大学業界という、就職にコネ・家柄が一番モノを言う世界の論理で考えれば、「岩波文化人」の家系に育ったことが、長谷川三千子の順調な経歴に影響した可能性は極めて高いと言えます。京都産業大学の髙嶌英弘という教授[5]が、Twitterで「どんなにトンデモであっても、バックボーンたる親族の面々は無敵艦隊ですから批判や悪口なんか届きゃしなさそう」と書いている通り[6]、家柄的に、長谷川三千子は大学業界で無敵です。そのニュアンスを表現するには、「岩波と関係が深い、進歩的な思想を持つ」と言い換えてしまっては、「岩波文化人」という言葉が持つ“厚み”(“曖昧さ”ではない)が薄れてしまい、薄っぺらな、限定されたものになってしまうと思います。Cossyさんが「「岩波文化人」というのはしょせん、当記事の主題である人のおじいちゃんおばあちゃんのことですよね。おじいちゃんおばあちゃんの独自記事で言及されてないことを、たかが孫の記事のページで書かなきゃいけない理由は無いと思うんですが」と言うのは、大学図書館に勤務されていたとは思えない、大学業界への無知をさらけ出しているとしか言い様がありません(大学業界の事情に疎い大学事務職員というのも、確かに見てきましたが)。
- 私が「長谷川三千子の右翼文化人としての特異性は、岩波文化人一家という、普通では「左翼」と考えられがちな家庭に育ちながら、天皇を現人神視する右翼に育ったことにあります」と書いた様に、岩波文化人一家からこのような正論文化人の中でも際立って右寄りな論客が登場したことは、長谷川三千子の特異性以外の何物でもありません。長谷川三千子と高校時代に同級生だったと自称する氷室隆というライターが、Twitterで「彼女は高校時代からの生粋の反米右翼。高三の国語の授業で日本の伝統を否定した『菊と刀』に猛然と喰ってかかった。私を含めクラスメート全員がビックリした権幕で」としていますが[7]、長谷川三千子の高校時代、野上弥生子はまだ健在ですから、古典的岩波文化人野上弥生子の孫娘が反米右翼に育ったこと自体、ひとつのニュースです。これは、宮本顕治の孫に正論文化人が生まれたことに匹敵するニュースです(私が暗に長谷川三千子をにおわせて「「正論」の執筆メンバーが正論文化人といわれるのと同じです」と皮肉を書いたのに、コメントされた方が誰も突っ込んで来ないことも、私を失望させた点です)。これは突拍子もないたとえ話ではなく、野上弥生子が宮本百合子とも深い交流があり、「同伴者作家」と呼ばれた「プロレタリア文学運動の組織外にありながら立場・主張の近かった」人物であり、Wikipediaの同伴者の項目の中に野上弥生子も挙げられていることからすれば、それなりに妥当性のあるたとえ話です。
- この岩波文化人のコミュニティの中で成長し、さらに就職した可能性が高い人物が、岩波文化人に多い「左翼」を盛んに攻撃しているということは、恐ろしく皮肉な、あるいはもっと言えば恩知らずな行為なわけです。ですから、Ks aka 98さんが「この記事の主題となる人物の立場、捉え方を説明する上では欠かせない内容だと思います」と言うのはおっしゃる通りで、岩波文化人の家庭に育ったということは、長谷川三千子を説明する上で欠かせない事柄だと思います。
- Wikipediaも「フリー百科事典」であると「百科事典」であることを名乗っているわけだから、鵜呑みにしてはいけないにしても「百科事典」なわけです。何も知らない人が「長谷川三千子」の項目を検索するのは当然ですが、その項目に記述する側も無知でいいわけはないでしょう。それとも、Cossyさんに言わせれば、何も知らない人が何も知らない人にものを教えるのが理想なのですか? JapaneseAさんとCossyさんには、反知性主義、反教養主義が濃厚にうかがわれますので。私が書いた①と②には「反証可能性」が開かれているということは、取りも直さず、「Wikipedia:検証可能性」があるということなのですよ、論理的に。--Sutabo(会話) 2014年2月23日 (日) 14:01 (UTC)
