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Wikipedia‐ノート:独自研究は載せない/過去ログ7

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「第三者による情報源が不足」という文言が量も意味する

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「第三者による情報源が不足」というのは量的に感じられ多く必要となる感じがありますが、実際には著名な人物による出典を挙げるという意味であるように思います。従って、量的な意味も含有する「不足」ではなく有無を表す「欠けている」などに改訂するほうがいいのではないでしょうか?--Meltbeen 2008年2月5日 (火) 02:05 (UTC)

いいえ、ここでの文脈は少数派について、です。少数派の意見については「第三者による情報源が不足する」ことは容易に想像がつくでしょう。そこで、「同じ意見を持っている著名な支持者の名前を挙げるのは容易に違いない」と言っているわけです。ここでの支持者は英語版ではadhrentsと複数形になっていることに注意してください。--DoWhile ? 2008年2月5日 (火) 02:18 (UTC)
ありがとうございます。しかし、実質的にWikipediaに記述する際に、複数の脚注が必要とされるというような方向性にはなっていません。脚注がつけられる場合、著名な専門家などによる1つの脚注がついていることが多いですがそれで異論がない場合が多いです。--Meltbeen 2008年2月5日 (火) 05:10 (UTC)
現在の英語版(14:17, 30 January 2008)には、それを保証するためには、十分に信用できる、第三者による情報源が不足していることから、の一節は存在しません。この方針は、英語版の第何版の和訳という位置づけではありませんし、この節はなくても意味が通じますので、皆さんの同意が得られるなら、削除してもいいのではないでしょうか。--Isorhiza 2008年2月5日 (火) 06:03 (UTC)
では、削除の方向でどうでしょうか?--Meltbeen 2008年2月6日 (水) 00:30 (UTC)
英語版ではこの編集[1]で削除されています。この編集はen:User:SlimVirginにより独断で行われ、事後的にノートで議論され結果として承認されているようです(en:Wikipedia talk:No original research/Archive 15#Policy changes by SlimVirgin以降)--125.205.189.66 2008年2月6日 (水) 10:16 (UTC)
一週間ほど経過しましたので英語版の事情にも詳しい方がいましたら、当方よりも適任だと思いますので削除のほうをお願いします。--Meltbeen 2008年2月13日 (水) 11:30 (UTC)

一週間ほど経過とおっしゃられましてもその前に明示的な提案がないため、あらためて確認します。現在、Wikipedia:独自研究は載せない#Wikipedia:中立的な観点 の節にある

ごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載することは、それを保証するためには、十分に信用できる、第三者による情報源が不足していることから、独自研究に認定される場合があります。

という文章を

ごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載することは、独自研究に認定される場合があります。

に変えたいというご提案でよろしいでしょうか? 変更として重大ではありませんが軽微とも思えませんので明示的な合意が欲しいと思います。今からさらに1週間の間に賛成があり、大きな異論なしであれば書き換えを行います。--スのG 2008年2月13日 (水) 11:52 (UTC)

(コメント)「ただ単にごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載することは、独自研究に認定される場合があります。」(強調は差分。英語版:…held only by a tiny minority…)とするのはどうでしょうか。ここで説明しているのはジミー・ウェールズの説明の3つ目のことで、2つ目で言及するのに意味がある少数派について述べられており、単に少数派をはじくものではないと思いますので。--Mujaki 2008年2月14日 (木) 16:38 (UTC)
それで構わないと思います。確かに only は一定の目的で入れられているように見えます。--スのG 2008年2月16日 (土) 12:06 (UTC)
一定期間たち異論がつかないと判断し、Mujakiさんの文案にて修正を行いました。--スのG 2008年2月22日 (金) 12:42 (UTC)

http://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E8%BB%8A%E4%B8%A1%E3%83%BB%E8%88%B9%E8%88%B6%E3%81%AE%E4%BF%97%E7%A7%B0 および、talkページの内容が酷すぎるんだが。鉄ヲタでも聞いたことが無い、もしくはせいぜい冗談で口走った程度の呼称が蔓延し、さらにその根拠が「ある雑誌で一度見かけた(特に重みある研究報告などではなく)」程度だったり、「個人ブログでの記述」だったりということで、やろうと思えば自作自演(外部で個人レベルが可能な掲載を根拠にWikipediaに持ち込む)やり放題の危険性があります。いいんですか?58.89.27.85 2010年5月29日 (土) 20:00 (UTC)

文章の変更の提案

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Wikipedia‐ノート:ノートページでの慣習的な決まり#基本方針はノートページに適用されるか否か での議論にもとづき、WP:NORの解説文の「また、他の基本方針同様、独自研究の排除は記事にのみ適用され、…」の部分を「また、他の記事内容に関するルールと同様、独自研究の排除は記事にのみ適用され、…」と変更すること提案します。一週間ほど待って異論がなければ書き換えようと思います。議論が分散しないほうがいいと思うので意見のある方はWP:TALKのノートへお願いします。--貿易風 2008年2月10日 (日) 07:49 (UTC)

変更しました。--貿易風 2008年2月17日 (日) 05:02 (UTC)

「中立的な観点」について

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他人の編集を中立的な観点でないという見解で修整することをライフワークにしているような人の編集は中立とはいえないのでは? --221.47.106.107 2008年2月26日 (火) 02:45 (UTC)

(コメント)修正によって独自研究や中立的観点の問題が是正されるのであれば、「中立とはいえない」と言う指摘は正しくないと思います。--Mujaki 2008年3月6日 (木) 15:09 (UTC)
「中立的な観点でない」という言葉を錦の御旗に、中立を通り越して反対側に引っ張っている(自分の意見に反する各論併記さえ認めない)人が居るようですが?122.214.72.243 2008年11月20日 (木) 01:42 (UTC)

「発表済みの情報の合成」の範囲は?

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本文中、「ある出典からAが得られ、別の出典からBが得られたからといって、A+B→Cであるという情報の合成をするのは、特定の観点を推進するため独自研究に該当する」とあります。

Wikipedia内の記事の中にはそれがそのまま該当するものもあるでしょうけれど、実際にはよりもう少し変形した、色々なパターンを見受けます。そういうものがどこまで独自研究と見なされるのか議論していただければと思います。

差し当たり一件お伺いしたいのは、以下のようなケースです。記事内である絵が引用されていて、「特定の集団に属する人が悪事を働いている」という解説がされていました。ところが引用元の書籍を実際に調べてみると、絵のキャプションこそその通りだったのですが、その書籍の著者はその絵が史実かどうかには一切触れていませんでした。なおかつ、その著者はあくまで「文化の違いから来る特定の集団に対する偏見が、のちの差別に繋がったのではないか」という文脈の中でその絵を引用していたのです。

つまり著者の意図とはかけ離れた形でその絵を引用しているわけで、ノートにて「さすがにそのような絵の引用の仕方には問題があるのではないか」と疑問を投げかけてみたのですが、相手方は取り合おうとしません。A+B→Cのような単純な合成形でなく、むしろA-α→β形の“情報の峻別”とでも言うようなケースですが、やはりこれも特定の観点を推進するようなやり方に思えます。問題ありと考えてよいのでしょうか。

なお、相手方はわざわざその絵だけで元の記事とは別の記事を立てていて、その点についても「ネット掲示板で話題になった絵だから別個の記事が必要なのだ」と言います。率直なところ絵の内容が内容だけに、恣意性すら感じています。--Yoh-yoh 2008年3月5日 (水) 19:51 (UTC)

どの記事かわかりませんが、そういうケースは単なるPOVであると思われます。絵は単に生の情報、一次情報ですので、論拠となる情報源ではありません。情報源とは、その絵を解釈した記述のことです。xxxx (19xx)は、。。。。。のように述べている。(参考文献:xxxx 19xx, なんとかかんとかに関する論考、XXX雑誌、nn, p. xxx-yyy)という形で引用できるものです。といっても、ここのノートで何か書いたからと言って、個別のケースの論拠にはなりません。削除依頼の方で議論されるとよろしいかと思います。--Isorhiza 2008年3月5日 (水) 23:19 (UTC)
Isorhizaさんも言われていますが、そのケースですと絵(一次情報源)にその人自身の意見を付け加えてる、あるいは著者の意見を改変しているケースのようです。よって、独自研究の定義にあるように「未だ発表されたことがないもの」(発表する意思があるのかは分かりませんが)に該当するかと思います。--青子守歌会話/履歴 2008年3月6日 (木) 08:18 (UTC)
では個別の問題は削除依頼等を検討します。一方「POVではないか」というご指摘は私も思いました。ではなぜ「ORにも該当するのではないか」と聞いたかと言うと、単なるPOV扱いだと「両方の説を載せれば問題解決」ということになりはしないかと思ったのです。しかし上記のケースですと片方の言い分はそもそも「筆者の意見を改変している」ことになるであれば、両方併記もふさわしくないのではないかと思えたからです。
あとまあ、似たようなケースは以前にも今後にもあり得るわけで、そうしたORかどうかの“判断の例”を色々議論しここで共有することは、有意義だと思ったしだいです。--Yoh-yoh 2008年3月6日 (木) 13:32 (UTC)

