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Wikipedia:コメント依頼/Dakarananyanen

利用者:Dakarananyanen会話 / 投稿記録 / 記録さんの、各ノートにおける合意形成の姿勢・取り組みについて、コメントを依頼します。--Uenozuki会話2024年7月28日 (日) 15:42 (UTC)[返信]

これまでの経緯

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Dakarananyanenさん(以下、被依頼者)は2018年8月11日 (土)にアカウント作成。依頼提出時点で1,906回の編集、主に横溝正史の小説を映像化された作品記事に関わり、他の推理小説の映像化記事も編集しています。現在、プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#「原作との違い」の改訂提案にて、利用者が一次資料(原作と映像化の双方)を比較して箇条に書き連ねる編集は、

  1. ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません
  2. 二次資料を典拠とせず、WP:PSTSの「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません」

に抵触するため、改訂が話し合われています。

被依頼者のみ、この改訂に反対しているのですが、その活動は原作を映像化(映画・ドラマなど)された作品記事に「原作との違い」という節を設け、被依頼者が原作と映像化された作品それぞれを視聴して気づいた違いを、二次資料を示さずに細々箇条書きの編集を頻繁に行っていることからだと考えます。上記2点を理由とした除去が行われると、被依頼者は必ず差し戻しを行い、編集履歴でも確認できます。この問題は3年前のノート:病院坂の首縊りの家 (映画)#「原作からの改変の概要」の位置づけや、改訂案が提出されるきっかけとなるノート:沈黙のパレード#「原作との違い」についてでも、被依頼者が各ノートで持論を繰り広げ、議論が長引く原因となっています。

第三者からは、

と被依頼者の編集を全面的にアウトとするコメントをされ、対話姿勢では、

と指摘され、議論中の相手からも、

  1. 「正直申し上げてDakarananyanenさんの行動はWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないに該当しかねないと思います。」(差分:プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド
  2. 「Dakarananyanenさんにおかれましては、責任転嫁を繰り返し、無意味な論点を出してきて議論を攪乱するのはおやめください。あなたが現在やっておられるのはWikipedia:妨害的編集#いつまでも納得しないであると考えます。」(差分:プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド

と、言われています。

これらに対して被依頼者は、自説を曲げずに詭弁を弄して本題から逸脱を繰り返し、上記3つのノートで被依頼者に賛同している利用者は誰もいないのが実情です。そのほかにも議論における被依頼者の発言は

  1. 「事実は一部の「過激派」とも言うべき人々が破壊的な情報除去を系統的に行い、」(差分:プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド
  2. 「もっとWP:COUNTSORTなみに自明な事例がいくらでも考えられるのに避けるという神経が解らない。」(差分:プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド
  3. 「何が何でも話題を逸らして、本来の論点から逃げる気なんでしょうかね。」(差分:プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド
  4. 「どんな無理をしてでも話題を逸らそうとするんですね。困った人です。」(差分:プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド
  5. 「なるほど、どうやらさえぼーさん自身が論点を混乱しているようですね。」(差分:プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド
  6. 「「原作との違いの記述は全面禁止」というルールを捏造したい人々が付け込む隙にもなっているわけですから。」(差分:プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド

等々、相手からすると合意形成を図ろうという言動には全く受け取れず、当該ノートでは議論相手が発言していないことを言ったと声高に主張したので、相手から

と抗議を受けましたが、謝罪をしていません。--Uenozuki会話) 2024年7月28日 (日) 15:42 (UTC)--Uenozuki会話2024年7月31日 (水) 12:34 (UTC)[返信]

依頼者のコメント

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私は被依頼者が記事の品質向上を図るために参加しているのではなく、Wikipediaの基本方針に逆らってでも自らが書きたいことを書く、そのために、自説を曲げずに詭弁を弄して本題から逸脱を繰り返し、いつまでも反対をし続けているのだと思います。このような各ノートにおける被依頼者の合意形成の姿勢・取り組みについて、コメントを頂けますよう、宜しくお願い致します。--Uenozuki会話) 2024年7月28日 (日) 15:42 (UTC)--Uenozuki会話2024年7月31日 (水) 12:34 (UTC)[返信]