- 返信 (Sutaboさん宛) 「JapaneseAさんとCossyさんには、反知性主義、反教養主義が濃厚にうかがわれます」などというSutaboさんの発言は、明らかにお二方に対して言い過ぎであり、「暴言」の域に達しているといわざるを得ません。撤回する事をお勧めいたします。Wikipedia:検証可能性の最初に書かれている事、即ち「百科事典を編纂する際、良い記事を執筆するためには、広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです」ということを大切にするならば、まずは適切な出典に基づいて「岩波文化人」の定義を明らかにし、その上で、各々の記事に「岩波文化人」という言葉を記載するに足る情報(「○○は岩波文化人である」と言及した情報など)を見つけてくる、ということが必要でしょう。Ks aka 98さんに対して「援護射撃どうも有り難うございます」とおっしゃられていますが、そのKs aka 98さんのコメントに「ひとまず、『Wikipedia:検証可能性』『Wikipedia:独自研究は載せない』をよく読んでみていただきたいと思います」とあることを思い出して下さい。今、「業界人(およびSutaboさん)の中で常識であり、自明の事である」というだけで、百科事典の人物記事に「○○は岩波文化人」である、と書く事が、本当に適切でしょうか。結局の所、現時点ではまだ、ウィキペディア上では、情報が乏しいために「岩波文化人」という言葉は「業界の方」(とその業界に精通した方々)の間で「定義なく」使われている言葉、すなわち「用例はいくつか見つかるが明確な定義が不明」の言葉、に留まっているわけで、専門用語なのかジャーゴンなのかも曖昧です。その状況を打破するためにSutaboさんは岩波の『社史』第1巻を取り寄せておられるのでしたよね。私は、Sutaboさんからどのような情報が寄せられるかを楽しみに待っています。長文失礼いたしました。なお、このコメントに対する返信は不要です。--Rienzi(会話) 2014年2月23日 (日) 15:47 (UTC)
- Sutabo様へ。貴方は最初「一般用語」だと仰ってましたよね?上記の貴方の御説明を見るに、どう見ても専門家限定用語です。そのような専門家限定用語をいきなり使用しても、理解できるのは貴方と大学・出版関係者のみです。専門家限定用語には、きちんと出典を用いて、私ごとき門外漢を黙らせて下さい。それでは『社史』第1巻を楽しみにしています。--JapaneseA(会話) 2014年2月23日 (日) 18:06 (UTC)
- Rienziさんへ。反知性主義、反教養主義というのは、ある種の人々、特に岩波文化人、その中でも「朝日・岩波文化人」に強い敵意を抱くような人にとっては貶し言葉ではなく褒め言葉であるという事をお忘れなく。また「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実」という点では、岩波文化人という言葉が、岩波書店の創立100周年記念社史第2巻という、最初の原稿執筆者は京都大学准教授であっても、下は岩波の担当編集者から、上は当然、岡本厚社長(元『世界』編集長だから原稿読みのプロ)までが入念に原稿をチェックしたはずの書物の中で、何の定義もなく堂々と使われていることが確認できた、岩波書店公認の言葉であることもお忘れなく。しかも岩波文化人という言葉は、そこに含まれる独特の高踏的な“臭み”から、岩波書店にとって必ずしも100%有り難い言葉ではないのに、創立100周年記念社史の中で使っているということも。
- さらに「岩波文化人」という言葉が“専門用語”かという点については、明らかに“一般用語”です。文系・理系を問わず学術書も手広く扱っていて、その道の権威ある出版社である岩波書店の創立100周年記念社史が、社史類によくあるような大判の非売品ではなく、専門書なら300ページ程度の本でも1万円前後する御時世に、2千円台という価格の一般書籍として売り出され、出版業界紙でない一般紙に書評が掲載され[8]、公立図書館の一般書籍の書棚で貸し出されており、その社史の中で、学術的な用語に敏感であるはずの岩波書店が、何の定義もなく、カギカッコもつけずに、地の文で「岩波文化人」という言葉を使用しているということは、岩波書店にとって「岩波文化人」という言葉は、アップルパイ案件と同様に常識的な自明の言葉であるということです。少なくとも、岩波書店が自社の創立100周年記念社史の読者として想定した教養水準の読者にとってはアップルパイ案件と同じだと考えていることは明らかです。