誤訳

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original researchを独自研究と訳されているようですが、ジーニアス英和辞典では「斬新な研究」であって、独自研究でありませんね。したがって、誤訳です。この項目について議論することが無駄ですね。「斬新な研究は載せない」というのは、確かに理にかなっています。しかしながら、バスおじさんの項はずいぶん斬新な研究のように思えますが、これについてはどういうことですか?--以上の署名のないコメントは、Hooloo 234会話投稿記録)さんが 2008年4月5日 (日) 22:51 (UTC) に投稿したものです(Mujakiによる付記)。

(コメント)プログレッシブ英和中辞典などではoriginalについて「独自の」なども記述しています。また、英語版も日本語版も、未公表の内容を記述してはならない、という趣旨は同じで、単に斬新なだから載せないというわけではありません。日本語版は英語版の翻訳から出発(当初は「独自研究は載せない」ではなく「独自の調査」だったようだ)したものですが、表題を含めて日本語版の公式な方針として合意されています。内容等の大きな変更を行う場合は、合意を経る必要があります。なお、バスおじさんの件ですが、zh:巴士阿叔事件がベースのようで、中国語や英語版には新聞等の出典が記載されており、日本語版でも出典を示そうと思えば示すことができると思われますので、独自研究とはいえないと思います。--Mujaki 2008年4月6日 (日) 05:50 (UTC)
1つの記事がそうだからといって他の50万の記事にそれを適用する訳にいかないでしょう。そんなことをしてたらきりがない。--紅 美鈴 2008年4月6日 (日) 13:08 (UTC)
originalというのは、学術用語で、他で未発表のとか新しい研究に基づく というぐらいの意味です。original paperというのは原著論文と訳します。研究者の間ではオリジナルという言葉はそのままで理解されるはずです。ですから、無理に独自研究とか訳すよりは、カタカナでそのままオリジナルな研究、とでも訳した方がいいのでしょう。つまり、査読付きの学術誌ではoriginal contributionだけを受け付けてますが、Wikipediaでは逆にoriginal contributionは受け付けないんだよ、ということを意味しているのです。originalというのは研究にとっては最重要のことですから(英文学術誌のページにはほぼ必ずoriginalという単語が出てきます)研究業界では常識ですが、一般には理解しにくいかもしれませんね。Wikipediaの編集活動を通して、理解していただければいいのですが。--Isorhiza 2008年4月6日 (日) 14:04 (UTC)
ウィキペディアでなされる独自研究は殆どが研究者ですらない素人による自分の意見を押し付けるためのリサーチですから意味がかなり違うかと。--紅 美鈴 2008年4月6日 (日) 14:26 (UTC)
素人が書くから、荒唐無稽だからいけないのではなくて、たとえ書き手が専門家や研究者で内容が論理的にきちんとしていても、オリジナル・リサーチは掲載しない、というのがWikipediaのルールだということだと思います。--Isorhiza 2008年4月7日 (月) 13:32 (UTC)
執筆者が専門家、或いは所謂素人であるかにかかわらず、WP:RSにおける信頼される情報源に基づいて検証可能性を満足していない記述を"original research"と定義し、その掲載はWikipediaでは禁止されていると解釈しているのですがその様な理解で問題ないでしょうか。問題となっている"original"の訳語についてですが、Longmanから引用させて戴きます所、"original"の定義として"existing or happening first, before being changed or replaced by something or someone else"とされていることから、"before"以下の対応として信頼できる第三者の査証を経ていないという観点における「独自」という語句の使用は個人的に容認されるものであると判断致します。又、「独自研究」という語句をWP:NORにおいて定義付けし説明していることから殊更訳語に対して問題視する必要があるとは思えませんし、その語句に対する定義が存在する以上、"original research"の訳語がそれに対する解釈に影響を与えるものではないと個人的には考えております。--MMMRCOW 2008年4月9日 (水) 06:28 (UTC)
紅 美鈴さんは現在のルールはおわかりで、この方針の理由をおっしゃっているのだと思いますよ。
さて、originalの訳語についてはMMMRCOWさんに同感です、といいますか、むしろこの方針の内容にあった秀逸な訳ではないかと思います。また、カタカナ語の方が誤解を招きやすいのではないでしょうか。「original (research)」と「オリジナル(な研究)」ではニュアンスが違うように思います。--Mujaki 2008年4月9日 (水) 17:07 (UTC)

本方針の解釈をめぐって

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ノート:クソゲーおいて、クソゲーの記事本文での「神ゲー」「地雷ゲー」などの俗語の解説が独自研究に該当するかどうかといったことで議論になっているのですが、意見の対立する2人だけで延々と議論を行っている状態で、合意形成が困難となっています。本来こういった方針文書のノートで個々の記事の議論の呼びかけを行うべきではないとは思いますが、コメント依頼にはすでに提出済みにもかかわらず全く人が集まらずどうにもならない状態なので、よろしくお願いします。--貿易風 2008年5月22日 (木) 18:27 (UTC)

独自研究は載せないという方針そのものに対する疑問点

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私は去年あたりからウィキペディアの執筆に参加させてもらっているSUWAXTUCIという者です。私の一番の関心、個人的研究領域である現在の地球人類文明社会の諸問題克服を目指す、先達が提唱している現在の先駆的な新しい政治経済思想や理論もウィキペディアで紹介すべきで、加えるべきであると思っています。

この方針を取るそもそものきっかけは、ウィキペディア共同創始者の一人であるジミー・ウェールズの、主にウェブ上にあふれる物理学系のトンデモ理論提唱者に対する、「ある事柄が本当に正しいかどうかの有効な判断を下すのは、我々にはたいへん困難です。ある人が提唱する物理学の新しい理論が正当なものであるかどうかを我々が決めるのは適切ではありません。我々はそのような判断を下せるほどの専門知識は持ち合わせていません。しかし、我々はその理論が評判の良いジャーナルや評判の良い情報源を通して発表されているかどうかは、確認できます。ですから、適切な判断能力を備えた人々によって信用できると判断された物事に単に依拠することにより、ある物事が信用できるかどうかの判断を避けることは、本当に便利なのです。歴史(学)についても全く同じ原則が当てはまります。」(Wales, Jimmy. "Original research", December 3, 2004)という事のようです。

この、いわゆるトンデモ理論に対して、一般の人々がその真偽を確認するために評判の良い情報源を示すべきであるという大局の趣旨は理解できます。実際の日本語版の管理者の方々(管理者以外の方々もいるかもしれませんが)の対応を見ていると、あたかも独自研究的な記述に対しては何でもかんでも出典を求める必要があると考え、Template:独自研究Template:要出典を貼って出典を求めるか、もしくは独自研究的な記述の部分を削除しています。

しかし、全部が全部出典を求めるケースが必要であるかというとそうではないと思います。例えば、一般の常識や通例的に考えればこのことについては多くの人々が同じように考えているであろう事や、その事実についても一般の常識や通例的に考えて容易に理解できるという場合です。私が最近、無ログイン(59.143.15.27)で執筆した原動機付自転車#第1種原動機付自転車(50cc以下)の法定最高速度見直しの問題のような警察と速度規制の問題などです。また、私以外にも、http://www.news.janjan.jp/media/0808/0808235333/1.php のように疑問を呈している方もいます。

もちろん、このケースでも出典すなわち「評判の良い情報源」が表記できれば確実性が上がり好ましいことは確かですが、その「評判の良い情報源」というのはWikipedia:検証可能性で示している情報源の事であるわけですが、この中での「自費出版物、個人のウェブサイトやブログは、原則として適切な情報源としては認められません。ブログや電子掲示板の発言を一意見として紹介するのも同様です。」という方針に対しては、大いに疑問を持っています。