報告 最後のコメントから1週間経過しました。来週末を目途にまとめを行う予定です。--Uenozuki会話2024年8月11日 (日) 10:38 (UTC)[返信]

被依頼者のコメント

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私の目標意識はわりとシンプルなんですけどね。

  • 百科事典として必要な情報が適切に掲載される状況を実現したい。
  • そのために、Wikipediaの理念に反する「俺様ルール」が横行している現状を変えたい。

この2点です。ただ、プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#「原作との違い」の改訂提案の初期にも指摘したように「俺様ルールが横行している現状」の原因自体、複数の要因が複雑に絡んで厄介です。また、それに半ば関連していると思うのですが、当面の議論も複数の要因が複雑に絡んで厄介なうえに、それを(意図的ではなく無意識だと信じたいのですが)混同して論じる人が多いために混乱が加速して収拾がつかないというのが現状だと思っています。

私は別に「人のコメントをぶつ切りにして別の意味に取っている」わけではありません。事実や条件を混同して混乱しているコメントを分析整理しているだけです。

--Dakarananyanen会話2024年7月30日 (火) 01:02 (UTC)[返信]

「責任転嫁」云々の問題

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これに関しては、直接には他に優先順位が高い問題があると思うので後回しにしているということなんですが、正直な思いとしては「馬鹿々々しくって、マトモに相手する気になれない」という内容です。

元々、さえぼーさんが書いたことの「必然的な論理的帰結」に基づいて議論を展開したら、それが本人の「想定外」の帰結だったようで、それを「主張してもいないこと」だと言い出したのが始まりです。私としては「想定されていなかった」ということ自体が驚きなのですが、それに気づいたので「なるほど、どうやらさえぼーさん自身が論点を混乱しているようですね(中略)御意思に反するというのであれば、御発言を適切に訂正してください。」という形で対応を促したら「責任転嫁だ」と騒ぎ出したということです。「責任転嫁」して「いつまでも「納得」しない」のはさえぼーさんの方というのが事実なんですけどね。

--Dakarananyanen会話2024年7月30日 (火) 01:03 (UTC)[返信]

「混同と混乱」および「分析整理」

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正直なところ、言い掛かりに逐一反論するのも虚しいという想いでいたのですが、最小限のコメントはしておいた方が良いかもしれません。

プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#「原作との違い」の改訂提案の初期の議論を振り返ると、

  • 「二次資料などで保証された情報」を「二次資料によらず比較」すること
  • 「二次資料によらない情報」を「比較」すること

が区別できていない言及が混乱の元になっていたことが判ります。改めて読み返してみて、私を除く全員が(少なくとも当初は)この2つをゴチャゴチャに混同していたことに気付いたときには愕然としました。しかし、気付いた時には手遅れで既に議論が不必要な方向へ紛糾した後でした。これは今回の私の最大の反省点です。

もちろん、当初混同していた方の中にも、私の指摘に応じてきちんと区別した議論を展開された方もあります(その方も、少し油断するとスグまた混同するのですが)。しかし、残念ながら区別の必要性を頑なに拒絶し続け、違っていると指摘された主張を延々繰り返すだけという態度を崩さない方もありました。それに対する批判が「どんな無理をしてでも話題を逸らそうとする」云々です。こういう態度を続けられると収拾がつけられなくなります。

--Dakarananyanen会話2024年8月12日 (月) 06:20 (UTC)[返信]

法規文の在り方

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改めて読み直してみて、もしかしたら誤解されているのかなと思うのが「破壊的な情報除去を系統的に行う、一部の「過激派」とも言うべき人々」「「原作との違いの記述は全面禁止」というルールを捏造したい人々」で、これは、一連の議論に参加された方のことではありません。議論に参加して来られた方は(結論が妥当かどうかはともかくとして)合意形成の手順をきちんと踏もうとされているわけで、それは少しも「破壊的」ではありません。

「破壊的な連中」はこれらの方々とは別に多数存在しているのです。そして、私が一貫して主張しているのは、こういう連中に付け入られるような隙のある法規文を作るなということです。そういう意味で、プロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いの元の文言は問題山積ですし、今回の改訂も事態を悪化させています。

--Dakarananyanen会話2024年8月12日 (月) 06:24 (UTC)[返信]