- 「岩波文化人」という言葉を「知らないのが偉い」とでも言いたげな、「私ごとき門外漢を黙らせて下さい」という姿勢は、「民衆を無知の状態から解放しよう」という百科全書の啓蒙主義以来、近代の営みの中で積み重ねられてきた「百科事典」の根本思想に正面から喧嘩を売るものです。「門外漢」で「知らない」ことを自慢するなら、「百科事典」の端くれであるWikipediaの編集に参加すべきではありません。何も知らない人が何も知らない人にものを教える、啓蒙主義とは対極の世界が理想のようですから。Cossyさんが、私がWikipediaの編集に参加することが「Wikipediaプロジェクトに対する重大な危機」だとしましたが、JapaneseAさんの姿勢は「百科事典」というツールそのものを否定しようとするものであり、そのような風潮が「Wikipediaプロジェクト」の中で蔓延しているとしたら、それこそ重大な危機です。「門外漢」で「知らない」ことを自慢するJapaneseAさんを論理的に説得することが可能でしょうか? 「門外漢である」こと、「知らない」ことに恥じらいを持つのが、「百科事典」というツールの根底にある啓蒙主義の基本です。「門外漢」で「知らない」という自覚があるなら、「知らない」ことに口を出さずに「黙っている」べきです。--Sutabo(会話) 2014年2月24日 (月) 13:53 (UTC)
- 返信 (Sutaboさん宛) なるほど、「ある種の人々」にとっては「反知性主義」「反教養主義」というのは「褒め言葉」なんですね。ご教示いただき有り難うございます。しかし、Sutaboさんのコメントは「JapaneseAさん、Cossyさんへの褒め言葉」とは到底読み取れませんでした。まぁ結局、撤回はなさらないという事ですね。・・・えーっと、「岩波文化人」という言葉は「専門用語」ではなく「一般用語」だとおっしゃられていますが、どうなのでしょうか。Sutaboさんは「社史の中で、学術的な用語に敏感であるはずの岩波書店が、何の定義もなく、カギカッコもつけずに、地の文で『岩波文化人』という言葉を使用しているということは、岩波書店にとって『岩波文化人』という言葉は、アップルパイ案件と同様に常識的な自明の言葉である」「岩波書店が自社の創立100周年記念社史の読者として想定した教養水準の読者にとってはアップルパイ案件と同じだと考えていることは明らか」(下線はRienziによる)とおっしゃられておりますけれども、それって「岩波書店にとっては定義の必要ない自明の言葉」「岩波書店の社史を読むような教養水準のある人間にとって定義の必要ない自明の言葉」ってことですよね。それは、「岩波書店」および「岩波書店の社史を読むような教養水準の方々」だけにとっては定義の必要ない自明の言葉であって、(一般書籍として扱われている社史の中で、「岩波書店公認」で使われているとしても)それを「一般用語」と言い切るのは無理があるんじゃないかと思うんです。失礼を承知で申し上げますが、現在提示されている情報と資料だけでは、「岩波文化人」という言葉は「岩波書店と、ある一定の教養水準のある人間だけに通じる、用例豊富だが定義不詳のジャーゴン」としか言えないと思います・・・ので、私としては、先にも述べた通り、Sutaboさんから『社史』の中身についてどんな情報が寄せられるのか、待っているわけです。真に「岩波文化人」という言葉が百科事典で使われるにふさわしい言葉であるならば、それまでその言葉を知らなかった人にも、「ここでこう定義されている、こういう言葉です」と説明する事が出来るような情報が、きっと見つかるでしょう。話がちょっとそれますが、私が専門とする音楽の業界でも、「芸大アカデミズム」とか「東音パルス楽派」、さらに「○○楽派」などといった、「ある一定以上のレベルの音楽に関する専門教育を受けた人間と、現代音楽愛好家(マニア)だけに通じる、用例は豊富だが全く定義不詳のジャーゴン」が沢山使われています。しかし、ここに例示した言葉は、業界内で結構使われていて一旦はウィキペディア上で単独記事にもなったのに、今は全て記事が削除され赤リンクになっている(他の音楽関連の記事本文でもこれらの言葉を使う事はなるべく避けられている)ということの意味を、Sutaboさんにちょっと考えてみていただきたいな、と思いました。長文失礼いたしました。--Rienzi(会話) 2014年2月24日 (月) 15:34 (UTC)