信頼できるメディアが問題を取り上げて調査して記事にしてくれない限り、この問題をウィキペディアに載せることが永久に出来ないということになってしまいます。多くの場合、スポンサーを抱える活字や放送報道メディアは、スポンサーや自社に不利益となるような内容の問題は取り上げようとはせず、学術誌などのメディアにおいても、非主流の新しい革新的な理論についてはなかなか取り上げようとしません。このようにウィキペディアが「評判の良い情報源」として挙げているものが必ずしも公正な取り上げ方をしているとは言い切れません。

現状では、このように表のメディアに取り上げられない内容はインターネットの掲示板やニュースなどのインターネットメディアで比較的多く取り上げられます。そのインターネットメディアでの内容を出典として示すしかありません。 私は、個人のホームページやブログはともかく、電子掲示板などは様々な意見の人が参加し、議論されています。その様々な意見を見る事が出来るように掲示板名を明示しリンクさせた上で、このような意見があってその意見が多いという事の出典として示す事も可ではないかと思いますし、管理者の方々もこのような状況に応じた柔軟性を持った対応をしていただきたいと思っています。

また、私がメインで執筆していきたいと考えている先駆的な新しい政治経済思想や理論についても、現状では表のメディアではまだ取り上げられていないものばかりで、少数の研究者の著書や私自身のほとんど自費出版の著書があるだけで、私は個人的に研究しているだけで、大学に在職しているわけでもないので学会誌に載せてもらうことも出来ず、出典としてはそれを示す他、手段がありません。私が現状で出来るこのような先駆的な分野における唯一削除される心配のない内容は、日本語版にはない項目の英語板からの翻訳ぐらいしかなく、私のつたない英語力では正確を期すための時間がかかり、あまり得意ではありません。

現在、出典に出来るソースもまだましで、ウィキペディア日本語版にはなく、英語版には簡易的なものが作られ、資本主義崩壊後に新しく導入される経済政策であると予想され、人類社会への知的な貢献を謳うウィキペディアで早急に人類社会の新しい理論として紹介すべき「プラウト:進歩的活用理論」を翻訳併用で執筆を始めていて、本格的なものが出来そうですが、この独自研究や出典の問題でどうしたら削除されずにすむような執筆内容に出来るのかと思案しております。--SUWAXTUCI 2008年10月13日 (月) 15:37 (UTC)

  • 今日は初めまして。「検証可能性は、ウィキペディアの記事における三つの方針のうちの一つです。あとの二つは、「Wikipedia:中立的な観点」と、「Wikipedia:独自研究は載せない」です。ウィキペディアではこれらの方針を併せて標準名前空間、つまり記事に書くことができる情報の種類と質を決定しています。これら三つの方針は相互に補完しあうものであり、それらをばらばらに切り離して解釈すべきではありません。編集者はこれら三つの方針を併せて理解するよう努めてください。この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」(Wikipedia:検証可能性より)。--ネコバット 2008年10月13日 (月) 17:03 (UTC)
以前よりこの点について疑問に思っており、SUWAXTUCIさんに非常に賛同する者です。私も「いわゆるトンデモ理論に対して、一般の人々がその真偽を確認するために評判の良い情報源を示すべきであるという大局の趣旨は理解できます。」同意です。しかしそれがあまりに拡大解釈されることで、「信頼できるメディアが問題を取り上げて調査して記事にしてくれない限り、この問題をウィキペディアに載せることが永久に出来ない・・・必ずしも公正な取り上げ方をしているとは言い切れません。」まさにそう思います。私は毎日新聞は信頼されるべきメディアなのだろうか?という疑問ももっています。だれか私に「信頼出来る/出来ない」の答えを提示してくれませんか?
このガイドラインを、特定の思想を持つ者が反論を削除するために過大に悪用することにも、配慮するべきではないですか?122.214.72.243 2008年11月20日 (木) 01:42 (UTC)
まさにその「特定の思想を持つ者」に自論を喧伝させないためにも「独自研究は載せない」は運用されるのですが・・・。たとえノーベル賞ものの研究でも、ウィキペディアが最初の発表の場になるのであれば掲載を拒否されるのは、既存の情報源を示すことで第三者による検証を可能にし、いくらでも書き換え可能なウィキペディアの信頼性を確保するためでは。本方針はトンデモ研究排除のためだけではなく、「中立的な観点」のためにも要請されています。「常識で考えればわかるだろう」とか「あまり取り上げられないが、この問題は広く知らしめるべきである」というのは、その時点でもう執筆者の判断が入り込んでおり、記事内容に反映させるには適切ではありません。--58.1.122.18 2008年11月29日 (土) 13:05 (UTC)
>「まさにその『特定の思想を持つ者』に自論を喧伝させないためにも『独自研究は載せない』は運用される」58.1.122.18氏
分かった上での記述だと思いますが「特定の思想を持つ者が『反論を削除するために』過大に悪用すること」=「特定の思想が反論の存在しない確固たる事実であるかのようにする」という懸念を示しています。昨今、ある事実が公正中立に報道されないまま、特定の集団の利益のために進行しているかのような状況を見て、信頼されるべきメディアなどあるのだろうか?と感じているんですが。(上記の122.214.72.243 2008年11月20日)122.214.72.243 2008年12月25日 (木) 01:13 (UTC)
追記します。信頼に値すると目されるメディアとてスポンサーから金を貰って運用される営利企業です。スポンサーの意向で「特定の思想」に偏った報道がなされない保証はありますか?公器としての責任からむやみなことはしないだろう・・・って、ボロボロ悪事が露見している事に気づいていないわけはありますまい。118.19.36.49 2009年1月13日 (火) 12:04 (UTC)
?それで「独自研究は載せない」を緩める、というのがどうして出てくるか分かりかねます。毎日新聞のような、一応専門の編集者による監修を経ているメディアでも信頼性に疑問の余地がある、と言う趣旨かと思いますが、だからと言ってウィキペディアで新規・もしくは未公表の説や研究を進んで取り上げるべき、と言うことにはならないのでは。かえって収拾がつかなくなると思います。何か具体例を念頭においておられるようで、それを知らない身では的確な事は言えませんが、「特定の思想が反論の存在しない確固たる事実であるかのように」という事が実際あったら、その編集は「独自研究」には抵触しなくても、「中立的な観点」や「特筆性」など別の点から問題になりませんか?それに対する反論は、大メディアではないにしても、本当にどこにも発表されたことはありませんか?もしどこかにそれがあれば、「独自研究」の恐れは低くなるのではないかと思います。※事情が分かりかねるので、的をはずしていたらすみません。あと、管理者の方、書き込みの位置が不適切だったら申し訳ありません。--61.124.64.166 2008年12月27日 (土) 15:52 (UTC)
インターネットユーザーの関心に、マスメディアの取材が追いついていないということでしょう。J-CASTのようなミドルメディアJANJANのような市民ジャーナリズムがもっと機能してくれればいいのですが(特にアニメ・漫画といったサブカルチャー)。--G7gh8t 2008年12月14日 (日) 05:44 (UTC)
>「?それで「独自研究は載せない」を緩める、というのがどうして出てくるか分かりかねます。」61.124.64.166 氏
緩めるべきという意味合いは無いですが、基準とされた「信頼できると見做されたメディア」(複数)が、実は「個別の記者レベルではなく、会社の方針として偏向しているのではないか?」と疑問が投げかけられている昨今。
あ、「この疑問」が個人の感想の集合体でしかないのを認めたうえで、さらに「既に得ている信頼」というのも個人の感想の集合体でしかないのではないか?なんで、どのような根拠を持って信頼し得るのか?と思うわけですが。
既存メディアが「信頼」という幻想の上にあぐらをかく間に、新興メディアの中にも信頼すべき基準が生まれていないか?もしそうだとすると、誰がそれを責任もって審査して追加認証するのか?誠実な独自研究に信頼は置けないのか?wikipediaのレギュレーションは、一体どうなっているんだろうか・・・?大威張りでWikipedia:○○を参照くださいと書けば一仕事終えた気がしている、自分で物を考えない人が多いようですが、ちっとは自分の頭で考えてみようよ・・・って研究できない人だらけなのかぁ、ここ114.182.94.163 2009年1月11日 (日) 20:31 (UTC)