コメント

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あちらでの議論相手なので第三者ではありませんがコメントします。Dakarananyanenさんは人のコメントをぶつ切りにして別の意味に取りすぎです。私自身が『記述者自身が「比較」する必要がありません。』とコメントしたことを『「比較する必要が無い」というのは意味が解りません。』などのように大切な『記述者自身が』の部分を切り離してしまってコメントを返してきます。これは私だけでなくさえぼーさんへのコメント等でも見受けられます。意図していないなら理解できるようになるまで控えていただきたいですし、意図しているなら論外です。私に対しても割と失礼なコメントをしてくれていますが「抗議」していないから気にしていない訳ではないので「ご理解いただいたうえでの謝罪」をしていただけることをお待ちしています。--ぷにを会話2024年7月29日 (月) 01:36 (UTC)[返信]

プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#「原作との違い」の改訂提案において被依頼者が「必要が無い」を「価値がない」と置き換えて理解していることが分かりました。私自身は『記述者自身が「比較」する必要がありません。』とコメントしているため言い換えるなら「記述者自身が比較をしなくてもいい」であり「記述者自身が比較する価値がない」ではありません。私の中では「必要がない」≠「価値がない」のため完全に食い違っていることは分かりましたがこうなってくると「ぶつ切り」にしていることが問題ではなく言葉の意味をそもそも間違えているのではないかと感じています。--ぷにを会話2024年7月31日 (水) 01:46 (UTC)[返信]

コメント まずはUenozukiさん、コメント依頼を立てていただいてありがとうございます。私もコメント依頼を立てようと考えていました。Uenozukiさんとぷにをさんが書かれているように、被依頼者は自分が間違っていることは認めず、また相手に対して礼儀というものがないと思います。私もずいぶん失礼なコメントをされました。プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#「原作との違い」の改訂提案においては、さえぼーさんに対しての謝罪なしにこのままコメントを続けるのはあり得ないと思いますし、提案をただ長引かせたいだけの可能性もあると考えます。ノート:沈黙のパレード#「原作との違い」についてでも触れましたが、方針やガイドラインや相手の言うことを正しく理解できないのであれば、Wikipediaの編集をご遠慮いただくしかないと考えます。--Haatouki会話2024年7月29日 (月) 21:59 (UTC)[返信]

プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#「原作との違い」の改訂提案で意見が対立している当事者であるため第三者ではないのですが、少なくともプロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#「原作との違い」の改訂提案でのDakarananyanenさんの議論のやり方には他の利用者のコメントをきちんと理解しようという態度が見られず、他の利用者の間ではだいたい妥協点が見つかってまとめの段階に入ろうとしているのに、それが自分のやりたいことに沿わないので引き延ばしを行っているというような態度であるように見えます。さらにはこのコメント依頼でも責任転嫁を続けており、Wikipedia:礼儀を忘れないに反していると考えています。--さえぼー会話2024年7月30日 (火) 09:06 (UTC)[返信]

通りすがりのIP利用者です。このコメント依頼を見掛けて、元となった議論もざっと目を通してきました。何が独自研究に当たって何が当たらないかということの是非はともかく、被依頼者の方はずっと「自分は正しくて自分以外は正しくない」という目線で物事を見ているようにお見受けしました。何だろ、言葉の端々にその態度が滲んでるんですよね。例えばこのページでの被依頼者コメントの中でも、

  • 「人のコメントをぶつ切りにして別の意味に取りすぎ」という指摘を受ける。
    • それに対して「分析整理してるだけ」と回答。
      • そうやって他人の発言を勝手に「分析整理」した結果が誤っているから「別の意味に取りすぎ」と言われてるのではないでしょうか。何の弁明にもなっていません。
  • 他人の発言を誤った意味合いで引用し続けたことの謝罪がないことを指摘される。
    • それに対して、自分の言動の意図を説明した上で「『責任転嫁だ』と騒ぎ出した」と相手の言動を論う。
      • 「騒ぎ出した」という表現を使うことに悪意もしくは相手が悪い(自分は悪くない)という意図が感じ取れます。「そんなつもりで『騒ぎ出した』と書いた訳でない」と主張されるのなら猶のこと悪質です。