- Sutabo氏へ。そろそろ怒ってもいいでしょうか?一体いつ私が無知である事を自慢しましたか?貴方の言っている事は「『M78星雲』は一般用語だ。だってウルトラ怪獣大百科で何の説明もなく使用されている」と同じ事です。ウルトラマンを知らない人には、M78星雲など通用しません。それと同じ事です。貴方が注文中の出典が来るまで、これでもう相手にしませんので。--JapaneseA(会話) 2014年2月24日 (月) 15:52 (UTC)
現状の出典からは「岩波書店から多数の著作を出している文化人の夫婦」という事実より以上のことは記述すべきではないでしょう。「岩波文化人」という文言については、これこれこういう人たちをそう定義するとした出典が示されるか、辞書に載るまではWikipediaで使用しない方が良いと思います。「大御所」については評価が分かれると思いますので、その人物をそのように評価している出典が必要です。
SutaboさんはWikipedia:個人攻撃はしないをお読みください。論争の相手を○○主義と決めつけるような言動はお止めください。謝罪し撤回してください。--Zakinco(会話) 2014年2月24日 (月) 16:41 (UTC)
コメントええと。一般用語ってのは、学術用語、専門用語ではないってことです。学術用語ってのは、何らかの形で宣言的に定義されます[9]。法学分野における「図書館」は、図書館法で規定されます。それを共有することで、詳細な議論が成り立つ、とされている。もっとも、分野によってはそれほど厳密ではなくて、混乱も生じますけれど。
岩波文化人というのは、論壇とか批評とかの世界で使われる言葉です。それで、どういうものを指すか、共有されている。そのような意味での一般用語です。さっきと対比すれば「本がたくさんある建物とかなんとか」が、一般用語としての「図書館」ですね。術語集、専門事典ではない百科事典は、一般用語とそれが指す事物や概念を結び付けなければなりません。「岩波文化人」の用例は、ぐぐればたくさん出てきますし、それで雰囲気もつかめると思います。ブログなどでは足りないなら、ciniiやNDLサーチでも見てください。用例としてPDFp.5、[10] p.51など。森茉莉のエッセイでも出てきます。大塚信一『河合隼雄-心理療法家の誕生-』[11]で定義らしいものが出てくるかも。いちおう、教養(社会人として必要な広い文化的な知識[12])を持つ人なら知ってるような言葉ですから、現代音楽愛好家(マニア)と同一視はできませんし、「全く定義不詳のジャーゴン」でもありません。「芸大アカデミズム」とか「東音パルス楽派」とかは、情報源を示すということが最後まで理解して頂けなかった利用者が作成した記事ですから、ここで例示するのは適切ではないです。
十分用例はあって、その言葉を使う人たちの間では、概念としてはだいたい共有されています。そういう言葉は、百科事典として説明すべきものではないですか? しかし、宣言的な定義が得られるとは限りません。誰かが、簡潔に言語化しているかもしれませんが、それもまた記名的な定義に過ぎない。岩波側、岩波文化人側が定義するものではなく、外部からなされるもの。だから、定義らしき定義をしようとすると、否定的なニュアンスが入る。『正論』周辺とか、ニューアカとかから、あいつらは「岩波文化人」というような感じ。網羅的、包括的に定義を試みるような論文が出てくることもありますが、得られるのはごく限られた言葉です。そうした場合、WP:Vを満たしながら、WP:NORに留意して、記事を書くことになります。
Sutaboさんがおっしゃるように、ぼくは大学の学部は理系でしたけど、「岩波文化人」がどういうものを指すかは、おおよそ共有できていると思いますし、当時の周りの友人たちでも8割がたは、言えば伝わったと思います。ちょっと世代の違いってのも大きい気もしています。ここでのやりとりからも分かるように、もはや「岩波文化人」という概念が、共有できない時代になっているんですよ。なので、前のコメントで書いたとおり、夫妻が「岩波文化人」であることは否定しないが、別の言い回しも検討したほうがいい、と申し上げました。長谷川三千子さんは、NHK経営委員としての顔があり、ニュースで取り上げられたりもしていますから、「岩波文化人」では伝わらない読者も少なくないと思うんですよ。