(上記を見てて)メタな議論としては分からなくもないけど、そう言う一人一人の判断や研究を持ち込んでたら収拾がつかない、ってかウィキペデイアはそれを論じるための場ではない、と言うのが本方針の趣旨じゃなかったかなあ。それをこそ問題にすべきだ、ってんならもう井戸端でやる範疇ではないような。--121.93.54.108 2009年1月12日 (月) 05:54 (UTC)

私にコメントいただいたのかな?「それをこそ問題にすべきだ、ってんならもう井戸端でやる範疇ではない」そのとおり、細かいところで他者の編集を突っつくのが好きな奴は多いけれど、根本的なポリシーが実はわかったようでわかってない曖昧な物のまま、議論好きな皆さんも触れたがらない・・・ってとこがどうも気になるんですよ。もっと根本的なところを真摯に議論してくれないか?。「一人一人の判断や研究を持ち込んでたら収拾がつかない」よくわかります。しかし、編集者にも反射的に下らないことをリアルタイム編集して喜々としている馬鹿なのが居る反面、世間の空気を読み取りながら熟考して独自研究を取りまとめている者は居るのではないか?。しかし権威ある(誰が決めた?)メディアに属するだけの、実は空気を読まない、時に捏造も平気でやるような記者が書き散らした文章に取り上げられていない・・・というだけで、無意味なものとして問答無用で切り捨て御免になるという構造だけはどうしても引っかかる。もう少し考えて行動してくれ。少なくともその基準となるメディアの資格審査だけはきちんとやって欲しい。114.182.95.210 2009年1月12日 (月) 16:18 (UTC)
wikipediaを評論の場にするのはおかしいのではないでしょうか。wikipediaは純粋な知の集積の場であるべきだと思います。最近気になってるのが、出版された書籍や評論家の文章をそのまま引用する記述を加えて回ってる人がいることです。それをやられるともうすでに「百科事典」ではありません。「これは書籍に書かれた独自研究を紹介してるだけに過ぎない」と指摘しても、「有名な評論家です」などと正当化します。wikipediaにはもっと崇高な使命があると思います。「思想」「評論」といった類にはとくに注意すべきでSUWAXTUCIさんの意見には賛成しかねます。ブログや電子掲示板にある情報に、知の集積の場にふさわしいものがあるとも信じがたいです。たとえばオウム真理教に関して数十の優秀な評論があったとして、それらを知の集積の場にすべて紹介してしまったら、オウム真理教の項目は収集がつかなくなります。百科事典に意見を載せたい人が、「このような意見もあります」という記述を追加してまわっています。「このような意見もあります」という記述はほとんどの場合、まったく不要のものだと思います。wikipediaには事実を淡々と記せばいいだけで、考え方の誘導や紹介までする必要はないと思います。考えるのは事実をみた利用者がやればいいのです。(--211.132.81.144 2008年12月19日 (金) 00:52 (UTC)

(インデント)211.132.81.144氏の投稿の中に二つほど気になる点があったため、僭越ながら指摘させていただきます。第一に、「これは書籍に書かれた独自研究を紹介してるだけに過ぎない」という一節について。高名な研究者が社会的に信頼性の高い出版社を通じて学術書を発表した場合、それが既存の通説・有力説に反するものであろうと、Wikipediaで記載が禁じられている独自研究ではありません。貴殿が問題視する編集は、論者によって専断的に正当化されているのではなく、はじめから正当な行為なのです。もしも貴殿が当該の編集に対して差し戻しを行っているのであれば、直ちにお止め下さい。第二に、「wikipediaには事実を淡々と記せばいいだけで、考え方の誘導や紹介までする必要はないと思います」という一文について。この中で、現在のWikipediaで認められない行為は、考え方の誘導だけです。ある思想・法令・現象に対する特定の見解を紹介する行為は、現行の公式な方針が改変されない限り、完全に正当なものとして取り扱われます。Wikipedia:信頼できる情報源#意見を参照して下さい。211.132.81.144氏には、以上の点を確認していただければと思います。--白文鳥 2008年12月20日 (土) 18:20 (UTC)

「wikipediaを評論の場にするのはおかしい」でも、メディアをwikipediaの好き嫌いで評論(評価付け)しているよね?そしてさらに、その評価が外れていても誰も責任取らないんだよ。60.36.28.42 2009年4月23日 (木) 14:12 (UTC)
で?--124.26.241.220 2009年5月3日 (日) 12:15 (UTC)

独自研究を信頼できる情報に換えていくことは、できないのでしょうか?私の「愛情主義経済」という独自研究も信頼できる情報にウィキペディで変換出来ればいいのに--なると 2009年6月28日 (日) 08:48 (UTC)

そのような行為を排除するのが本方針なんですが。例えば査読付きの学術誌などに投稿して採用されるなど、外部の媒体に検証可能な形で掲載された物を情報源として集積するのがWikipediaです。「独自研究を信頼できる情報源に変える」のは外部でやってください、ということで、そのためにWikipediaを使うというのは本末転倒というか、本方針に真っ向から叛くWikipediaにおいて最もやってはならないことの一つです。--121.93.63.134 2009年6月29日 (月) 11:40 (UTC)
SUWAXTUCIさんの意見に賛同します。一般的な事柄は検証が必要かと思うように多少なりましたが。専門的な事柄については、独自研究の可能性があることを明記したうえで、自由に誰でもWikipediaに記述でき、読む人の知的好奇心を損なわないように、心掛ける必要があると思います。そもそも、「Wikipediaにおいて最もやってはならないことの一つです」というのは、独自研究の段階なのではないのでしょうか?私はそう思いますが。Wikipediaのルールは正しいけれども、まだまだ足りていないかように思いますので、どんどん議論しましょう。--Arisa vey 2011年2月8日 (火) 01:30 (UTC)
メインページの冒頭を読みましょう。「基本方針に賛同していただけるなら、誰でも記事を編集したり新しく作成したりできます」。独自研究の排除は基本方針の一つです。それについてどう思うかはその方の自由に属する事ですが、賛同しない編集を容認する謂れはありません。Wikipediaは、百科事典を作成するプロジェクトです。『断り書きをしたら何でも書いて良い』それをチラシの裏と呼びます。少なくとも百科事典を作るという目的とは相容れません。「ぼくがかんがえたかくめいてきりろん」「私だけが知っている真実」をいくら書き連ねたところで、それは「百科事典」とは百万光年の彼方にあるものです。それもあさっての方向に。--116.80.79.204 2011年2月8日 (火) 15:57 (UTC)

初めてこの議論に参加するものです。 今までの議論を拝見して、独自研究は載せないという方針を堅持する理由は、その掲載を許せば収拾がつかなくなる恐れがあるという点と、正しい主張であれば学会等で認められないはずがなくいずれ独自研究でなくなるからこの方針で支障はないという点との2点であると理解しましたが、それでよろしいのでしょうか。--Kyojie 2011年8月26日 (金) 21:29 (UTC)

「ウィキペディアに独自研究を載せない」というのは裏を返せば「独自研究はよそで発表してよ」ということなだけでは。Twitterなりブログなり書籍にまとめるなり学会誌に投稿するなり、ウィキペディア以外のお好きな媒体でどうぞ。ウィキペディアを自説の宣伝に用いるのはマジ勘弁してください。--Bugandnohey 2011年9月9日 (金) 19:59 (UTC)

複数の説が併存し得る場合は確かにそうかもしれません。しかし、現在の説が誤っていてそれを放置すれば社会に悪影響が及ぶという場合はどうでしょうか。ウィキペディアの目的は信頼されるフリーな百科事典を創り上げること(ラリー・サンガー)です。誤った説を載せていては信頼される百科事典にはなれず、目的に反することになります。独自研究の方が正しいと明らかに分かる場合は載せるようにすべきではないでしょうか。--Kyojie 2011年9月12日 (月) 01:19 (UTC)

その正しさを誰が保証するというのですか。「明らかに」が、執筆者の思い込みではないと、どうやって担保するのですか。全くのデタラメを書いて自分は正しいと主張する事も、システム上は出来てしまいます。その「正しい」研究とやらを掲載しようとしている人がいくら力説したところで、第三者による言及がなければ何の説得力もありません。学会誌なり書籍なりの既存の記述があれば、少なくとも研究の存在証明にはなりますが、それすらないのでは問題外です。--125.2.40.133 2011年9月12日 (月) 07:44 (UTC)