と、自身の行動を何も省みられていないままなのが気がかりです。意見が対立すること自体は悪いことではないですが、対立する意見を交わす中でお互いが納得する落としどころを見付けていくのではなく、相手の意見を徒に「混乱している」「混同している」と決め付け自分の意見を通しやすい方向に持ち込もうとし続けているような印象を持ちました。--60.39.123.154 2024年7月31日 (水) 01:05 (UTC)[返信]

私は意見の対立もありますが、一応はDakarananyanenさんよりの意見ですかね。
「名前が変更されている」「設定年代が変わっている」「犯人が違う」などは独自研究じゃないでしょうし、そうして相違点をむしろ最初に書いておけば、「映画側を良く知らないが原作を知っている人が原作と違う記載を誤記と思って間違った訂正をする」のを防げます。
例えば金田一耕助物の初の映画『三本指の男』では久保銀造の姪に春子という人物が登場しますが、これを「克子の誤記だな」と訂正したら逆に誤りです。(この映画では何故か「春子」という名前になっている)
逆に独自研究かなと思える相違点説明の例としては蝶々殺人事件の記事に以前あった「『横溝正史シリーズI・獄門島』で金田一耕助が過去に蝶々殺人事件を解決した趣旨の説明があること」について「原作だとここは本陣殺人事件を解決したという説明であった」以外の記述とかです。
「そういう説明がある」「原作だとこうだった」のは紛れもない事実ですが「こうした理由で蝶々と言い換えたのだろう」とか言った記述はどう考えても憶測による蛇足です。--電流丸会話2024年7月31日 (水) 14:31 (UTC)[返信]
60.39.123.154氏のコメントに同意します。
「自分以外は全て敵視する」という編集姿勢は、非常に危険です。
複数人そのような事例があるので名指しは避けますが、「自分の編集方針」(Wikipedia全体の編集方針とは別)に反する編集を行った他利用者に対し、恫喝まがいの注意や、その他利用者が書いた記事内容を「自分の編集方針」で蹂躙する行為、そして最初からブロック依頼提出目的のコメント依頼提出など、「自分の編集方針」に反する利用者に対しての懲罰的な規則の悪用まで実行し、別利用者が委縮して編集しづらい状況にした上で、「自分の記事に誰も手を入れないのは、自分の編集が正しいし、それがコミュニティの総意」と誤解している利用者を、何人も見かけています。
Dakarananyanen氏もそうならないように願うところです。--210.136.87.83 2024年8月3日 (土) 02:42 (UTC)[返信]
  • (コメント)「原作との違い」についての私見を少しだけ述べます。翻案に係るスタッフの思想や感情を表現する意図のある変更として公言されているものを説明するなら百科事典の目的に適合しますが、それ以外はあらすじの差分として表現することに注力すべきでしょう。◆被依頼者は関連議論において、方針を自分本位に解釈し、誤解に基づいて反論し、いつまでも納得しない姿勢を崩していません。ここで「誤解に基づいて反論」とは、件のガイドライン改定案にある「(原作との違いは)二次資料に基づいて記述する」という条件の部分を無視して「原作との違いを記述することが全面的に独自研究」という誤解に基づいていることを指します。「いつまでも納得しない姿勢」とは、方針やガイドラインの字面を突き詰めたり、議論に関係ないWP:COUNTSORTという文書を持ち込んで粘ることを指しますWP:COUNTSORTだって議論と合意を軽視してはいませんが)。◆なるほど、どうやらさえぼーさん自身が論点を混乱しているようですねについては、当該指摘の妥当性はともかく、さえぼーさんに責任転嫁する意図の発言ではないと考えます。これは文字どおり「さえぼーさん自身が混乱している」と読み取るべきで、決して「混乱させている」ではないからです。--メリース会話2024年8月4日 (日) 07:43 (UTC)[返信]
    『「原作との違いの記述は全面禁止」というルールを捏造したい人々』は一連の議論の参加者でないと被依頼者はおっしゃいます。ならば、一連の議論により改定されるルールは「原作との違いの記述は全面禁止」というルールでないことになりますが(∵「AはBでない」と「BはAでない」は対偶、おかしいですね。『(ルールの)元の文言は問題山積ですし、今回の改訂も事態を悪化させています』という被依頼者の同時刻の発言と矛盾します。被依頼者の本当の主張が後者であることはすぐに分かります。ではなぜ被依頼者は嘘の主張を述べたのかという疑問が浮かびますが、おそらく論点逸らしか、ちゃぶ台返しの目的でしょう。論点逸らしは被依頼者がプロジェクトのノートで何度か見せた論法であり、本依頼では被依頼者のその論法を再確認できました。--メリース会話2024年8月14日 (水) 17:07 (UTC)[返信]