野上夫妻が岩波文化人に当てはまるかどうか、については、ブログですが、研究者による弥生子を主題とした研修合宿報告要旨[13]、以下は専門家のものではないと思われますが、[14]とか、[15]とか、 [16]とかが見つかりました。あとは、岩橋邦江『評伝 野上弥生子』で出てきたりしませんかね。--Ks aka 98(会話) 2014年2月24日 (月) 19:15 (UTC)
- うーん、「岩波文化人」云々については「世代の違い」が、Sutaboさん、Ks aka 98さんが思っておられるよりも、うんと大きいのかもな・・・と思いますね。私自身が「一般用語」という言葉の意味を狭めて考えすぎていたような気もしますが、Ks aka 98さんにご説明いただいてもなお「学術用語」でも「専門用語」でもないから「一般用語」、なのかな・・・?という感じがします。(私のカタくてカラッポの頭ではよくわからないんですが、ある特定の範囲で「学術用語」「専門用語」でもなく特段厳密な定義もなしに概念を共有して使われている言葉、は、「特定の範囲における一般用語」ってことなんでしょうか・・・?)今回、Sutaboさんが書き加えようとしておられる事柄が、本文上で「岩波文化人」と表現する事できちんと伝わるのか、それとも「別の言い回し」で表現したほうがきちんと伝わるのか、そのあたりがポイントですね・・・。「岩波文化人」って言葉に「否定的・揶揄的・侮蔑的」なニュアンスもあるならば、百科事典で使うのは慎重であった方が良いと思います。(まぁぶっちゃけ、自ら検索をしてこの記事や野上夫婦の記事にたどり着くような人にとっては「岩波文化人」って言葉は「定義されていなくてもわかる自明の言葉」なんだと思うんで、ここまであれこれ議論しなくてもいいような気もしてきましたが、「否定的な意味」をも内包する可能性があるなら、やっぱり安易に使うべきでないですし、慎重であるべきでしょう)そもそも私にとって「専門外」のことであり、基本的に私の知識・知見が活かせるような場ではない(知識的に皆さんに追いついていけない)以上は、これ以上私が参加し続けると皆さんにご迷惑をおかけしてしまいそうなので、ここでのこともありますし、私は退場いたします。Sutaboさんに関しては、コメント依頼の方でコメントをする事は、あるかもしれませんが。--Rienzi(会話) 2014年2月25日 (火) 02:58 (UTC)
- なるほど、「一般用語」という範囲に入る事は理解しました。大勢の一般人に通用しないけど「一般用語」になる場合もあるのですね。--JapaneseA(会話) 2014年2月25日 (火) 05:30 (UTC)
- 自分で言い出した単語でそれはないと思うぞ。別に一般用語という「専門用語」があるわけではなかったと思いますけど。なお、『M78星雲』は、この文脈でいう一般用語ではありません。フィクションの設定という形で定義されていますから、その定義の解説がなければ、ウルトラマンを知らない人には分からないのは当然です。区別ができないのなら、区別ができている人に対して、偉そうな態度で相手にしないほうが賢明です。--Ks aka 98(会話) 2014年2月25日 (火) 14:37 (UTC)
- 「自分で言い出した単語」とは「一般用語」の事でしょうか?で、あれば私が最初でなくSutabo様の「2014年2月20日 (木) 11:17 (UTC)」が最初です(Wikipedia:コメント依頼/Sutaboでの御発言)。「一般用語」とは一般人が知っている用語だと私は思いました。それが誤りだと仰るのであれば、その点に関してはSutabo様に御詫びします。話が横道にそれ過ぎなのでこの辺で。--JapaneseA(会話) 2014年2月25日 (火) 14:48 (UTC)