多くの一般人が正しいと判断できるような場合はあり得ましょう。そういうものまで排除する必要はないのではありませんか。 --Kyojie 2011年9月12日 (月) 11:27 (UTC)

その「多くの一般人が正しいと判断できる」をどうやって証明するか、が問題なんじゃないですか。「記述者がそう思う」は証明力ゼロです。外部の信頼できる情報源があるならそれはもう本方針が問題視する独自研究ではありません。--125.2.40.133 2011年9月12日 (月) 12:21 (UTC)

>>現在の説が誤っていてそれを放置すれば社会に悪影響が及ぶという場合はどうでしょうか。
それは要するに書いている人の意見ですよね?そういう場合はたいてい、現在の説は正しくてそれに逆らうのを放置すれば社会に悪影響が及ぶとまるっきり逆に考える人がいて、うまくいかない場合が多いですね。ウィキペディアには真実が書かれているというのが誤解なんじゃないかな。実際には、信頼できる情報源からの情報が検証可能な形で網羅されているだけであって、それが正しいのか、真実であるのかの担保はないですよ。誰でも参加できるということは、たいていの場合専門家ではない人が書いているわけであって、専門的な事柄に対して、何が正しくて、何が間違っているのかを素人に判断させるのは無茶ですね。ウィキペディアは信頼できる情報源からの情報を検証可能な形で網羅するにとどめるべきであって、これだと素人でもかっちり執筆できますね。調べ物をしている人にとってはそれで十分に有意義ですし。大衆を啓蒙して正しい方向に導かなければならない、というのは個人のブログなり別の媒体でやったほうがいいのでは。--Bugandhoney 2011年9月12日 (月) 12:53 (UTC)

125.2.40.133さんへ  多くの一般人に正否の判断ができるのですから、否と思う人は「ノート」欄に投稿すればよいのではないでしょうか。「ノート」欄で意見交換していけば結局は正しい方に向かうと思うのですが、どうでしょうか。 --Kyojie 2011年9月13日 (火) 01:44 (UTC)

Bugandhoneyさんへ >>>>現在の説が誤っていてそれを放置すれば社会に悪影響が及ぶという場合はどうでしょうか。 >>それは要するに書いている人の意見ですよね?そういう場合はたいてい、現在の説は正しくてそれに逆らうのを放置すれば社会に悪影響が及ぶとまるっきり逆に考える人がいて、うまくいかない場合が多いですね。

 多くの一般人に正否の判断ができるものであれば、正しい方に落ち着くのではないでしょうか。

>>ウィキペディアには真実が書かれているというのが誤解なんじゃないかな。  信頼されるフリーな百科事典を創り上げるというのがウィキペディアの目的です。真実が書かれているものにしていく努力が参加者に求められるのではないでしょうか。 >>調べ物をしている人にとってはそれで十分に有意義ですし。  誤りを真実と信じた人がそれを基に更に理論を積み上げられていくとすれば、その人にとっては無意味な努力をすることになり、個人的にはもちろん社会的にも有意義どころか有害であると思われますが、どうでしょうか。 --Kyojie 2011年9月13日 (火) 02:44 (UTC)

Kyojieさん、ご意見ありがとうございます。とりあえず、Wikipedia:検証可能性の『「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』をお読みください。そこにははっきりと、大事なのは真実かどうかじゃなくて検証可能かどうかである、と書いてあります。ウィキペディアに独自研究を書いたらいけないのはそれが検証可能でないからです。私がウィキペディアを読んだり書いたりしているのはこの考え方に100%賛成しているからです。あなたがこの考え方に賛同せず、ウィキペディアは検証可能性よりも真実かどうかを大事にするべきだと考えるのはありです。考え方は人それぞれですから。ただそれだと記事の執筆はうまくいかないです。なぜかというと、ウィキペディアで書いている人はたいていこの考え方に賛同して書いているからです。ウィキペディアは共同作業ですからある程度、方針を共有しないとうまくいかないですね。俺はどうしても自分のやり方でやりたいのだ、というのであれば他の媒体を選んだほうがいいですね。誰からも文句言われないですし。
>>多くの一般人に正否の判断ができるものであれば...
一般人に正否の判断ができるトピックはかなり限られているのでは。
>>誤りを真実と信じた人がそれを基に更に理論を積み上げられていくとすれば、その人にとっては無意味な努力をすることになり、個人的にはもちろん社会的にも有意義どころか有害であると思われますが、どうでしょうか。
そういう人にははじめからウィキペディアに書いてあるのは検証可能かどうかでしかなくて、必ずしも真実とは限らないとアドバイスしてあげたらいいと思います。ウィキペディアはせいせい調べ物のとっかかりに使うくらいにしといて、そこに書いてあることに人生賭けちゃだめです。
Kyojieさんへのアドバイスとしては、独自研究とレッテルを貼られてもちゃんと調べてみれば信頼できる情報源に出典がある、ということはしばしばありますから、根気よく出典を探して独自研究でなくなるように書き直すことです。もしも、誰かに「お前の書いていることは独自研究だ」と言われたらその人にも出典探しを手伝ってもらえるようにお願いしてください。ウィキペディアは共同作業ですから。--Bugandhoney 2011年9月13日 (火) 12:20 (UTC)

Bugandhoneyさんへ  アドバイスなど有難うございました。  ただ、現在の方針がWikipediaの目的に必ずしも適合していないのではないか、という疑問はまだ解消していませんので、若干時間をかけて考えてみたいと思います。 --Kyojie 2011年9月13日 (火) 10:59 (UTC)

いえいえどういたしまして。ちなみにこんなオンライン百科事典もあるようです(ウィキペディアには本当に何でも書いてある)。ウィキペディアの中立的な観点という方針に批判的な人たちが立ち上げたようで、主観的な観点が方針であって、独自研究もありです。Kyojieさんのようにウィキペディアの方針に疑問を持つ人は少なからずいるようです。こういうふうにすみ分けるのが誰にとっても一番ストレスが少ないのでは。執筆を検討してみるといいかもです。--Bugandhoney 2011年9月13日 (火) 12:20 (UTC)

Bugandhoneyさんへ  ご教示有難うございました。  ただ、英文だとどうしても敬遠しがちになるのです。 --Kyojie 2011年9月17日 (土) 05:52 (UTC)

確かに日本語版はまだないようです。なかなかうまくはいかないものですね。--Bugandhoney 2011年9月19日 (月) 15:42 (UTC)

理論に関する記事の扱い方について

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はじめまして、独自研究は載せない#理論に関する記事の扱い方について質問があります。

この文章の最後に、(その理由は、必ずしも誤りだからではなく、検証が不可能だからです)という但し書きがありますが、これは単純に「検証可能性を満たさないから。」と解釈するべきでしょうか?「一般的であるかの検証が不可能だから。」という拡大解釈が可能でしょうか?

極少数の人々にしか支持されていない内容が、常に検証可能性を満たせないというわけではないので、どういう意図で書いてあるのだろう?と疑問に思いました。--しろぼる 2009年2月22日 (日) 00:34 (UTC)

その但し書きの本文『確立していない造語や、権威ではない個人やそのような個人からなる小集団に由来する概念』を読めば分かるように情報源が「信頼性に乏しい情報源」、「自主公表された情報源」なので「Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に」の『信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。』により『削除の対象になるか、編集で除去されるべき』なのです。--寝ず見 2009年3月7日 (土) 16:12 (UTC)

三権分立の理論だけでなく、ロングテール理論を応用した反比例の法則で、素人と玄人両方の意見を取り入れたらどうでしょうか?>枻川 清--なると 2009年6月28日 (日) 08:35 (UTC)少数意見と多数意見ですか--枻川 清 2009年6月28日 (日) 09:01 (UTC)