  • コメント 被依頼者以外の方の論拠は真っ当なものであり、結果として制定されたプロジェクト:映画/映画作品スタイルガイド#原作との違いにも妥当だと感じます。そのような状況で「一部の「過激派」とも言うべき人々が破壊的な情報除去を系統的に行い」「何が何でも話題を逸らして」などと相手の悪意に基づいた反論を繰り返しいつまでも納得しない被依頼者の議論姿勢は非常に問題です。他の方のコメントにもあるように「自分が正しくて対立相手が間違っている」という考え方が根本に存在し、それゆえ指摘に対して自身の誤りを認めない、それどころか指摘自体をあげつらうといった問題行為を繰り返すのだと思われます。現状の議論姿勢が改善されないのであれば、共同作業を基礎とするウィキペディアへの参加は厳しいとみなさざるを得ません。--横たわる猫会話2024年8月4日 (日) 09:13 (UTC)[返信]
  • (コメント)うーーーん、このコメント依頼に寄せられた色んな意見やコメント、起因となったノートとかも色々見てみたんですけど、結局のところ「Dakarananyanen氏の主張がよく分からない」というところに落ち着いてしまいます。批判とか嫌味じゃなくて、Dakarananyanen氏の主張を踏まえた上でも、「出典を示さずにただ羅列する」という編集を認めることにはならないというか。
  • 氏の言う《「二次資料などで保証された情報」を「二次資料によらず比較」すること》と《「二次資料によらない情報」を「比較」すること》の違いは分かるんですよ。氏が「独自研究ではない」と思っているのは前者で、その主張を、後者と混同した上で批判しないで欲しいんだろうなってことも、分かるんです。でも、だからって前者の主張を「独自研究じゃない」とは見做すのは危険だと思うんです。「二次資料などで保障された情報」であるならば、「情報を保証する二次資料」をちゃんと示せばいいじゃん、としか思えないんです。何でそこを「二次資料によらず比較」しちゃうんだろうかっていう。独自研究かどうか以前に、小説作品・映画作品関係のプロジェクト内のルールよりももっと根幹にある「検証可能性」とか「出典を示しましょう」っていう、小説作品・映画作品関係のプロジェクト内のルールよりももっと根幹にある大事なルールに反してまで、「二次資料によらず」比較する必要性は何なんでしょうか。
  • このコメント依頼でDakarananyanen氏寄りの意見であると発言していた電流丸氏のコメントの中で、『三本の指』に出てくる姪御さんの名前に関する話がありました。これについても、「原作では『克子』だけど、映画では『春子』になっている」というのが事実でも、その事実を示す資料を示す必要なんじゃないですか。自分はこの作品の原作も読んだことが無いですし映画を観たことも無いですが、その上で「原作と映画では名前が違っている」という文章だけを見たら「何で?」としか思えません。電流丸氏のコメントの中でも、このことについては「何故か」と書いてあったので、名前変更の理由は明かされてないんでしょうか。だとしたら、「理由を明かすほどでもない、取るに足らないこと」なのかもしれません。その「取るに足らないかもしれないこと」をわざわざ無出典でWikipediaに書く必要があるのかなっていう。これが二次資料付きで「姪の名前が変更されている」と示せるなら、取るに足らないことではないと思うんですけどね。
  • 繰り返しますけど、Dakarananyanen氏が「独自研究ではない」と主張したい範囲がどんなものかはある程度分かりますし、それを伝えるために色々と言葉を尽くしてるのも分かるんです。理解できます。でもその上で「そもそもWikipediaの根っこには『出典を示しましょう』ってルールがあるんだから、出典を示さずに羅列するのは良くないよ」としか思えなくて。それを覆してまで「出典を示さずに違いを羅列することは独自研究じゃない」という主張に帰結してしまうのは「よく分からない」です。--218.225.233.2 2024年8月14日 (水) 01:30 (UTC)[返信]
  • 文章が重複してるところがあったので打ち消し線を入れました、すみません。--218.225.233.2 2024年8月14日 (水) 07:22 (UTC)[返信]
    • ここは実質的な議論をする場所では無いと思うのですが、一言だけですので。前者を「独自研究じゃない」とは言っていません。「独自研究じゃない場合もある」=「無条件で独自研究と規定するのは誤り」という主張です。もっと言えば「比較していない場合と同じ基準で独自研究かどうか判断するべき」ということです。--Dakarananyanen会話2024年8月15日 (木) 23:44 (UTC)[返信]