- 自分で言い出した単語でそれはないと思うぞ。別に一般用語という「専門用語」があるわけではなかったと思いますけど。なお、『M78星雲』は、この文脈でいう一般用語ではありません。フィクションの設定という形で定義されていますから、その定義の解説がなければ、ウルトラマンを知らない人には分からないのは当然です。区別ができないのなら、区別ができている人に対して、偉そうな態度で相手にしないほうが賢明です。--Ks aka 98(会話) 2014年2月25日 (火) 14:37 (UTC)
- Ks aka 98さんの「もはや「岩波文化人」という概念が、共有できない時代になっている」というのは強く感じますね。少なくとも1980年代以前に大学教育を受けたアラフィフ世代以上にとっては、「岩波文化人」という言葉は常識でしょう。しかし反教養主義が格好良かったアラフォー世代[17]以下には通用しないかもしれない。しかしそれを「大勢の一般人に通用しない」と言っていいかどうかは分かりません。少なくとも私の祖父母の世代の論壇では、「岩波文化」という言葉は「講談社文化」(=大衆文化)に対する概念(高級文化、高踏的文化)として、今よりはるかに普通に使われていたと思います。
- 「野上豊一郎・弥生子は岩波文化人夫婦」というだけでは、今の若い人に通じないというのであれば、「夏目漱石門下の岩波文化人夫婦」としてはどうでしょうか? これなら、ものを知らない若い世代が読んでも、何となく「夏目漱石門下⊂岩波文化人」というのが通じると思います。しかし岩波文化人という言葉そのものを言い換えてしまっては、岩波文化人という言葉が持つ“厚み”が失われると思います。
- なお、「岩波書店にとって「岩波文化人」という言葉は、アップルパイ案件と同様に常識的な自明の言葉であるということです」というのは事実に関する命題ですが、「少なくとも、岩波書店が自社の創立100周年記念社史の読者として想定した教養水準の読者にとってはアップルパイ案件と同じだと考えていることは明らか」というのは、私の推論にすぎません。したがって「岩波書店の社史を読むような教養水準のある人間にとって定義の必要ない自明の言葉」というのは、私の推論の上にRienziさんが推論を重ねているにすぎません。
- 「「否定的な意味」をも内包する可能性があるなら」については、「岩波文化人」という言葉が持つ高踏的な“臭み”を承知の上で岩波書店が創立100周年記念社史で用いているのだから、問題ないでしょう。
- なお、私としては、反証可能性の問題として、学問的にしかるべき手続きとして反証を求めたのにもかかわらず、突然、投稿ブロックを狙って個人攻撃を仕掛けてきたZakincoさんにこそ謝罪を求めます。上の用例や、寺山修司の有名な「書を捨てよ町へ出よう」式の反教養主義賛美から言っても、反教養主義や反知性主義は貶し言葉ではなく、価値中立的な言葉で、受け取る側がどういう立ち位置を取っているかで違ってくる言葉です。--Sutabo(会話) 2014年2月25日 (火) 12:51 (UTC)
- Wikipedia編集者に対して、Wikipediaの方針について説明すること、ある編集についてコメント依頼で広く意見を求めること、Wikipediaの方針への理解を確認すること、が個人攻撃と言われてしまうと、Wikipediaでの議論は不可能です。
- ただ、Sutaboさんはコメント依頼等に慣れていないようですし、会話ページでの議論にも不慣れのようで、自身へのコメント依頼に多分に戸惑われたと思います。コメント依頼を出す前にもう少し時間をかけて丁寧に議論するべきであったと反省しています。この点についてSutaboさんに謝罪をいたします。
- Wikipedia歴の大変長いKs aka 98さんが「岩波書店から多数の著作を出している文化人」は「岩波文化人」であると仰っているので、『特定人物を「岩波文化人」と呼称することはレッテル貼りで削除されるべきではないか?』という私の提案は間違っていたと判断し、「岩波文化人の大御所夫婦」との記述が出典不足であるという私の指摘を取り下げます。新聞の検索ができる場所に行く機会があればそこで検索して(おそらく「岩波文化人」の用例が何かしら出てくるでしょうから)出典として追加したいと思います。
- 私の議論不足、説明不足による混乱した議論に巻き込んでしまった編集者の方々には、大変不愉快な思いをされた方がいらっしゃると思います。深くお詫び申し上げます。--Zakinco(会話) 2014年2月25日 (火) 15:42 (UTC)