博士号を所持していれば独自研究でないという主張

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Wikipedia:独自研究は載せない#専門家の役割に「専門家の方々におかれましては、自分達が専門家だからといってウィキペディアで特権的な地位にあるわけではないということをご理解いただき、」に「自分達が専門家だから(博士号所持者だから)といって」に変更すべきでは。実際、韓国語版で私が削除依頼を出した際「博士号所持者が参考文献(自著作物。しかも第三者の評価なし)を基にして作成したものは独自研究でなく、高級情報である」などどほざいている者がいるようです。(韓国で博士号を所持していない教授は芸術、教育(理論系ではない)を除いていないくらいです。今回、問題になっている神学博士号所持者は日本よりも多いことは明らかであることを言っておきます。)--hyolee2/H.L.LEE 2009年9月7日 (月) 01:41 (UTC)

韓国版の当該ノートでやっていただきたいのですが。この場合、博士号所持者かどうかは関係なく、外部の信頼できる引用元から適切・中立に引用していることだけが重要です。たまたま投稿者がその筆者本人であろうがなかろうが、Wikipediaにとっては判断材料として関係ありません(だいたいそのログインユーザーが筆者本人であるのか、単に自称・偽称しているのかWikipedia側で検証できません)。Wikipediaが排除するのはログインユーザーが「専門家」であることを盾に、引用元なく独自研究を披瀝することです。--大和屋敷 2009年9月7日 (月) 03:29 (UTC)
いかんせん、記事の内容がジャン・カルヴァン関連とあって韓国語版だけにとどまらないために提案したものです。博士号所持者が書いたからと言っても高級情報ではないとの注意もしたのですがぬかに釘を打っているようなものです。博士号所持者という理由はWikipediaにとっては判断材料として関係がないということですね。もし、確立していない段階で広まったら問題になりかねません。--hyolee2/H.L.LEE 2009年9月7日 (月) 04:58 (UTC)

同一名の2人物や2団体に対する、両者が無関係であるという記載について

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事の発端は、同一名の異なる2人物や異なる2団体が無関係なものであると記された記述について、多数の記事においてPALNASさんが独自研究を理由として除去を行ったことに始まります。これに伴って、会話ページに複数の利用者から異を唱える指摘が起こりました。そこで、独自研究に対する方針解釈の違いがありましたので、確認のつもりでこちらに質問させていただきます。前節のように各記事のノートで話し合うべきと考えるかたがいらっしゃるかもしれませんが、なにぶん対象記事は100件以上ありますので、個々の記事のノートで話し合うのは不毛と考えていますので、こちらで質問させていただきます。

私の理解しているPALNASさんの考えは、以下の通りです。

  1. 「AとBが無関係である」という直接的に明言した出典があれば、記載は可能。
  2. 「AとBが無関係である」という直接的に明言した出典がなければ、記載は不可。
  3. 「AとBの生年/創設年/代表者などが異なる」という間接的な出典、例えば「Aの生年はA1である」と「Bの生年はB1である」であることを根拠に「AとBが無関係の別人である」とするのは「Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に抵触するため、適正な出典と言えず、記載は不可。

問題となっている点は、ケース3についてです。これについての私の理解は、一次資料を用いてもよいとされる「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」にすら相当するものであり、記載は可能、というものです。しかし、PALNASさんは、一次資料を用いてはいけないケースとされる「解釈」(会話ページでは「判断」という表現ですが、意図しているところは同じだと思います)を伴ったものであるとして、記載は不可と考えていらっしゃるようです。ケース3についてのPALNASさんの見解については、「ガブリエレ・ミュンターの編集について」節におけるコメント差分と、その際の差し戻し内容差分(要約欄からは分かり辛いですが、独自研究除去を明示している編集差分とやっていることは同じです)をご確認ください。また、左記の差し戻し対象の記述を出典として妥当と考えていらっしゃる方は、私以外差分にもいらっしゃるようです。

なお、そもそも出典があるからといって記載OKというわけでなく、その記事における記述の有用性が問われます。それについてPALNASさんは、会話ページでとくに言及はなく、一貫して「出典があれば記載OK」と話しています。そのことから、有用性については気にしていないか、問題ないと考えている様子です。私は、後述の類似ケース(およびその例示しているケース)あたりまでであれば、Otherusesを用いて記事冒頭で他記事に誘導する以外に、本文中で「無関係」であることを記すことは読者にとって一定の有用性があると判断しています。そして、このように考えている利用者は私以外差分にもいらっしゃるようです(どの程度までの類似名を対象とするかについては、私とは考えを異としているかもしれません)。しかし、この点は意見相違点ではなく、本ノートの守備範囲でもありませんので、この論点についてはここではこれ以上は触れません。

上記3のケースについて、記載可と考えることが、本方針が目的としている独自研究に抵触しているかどうかについて、ご教示いただきたく存じます。--NISYAN 2010年2月11日 (木) 08:04 (UTC)