まとめ

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コメントを寄せていただき、誠にありがとうございます。

被依頼者について、集まったコメントの大要は

  1. 方針やガイドラインの字面を突き詰め、自分本位に解釈する
  2. 論点逸らしをし、いつまでも納得せず、議論を長引かせる
  3. 自分は正しくて自分以外は正しくない
  4. 省みるという姿勢が感じられない
  5. お互いが納得する落としどころを見付けていく気がない

など、議論相手だけでなく第三者からも指摘が相次ぎました。一方で被依頼者寄りの異見は1件、「言葉を尽くしている」というコメントも1件ありますが、それでも「Dakarananyanen氏の主張を踏まえた上でも、『出典を示さずにただ羅列する』という編集を認めることにはならない。独自研究ではないと見なすのは危険だし、その主張に帰結するのはよく分からない」としています。

3年前のノート:病院坂の首縊りの家 (映画)#「原作からの改変の概要」の位置づけで被依頼者から

などと私も言われて「失礼だな」と思いましたが、議論は私と被依頼者のみだったのでそのままにしました。

しかし被依頼者はその後も、ノート:沈黙のパレード#「原作との違い」についてでHaatoukiさんに対し、プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#「原作との違い」の改訂提案でぷにをさんとさえぼーさんに対し、それぞれ相当数の礼儀を欠くコメントをしています。御三方とも「失礼な発言である」と述べ、うち御二方が謝罪を求めています。

複数の利用者から「礼儀に反する」と言われながら、#被依頼者のコメントでの発言を見ると、被依頼者からは議論相手と合意形成をしようという意識が全く感じられないと、改めて認識致しました。

第三者から「論点逸らしか、ちゃぶ台返し」と問題視されているとおり、被依頼者は自分が議論したくない、触れられたくない内容・指摘を議論相手が示すと、必ず「争点ではない」「混同している」「混乱している」と反論します。これら常套句を駆使する手法はまさに「詭弁を弄している」のであり、議論を有耶無耶にしてWikipediaの方針に反しても、被依頼者が書きたいことを書く狙いがあると考えられます。各ノートでは話し合いの過程で、複数の利用者が被依頼者に対話と方針文書をそれぞれ案内してきました。そして他の人々に議題を広く公表して第三者を交えて議論しても、被依頼者が聞く耳を持ち、合意を模索する言動に転換する姿を終ぞ見受けられません。

未だに#被依頼者のコメントで「馬鹿々々しくって、マトモに相手する気になれない」「言い掛かり」等々主張し、2024年7月5日 (金) 23:43時点における版で(差分:プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド)と発言したことを、1か月以上経過した2024年8月12日 (月) 06:24時点における版で「相手が誤解をしている差分:Wikipedia:コメント依頼/Dakarananyanen)」と、議論相手のせいにする被依頼者の言動は理解し難いです。このようなことを書けば、対象は議論相手と思われてしまうのは当然ではないでしょうか。指摘されている「論点逸らし」や「自分は正しくて自分以外は正しくない」の典型例と思います。

以上の記してきたこと(#これまでの経緯を含む)、第三者から数々の問題点をコメントされているのに省みる素振りが全く無いことと併せ、被依頼者はコミュニティを消耗させる利用者に抵触すると考えます。よってWikipedia:投稿ブロック依頼/Dakarananyanenにて審議していただくべきと考え、早々に提出する所存です。これに伴い、当依頼を終了し、まとめと致します。--Uenozuki会話2024年8月17日 (土) 13:58 (UTC)[返信]