- ちょいまち。べつに責めるつもりもないですけど、ウィキペディアでのキャリアと、岩波文化人についての知識は、まったく関係ないですよ。「レッテル貼り」ではないけど、「出典不足」なのは正しいですから、指摘は取り下げなくてもいい。あたってみてほしいけど、新聞の検索では出てこない気がする。そんなこんなで調べたり考えたりしていると、知ることは多いですし、調べ方もわかってきますですよ。--Ks aka 98(会話) 2014年2月25日 (火) 16:00 (UTC)
- 念のため書いておくと、基本的には、「岩波文化人」ってのは、単に「岩波書店周辺の文化人」という、読んだままの意味です。「岩波書店から多数の著作を出している文化人」を、岩波文化人と呼びます。そう呼んでいる用例は示しました。呼んでいない用例があったら示してください。
- 「岩波書店周辺」ってのは、岩波茂雄を中心に(編集者も含め)、形成されている執筆者の一群だということは自明ですし、より具体的には『世界』や岩波からの書籍、とりわけ「講座」のシリーズなどに執筆している人たちを指すということも自明でしょう。
- 岩波は、アカデミズムとしての権威、序列とも微妙にずれながら(いわゆる学術出版社とは毛色が異なります)、独自の権威を持ちます。その独特の性質を持つがゆえに、「岩波文化人」という言葉が通用するのですね。朝日文化人とか正論文化人という言葉も使われることがあります。
- ただし、記事を一つ書いたからといって「岩波文化人」とされるわけではなく、執筆頻度や茂雄との交友関係など、濃淡があります。「岩波書店から多数の著作を出してい」かつ「岩波茂雄のサロンのメンバー」で、思想的にも違いがないなら、普通は「岩波文化人」です。ここまで、とりたてて専門的な知識や、追うのが難しい理屈はないと思います。
- Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるかで示されている独自研究ってのは、「ぼくが知らないこと」や「情報源が示されていないもの」じゃなくて、「ぼくが知ってることと違うこと」や「どうも理屈がおかしいこと」「どうもバランスがおかしいこと」や「なんか前提が違うんじゃないかってこと」、「知ってることが書かれているはずなのに、何か違うことになってるもの」です。--Ks aka 98(会話) 2014年2月25日 (火) 14:37 (UTC)
「大学業界という、就職にコネ・家柄が一番モノを言う世界」などは、とんでもない主張です。大学の一部で影響を与えるところがあるかどうかしりませんけど、大部分は関係ないのは明らかです。4歳くらいのときに亡くなった祖父、同居しているかどうかも分からない祖母、伯父について具体的にどんな影響を与えたという話ぬきに記述する意味はほぼないと思います。それが、「「岩波文化人」の家系に育ったことが、長谷川三千子の順調な経歴に影響した」という妄想を暗示するなら、むしろ積極的に除くべきでしょう。--T6n8(会話) 2014年2月25日 (火) 23:09 (UTC)
- 岩橋邦枝『評伝 野上弥生子』(新潮社、2011年)によれば、野上弥生子は東京都世田谷区成城で長男野上素一と同じ敷地に住み、次男野上茂吉郎は隣家、三男野上耀三(長谷川三千子の一家)は向かいに住んでいたそうです。実質的な4世帯同居でしょう。そして大学教授の息子達の誰よりも高収入だったそうです(201ページ)。
- 大学教授はWikipediaの世襲の項目に、世襲されがちな職業の代表例のひとつに上がっているほどです。私の周りにも二世教授はたくさんいるし、中には三世もいます。国立大学で教授をしている叔父さんのコネで、その大学に就職したと明言している友人もいますし、父親が学長をしている国立大学に“公募”で就職した後輩もいます。旧帝国大学の中でも“横綱”とされる大学で、父親の教授職そのものを息子が継いだ事例も知っています。地方国立大学で、旦那が教授、奥さんが助手という研究室もあったし、ここに書けばGoogle検索で容易に特定される、もっと酷い情実人事が旧帝国大学でも行われている。国立大学でさえこれですから、私立大学においておや。T6n8さんは教育社会学でいう「世代間再生産」という概念をご存知ないのでしょうか?