コメント 質問されている趣旨と異なりますがAとBは無関係という記述ではなく{{Otheruses}}での誘導で十分なケースも多いのではないかと思います。--Tiyoringo 2010年2月11日 (木) 08:50 (UTC)
コメント補足しておきますと、全くの同名の場合、記事名中に分野名が記されていることも少なくなく、その場合、Otherusesは付与しない決まりとなっています。その場合、Otherusesでの誘導という方法は使えません。--NISYAN 2010年2月11日 (木) 08:54 (UTC)
Wikipedia:曖昧さ回避#分野名つき記事名の記事にはOtherusesは不要に基づいたお答えだと思いますが括弧内が(1971年生の野球選手)と(1972年生の野球選手)のようなケースを想定して発言いたしました。--Tiyoringo 2010年2月11日 (木) 12:12 (UTC)
確かに誤解しておりました。補足いただきありがとうございます。--NISYAN 2010年2月11日 (木) 13:58 (UTC)
コメント「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型とは思いませんが、実際どうか、というところで確証が得られるだけの違いが明らかで、誤認が生じる可能性が高くなければ、多くの場合で書かない方がよいのではないかと思いました。
企業だと、どういうレベルで関係がなければ無関係と言い切れるか、という問題はあると思いますし(業務上まったく関係ないけど、遠い親戚筋で、同じものにちなんで社名を付けているとか)、個人だと、表記違いで、実は同一人物だけど、それを自ら認めている情報源がないという場合もあるでしょう。そこに、誤りや、「解釈」が入り込む余地はある。なので、基本的には得られている情報や、その二つの項目の性質などから個別に判断する、「無関係」というのは、かなり強い表現ですから、その「関係のなさ」を具体的に書けるなら、書いた方がいい、ということになると思います。NORで単純に線引きができるものではない。一括して除去、一括してリバートというのは好ましくないでしょう。
誤認しがちならば違うという記述は有用ですが、そういう場合はそういう情報源があることも多いとも思います。日本交通では、そういう記述が見つかったみたいですね([2])。
ガブリエレ・ミュンターの例は、読者が誤認する可能性が比較的高く、違いは明らかと思われますから、残しておけばよいと思いました。こういう場合は、情報源の注釈などで触れられることもあると思いますし、二つとも項目になっているような美術事典の類や、同じ文献で両方の団体に触れているものが見つかれば別物ということははっきりします。--Ks aka 98 2010年2月11日 (木) 09:00 (UTC)
コメント一応補足しておくと、PALNASさんの主張は、関係ないという表現が不適切であるということではなく、別人や別団体であるという表現でも出典としてNG独自研究という認識のようです(「同姓同名の別人である」という記述の除去差分に対して、生年が異なるというだけの出典ではNG差分と発言されています)。「関係ない」という表現への妥当性ではなく、「別人である」「別団体である」という表現にとっても独自研究であるかという観点でご教示いただければありがたいです。
≪表記違いで、実は同一人物だけど、それを自ら認めている情報源がない≫について、≪専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説≫にあたる、出典複数の合成(生年が異なる、出身地が異なる、など)によって別人であると言うことすらできないのであれば、記載することは妥当でないと考えます。そして、それは本節の前提とは大きく異なるように思います。
≪業務上まったく関係ないけど、遠い親戚筋で、同じものにちなんで社名を付けている≫類似名の企業であれば、そしてそのことが検証可能でない裏事情であれば、Wikipedia上での記載可否に影響を与えるものではないと思っています。表現として「関係ない」が妥当でないかもしれませんが、「名前の一部に△△が含まれるが、グループ企業ではなく、業務提携等も行っていない」という表現はありえると思っていますが、それが独自研究に抵触するかは、本節の質問の範疇にあると考えています。
出典を探すことの努力を怠る方向性は好ましくないと考えますので、日本交通の事例については結果オーライなのかもしれません。しかし、そのような意見衝突を生み出す多数記事での編集という手法(Ks aka 98さんのおっしゃる一括して除去)については疑問を感じています。それについては別の形で意見募集を行おうと思っています(「Wikipedia:井戸端/subj/機械的な編集について」もその1つですが、それとは別で)。--NISYAN 2010年2月11日 (木) 10:04 (UTC) 表現修正 --NISYAN 2010年2月11日 (木) 10:15 (UTC)
考え方としては、その情報源から「別人である」「別団体である」ことが≪専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説≫にあたるかどうかを、その個別事例について考える、ということになるんじゃないでしょか。
紳士録などに記載されている企業人なら生年だけでもいいかもしれないけど、いわゆる芸能人の公式サイトの生年だけだと「別人である」には弱いかもしれない。「別団体である」「別人である」というのが、どの程度「別」か、というのもあるわけで。系列企業でも「別団体である」とは書けますよね。誤りや「解釈」が入り込む余地があるなら独自研究だし、専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できるなら独自研究ではない。
「複数の人や団体について、双方を取り上げて別物であると書く上で求められる要件はなにか」という問題だと思うのですね。それは、「記述する必要性」「違うということについての確実さ」「示されている情報源から得られる違いの程度」「現在得られている情報の網羅性・妥当性」「表現の妥当性」といったところから、総合的に判断する必要があると思うのです。
さっきの例だと、それぞれの企業概要などを元に「別の企業である」と書くのは簡単。登記が違えば別企業は別企業。その概要を元に「名前の一部に△△が含まれるが、グループ企業ではなく、業務提携等も行っていない」と書くことは、その情報源にある内容が確かで、明らかに接点がないなら、専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説になると思う。しかし、オフィシャルサイトの企業概要だけで「関係ない」とまで書くなら独自研究、となると思います。--Ks aka 98 2010年2月11日 (木) 10:38 (UTC)
個別事例について個々に考えることである(その考えるべき観点は、このノートで提示いただくことができた)、ということは結局のところ、同日中に同一利用者によって100の記事が独自研究を理由に編集除去された場合、100の記事のノートでその妥当性について話し合うべき、ということなのだろうと思います。まあ、その多数記事の編集に伴う話自体は、ここでは置いておきます。
≪芸能人の公式サイトの生年だけだと「別人である」には弱いかもしれない≫というのは、芸能人の場合はそのプロフィールの信用度としては低いということなのかもしれませんが、Wikipediaとしては(他者による、本人プロフィールと相反する情報がない限りは)本人プロフィールという検証可能な情報を信じるしかないように思います。「違うということについての確実さ」と「同じということについての確実さ」の狭間ということでしょうが、「言及がないこと」によって「同一人物であるかもしれない」と思わせてしまうかもしれない点については、「同じと明言すること」とは別方面でB-2的観点で気になります。そして、例示の記事Hitomi (AV女優)差分は(詳しく知りませんが、記事に書かれている情報だけを見る限り、生年月日以外に所属が違うなど)そこそこの確度で別人と見て良いように思っています。
後は、他の方の意見も少し待ってみるつもりです。--NISYAN 2010年2月11日 (木) 11:08 (UTC)
ちょこっとだけ。これでひと休みします。
言及がなければ、同一人物だと想像するのは閲覧者です。よほど同一人物だという断定を避けながら想像させるように意図した記述でなければ、B-2的観点の問題はないです。同じということがどこかで明らかにされているにもかかわらず、それを知らずに「違う」と書くことで、何らかの問題が生じた場合、違うと書いたのは執筆者ですから、こっちはB-2的観点の問題は生じることがあります。
Wikipediaとしては、書くためには、多少不確かであっても情報源が必要です。実はこっちが正しいと主張して、それが本当に正しいとしても、情報源を示すことができなければ、不確かな情報源に書かれている方を選ぶ。しかし、情報源が「ある」からといって、書かなければならないということはないんですね。特にその情報源に不確かさが残る場合は。そして、その人物の項目には不確かな情報源を元に書くとしても、前提となる情報の信頼性に疑義があるならば、それを根拠に「誰でも正確性を簡単に検証できる解説」にはならないこともあります。所属や経歴まで違えば、「生年だけ」よりは信頼できる。--Ks aka 98 2010年2月11日 (木) 11:50 (UTC)

(状況変化に伴いインデント戻し)いまさらですが、企業の件については先行議論がある差分ようです。そして、上記の例示の中で「出典見つかってよかったね」と喜んでいた「日本交通 (東京都)」については、あらためて編集除去差分されました。そういう先行議論があるなら早めに提示いただければありがたかったのですが、それについては本ノートの範囲外の話ですので、ここではそれ以上は触れないこととして、以降はそういう先行議論が存在しない分野という前提で考えていただけるとありがたいです。--NISYAN 2010年2月11日 (木) 13:58 (UTC) 事実誤認でした --NISYAN 2010年2月11日 (木) 14:15 (UTC)

存命人物に対する憶測という場面で「『信頼出来る』雑誌」とは何か

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WP:LIVEとの兼ね合いで気になったのですが、週刊新潮は存命人物の過去についての憶測を掲載する出典として足るほどの「信頼出来る雑誌」なのでしょうか?この手の週刊誌が一概に全て信用ならないとは思いませんが、「存命人物に対する憶測」といった場面については他の領域まで一緒くたに週刊誌を全否定するつもりはありません)、慎重に扱うべきだと私は思いますが、いかがでしょうか。慎重にならなければ、特に日本の政治家の記事群に深甚な影響が出るかと存じます。今回気になったきっかけである事例はこれ(ヴィクトル・ヤヌコーヴィチの過去についての憶測)です(当該IPユーザーは当方への荒らしが主な理由かと思いますがブロックを受けています)。皆様の御意見を伺いたく存じます。--Kinno Angel 2010年2月25日 (木) 07:04 (UTC)微修正--Kinno Angel 2010年2月25日 (木) 07:05 (UTC)