- まあ、何より私が言いたいのは、一般的に「正論文化人」にカテゴライズされる長谷川三千子が、「正論文化人」とは対極に位置すると考えられがちな「岩波文化人」の家庭に育ち、祖母の理想としたようなものを激しく攻撃しているということです。精神分析でいう「父親殺し」ならぬ「祖母殺し」ということになりましょうか。--Sutabo(会話) 2014年2月26日 (水) 10:51 (UTC)
Ks aka 98 さんの「『岩波文化人』は(明確な定義なしに人口に膾炙している語彙としての)一般用語」「野上夫妻は(Ks akaさんのさす意味での)一般用語」という説明には同意いたします。一方でSutabo さんの「『岩波文化人』は(明確な定義をするまでもない語彙としての)一般用語」という説明には全く同意できません。
Sutaboさんが私Cossyを評した「Cossyは反知性主義・反教養主義であり、反岩波文化人派には褒め言葉」との表現は、全く的外れなレッテル貼りであると明言しておきます。私Cossyは「Wikipediaで言及するならWikipedia流のルールを守れ、明示的に言及してる出典を示せ」と言っているだけです。反知性主義とかアンチ/シンパ以前に、「岩波文化人」の輪郭を典拠によってはっきりさせてくれ、正体がハッキリしなければ擁護も反発もしようがないのです。長ながとご高説いただいたのはご苦労様ですが、要するに「複数の情報の合成」の表明です。Wikipediaのルールでは「やってはいけない」とされてることです。
さて、Sutaboさんからはさらに「正論文化人」という(これまた明確な定義を伴わない)『一般用語』を用いた主張が出てきたわけですが、まさか存命人物に対する評価としてそのまま使う訳じゃないですよね。--Cossy(会話) 2014年2月27日 (木) 14:54 (UTC)
- 岩波書店の創立100周年社史第2巻では、最初の岩波講座である『岩波講座 世界思潮』の執筆陣を「元祖「岩波文化人」」としており(36ページ)、野上豊一郎もその一人です[18]。つまり岩波の100年社史で野上豊一郎が岩波文化人であることを認めています。--Sutabo(会話) 2014年3月8日 (土) 13:31 (UTC)
- 出典の提示と検証ありがとうございます。ところで「岩波書店の創立100周年社史第2巻」というのは「物語岩波書店百年史」の第2巻[19]のことでしょうか?--Zakinco(会話) 2014年3月9日 (日) 00:31 (UTC)
- 前から書いているように、その本ですよ。--Sutabo(会話) 2014年3月9日 (日) 11:55 (UTC)
- 佐藤卓己(著)「物語岩波書店百年史」第2巻、p.36にて、岩波講座の執筆者たちを元祖「岩波文化人」と括弧付きで記述されていることを確認いたしました。この本によると「岩波文化」という語句はかなり前から使われているようです。--Zakinco(会話) 2014年3月12日 (水) 13:01 (UTC)
- 野上豊一郎を元祖岩波文化人とすることは、岩波書店創立100周年社史が認めているので異議ありませんね。Ks aka 98さんも「「岩波書店から多数の著作を出してい」かつ「岩波茂雄のサロンのメンバー」で、思想的にも違いがないなら、普通は「岩波文化人」です。ここまで、とりたてて専門的な知識や、追うのが難しい理屈はないと思います」としていますし、野上豊一郎・弥生子は「岩波文化人の大御所夫婦」ではなく「夏目漱石門下の岩波文化人夫婦」としてはいかがでしょうか?--Sutabo(会話) 2014年3月14日 (金) 12:53 (UTC)
- 出典に忠実であるなら括弧付きの岩波文化人でしょうね。ですが、Sutaboさんの提案に対して特に異論はありません。--Zakinco(会話) 2014年3月14日 (金) 16:27 (UTC)
不要な記述を除去します
[編集]IP:1.115.11.47(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)さんはこの編集で「不要な記述を削除」と称して出典のある「一族とはいえ思想的には左右が入り乱れている」という記述や「渋沢家との繋がりも深いエリート一族である」という記述を除去しておりますが、「一族とはいえ思想的には左右が入り乱れている」や「渋沢家との繋がりも深いエリート一族である」が「不要」なら「岩波文化人」もまた「不要な記述」ではないでしょうか。出典があれば何を書いても良いという訳ではありません。故に利用者:Sutabo(会話 / 投稿記録 / 記録)さんには申し訳ありませんが、「岩波文化人」という記述も除去します。--114.179.81.37 2015年9月16日 (水) 11:15 (UTC)
不祥事・批判について
[編集]明確なルールがあるわけではありませんが、一般的に、個人の犯罪・事故・不正行為などを「不祥事」とは言いません。2015年7月4日版までは「その他」に含まれていた内容を、わざわざ「不祥事・批判」と項目を立てて記載する「無名の投稿者」の悪意すら見え隠れする内容です。さらに言えば、もっと明白に悪質で極悪な不祥事や批判であっても、このような書き方をしているページをまず見ません、削除してよいと思いますが、いかがでしょうか。--以上の署名の無いコメントは、Brilliantcut(会話・投稿記録)さんが 2016年7月7日 (木) 05:53(UTC) に投稿したものです(Type20(会話)による付記)。