このページは個別の案件を議論する場ではないと思われますので、一般論で言えば、「(公人・著名人の場合)もし、ある記述や事件が有名で本人の業績にとって重要(relevant)なもので、信頼できる公表済みの情報源できちんと文書化されているものなら、たとえ否定的なもので当の本人が嫌がろうと、記事に含めるにふさわしいでしょう。」と、存命人物の伝記にも書かれています。 「著名な出版社によって出版されている雑誌」は「一般的に、最も信頼できる資料」と、この方針でも書かれていますから、「著名な出版社」の「雑誌」の記載を「信頼できる公表済みの情報源」と考えて、それを元に「存命人物の伝記」記載するのは正当性があると思われます。 
もちろん、複数の情報源を確認するといった文章もありますから、一誌しか書かれていなければ、「○○雑誌は××と主張している。」などと限定にしか書くことが出来ないと思われますし、全く違う主張が他誌や他の信頼の置ける媒体で書かれていれば、それらを中立的に記載する必要もあると思われます。 ただ、そもそも「本人の業績にとって重要(relevant)」でないと合意されれば、たとえ信頼の置ける情報源にその記載があったとしても、存命人物の伝記には書く必要はないし、その他の点でも必要ないとノートなどで合意されれば、除去することに問題はないと思われます。
しかし、「週刊新潮は存命人物の過去についての憶測を掲載する出典として足るほどの「信頼出来る雑誌」」ではないと、合意なしにいきなり除去するのは無理があると思われます。(もちろん、「出典」とはかけ離れた記載がされていれば話は別ですが…。) --山本山815 2010年2月25日 (木) 08:05 (UTC)
  • ヴィクトル・ヤヌコーヴィチについては政治家ですので、過去の犯罪履歴をWikipediaに掲載することに問題は無いと考えます。あとは引用元とされる最新の週間新潮をコンビニででも立ち読みしてきて「適切に引用されているか」確認し、「憶測情報であるならそう読めるように」必要に応じて修正すれば宜しいかと考えます。--大和屋敷 2010年2月25日 (木) 08:17 (UTC)
コメント 週刊新潮週刊文春といった、ゴシップも扱っているような週刊誌が百科事典の出典足りえるのかどうか、私は非常に疑問を感じていたのですが、「あまり問題ではない」とお考えの方が多いのでしょうか?
例えば「多くの人が読んでおり一般的」という基準を設定するのであれば、日刊ゲンダイも出典として基準を満たすのでしょうか?それとも私が知らない、何か出典を質の面で選別する基準が、他にあるのでしょうか。もし日刊ゲンダイも出典として使えるというのであれば、私の知る世間的な常識からはかなり外れていると思うのですがいかがでしょう。さらにこの点について、出来るだけ多くの方の御意見を賜りたく存じます。
そういうことを考えている内に、もう一つ提起したい疑問が出てきました。
週刊誌は媒体です。ゲンダイは兎も角、週刊新潮週刊文春クラスのものであれば、中には学者(大学教授・大学助教授・講師・各種専門家)が執筆している記事もあります。そうした記事については、載せている媒体ではなく、「誰が書いているか」で「出典足り得るか」が判断されるべきではないのか?というのが現時点での私の考えです。「○○氏には過去の犯歴について××という話も流れています(芸能関係者)」といった、括弧内が(芸能関係者)とか(芸能通)とか、「情報源」が明らかになっていないようなものまで、百科事典に記載する際の出典として使用して良いものなのでしょうか?
たとえ掲載媒体が週刊新潮週刊文春等であっても、「○○氏には過去の犯歴について××という話も流れています(A大学講師△田□夫氏)」と書かれていれば、事典には「A大学講師△田□夫氏によれば、○○氏には過去の犯歴について××という話があるとされる」と書ける筈です。
まとめます。週刊誌については、「誰が言っているのか」まで書ける場合に、初めて出典足り得ると捉えるべではないでしょうか。--Kinno Angel 2010年2月25日 (木) 10:35 (UTC)
コメント 山本山815さん、大和屋敷さん、ご意見をありがとうございます。上記問題提起の他に、お二方には改めて返事を書かせて頂きます。大和屋敷さんのご指摘には幾ばくか頷けるところがありましたので(肯定しきるかどうかはまだ決めていません)、週刊新潮の確認をしておこうと思います。ただ、山本山815さんのご指摘については、上記問題提起でかなりの部分で回答になっているかもしれません。今後の議論展開によっては、山本山815さんへのお返事が自然と出て来るかもしれないということも申し添えます。--Kinno Angel 2010年2月25日 (木) 10:44 (UTC)
コメント 当方が挙げました具体例についてはノート:ヴィクトル・ヤヌコーヴィチに書いておきました。後は一般論としては、上記二つのコメント(10:35 (UTC)、10:44 (UTC))が、現時点での小生の意見となります。週刊誌・タブロイド紙の無記名記事は出典足り得ない、という合意形成が必要なのではないかとすら考えております。--Kinno Angel 2010年2月25日 (木) 16:14 (UTC)
たぶんそのあたりはWikipedia:信頼できる情報源(※草案)の問題だとおもいます。そしてご推測のとおり何をもって「信頼できる情報源」とするかというのは一枚岩で切り取ることが非常に難しい問題であると考えます。--大和屋敷 2010年2月25日 (木) 16:20 (UTC)
「タブロイド紙」は、「信頼性に乏しい情報源」とされています。 日刊ゲンダイ夕刊フジといった夕刊紙はタブロイド紙と考えられていますので、存命人物の伝記としての「出典として基準」は満たしていません。
「「情報源」が明らかになっていないようなものまで、百科事典に記載する際の出典として使用して良いものなのでしょうか?」という疑問ですが、今多くの一般紙でも「関係者」もしくは「○○関係者」と書かれた記事が多く見られます。 これは情報源の秘匿の問題も絡みますので、それを週刊誌だけに当てはめるのは間違いのように思われます。 さらに、「編集者はその種(記事の中身が真実かどうか)の調査をしないよう強く求められます。」ともあります。
私は、週刊誌の「タブロイド紙」的な記事まで「存命人物の伝記」に載せるのは少し疑問は持っていますが、それはノートでその都度個別に合意して慎重に除去すべき案件だと思っています。(最近そのような長い議論もありました。 この議論では、ゴシップ的表現は避けるという合意に至ったと理解しています。)
「著名な出版社によって出版されている雑誌」=週刊誌を、「信頼できる公表済みの情報源」ではない、とすることは、失われる物が多すぎてとても同意することは出来ません。 --山本山815 2010年2月25日 (木) 20:04 (UTC)
当方の言葉が言葉が足りていないかもしれませんので(あるいは要領を得ていませんので)、当方の主張を整理させて頂きます。
  • 一般紙(例:朝日新聞産経新聞)については、「関係者によると」といった表記であっても、出典として問題ないと私も思います。「匿名は全てダメ」とは思いません。
  • 週刊誌(例:週刊新潮週刊文春)の匿名記事における、「関係者」「国際部記者」といった表記のある記述については、出典としては不適切。
  • 大元の情報源が匿名であっても、週刊誌の当該記事が匿名ではなく評論家・学者によって書かれていれば、「○○によれば□□とされている(出典:週刊△△)」といった表現であれば出典足りえる。
おそらく私の主張につき、山本山さんに誤解があるのではないか、と…。--以上の署名のないコメントは、Kinno Angel会話投稿記録)さんが 2010年2月27日14:44 (UTC) に投稿したものです(--山本山815 2010年2月27日 (土) 22:13 (UTC)による付記)。
いえ誤解はありません。 そうやって一般紙と週刊誌で区別を設け、「週刊誌だけに当てはめるのは間違い」だと書いています。 その理由は上に書いています。--山本山815 2010年2月27日 (土) 22:13 (UTC)
山本山さん御主張の理由というのは「失われる物が多すぎ」という事でしょうか?他の部分について「週刊誌だけに○○を当てはめるのは間違い、なぜなら○○は週刊誌だけではないから」といった論法は、論証にはなっていないように思われます。というのは私は既にその事は前提にした上で、「週刊誌の署名記事と匿名記事は別にして扱うべきだ」と申しているのですから。混同されておいでのように見受けられますが、情報源執筆者は無論別です。
例を挙げますが、該当する週刊新潮には櫻井よしこ高山正之長嶋一茂等のコラムが掲載されていますが、週刊新潮に載せられているから信用ならないという訳ではありません。この場合、「櫻井によれば」「高山によれば」「長嶋によれば」といった表現で、出典に堪える、と私は考えます。無論「かくかくしかじかという話が関係者から出ている」というように、櫻井氏や高山氏がジャーナリストとして情報源を秘匿していても、そういうケースを私は別に問題にはしていません。
再三申しますが、一般紙と週刊誌の匿名記事には無視出来ない信憑性の差があるというのが私の常識としての感覚なのであり、ウィキペディアでこれを同格に扱うというのは常識から外れているのではという疑念が拭えないのです。その意味で「常識」という漠然としたものを扱うこの議論には、さらに多くの人数が欲しいところです。井戸端かコメント依頼にでも出そうかと考えております。--Kinno Angel 2010年2月28日 (日) 23:22 (UTC)
「一般紙はA。週刊誌はB。」と区別しない方が良いのでは?と考えているので、トートロジーにはなってないとは思っています。
ただ、「失われる物が多すぎ」との意見は変わりませんが、わたしも存命人物の伝記に「タブロイド紙」的表現は相応しくないとは思っています。(上にも書きましたが、以前そういった議論をしました。(議論合意)) もし、多くの参加者の中で、議論を通して合意されるのであれば、この際「週刊誌に対する新たな基準」を方針に追加するのも良いのではないかと思っています。 井戸端もしくはコメント依頼によって広く議論を行うことに賛成致します。 --山本山815 2010年3月2日 (火) 13:28 (UTC)

一次資料・二次資料の関係性について

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現状では
  • 一次資料とは、考古学的な人工遺物・映画・ビデオ・写真、日記・国勢調査・公聴会の議事録や裁判の記録・インタビューのような歴史的文書、アンケートや調査の結果一覧、実験室での分析・観察の記録、実地調査の記録といった、情報やデータを提供するものです。
  • 二次資料とは、他の情報源から取得した情報やデータの概括、分析、総合、解釈、評価を行うものです。
となっていますが、双方の関係性が曖昧ではないかと。
「二次資料」の説明では、あえて(?)「一次資料」ではなく「他の情報源」という表現を使っていますが、ここでいう「他の情報源」は草案信頼できる情報源の文言のように「一次資料」に限定したことなのか、あるいは、「一次資料」と「二次資料」は切り離されているのか、公式方針としては、そのあたりを明確にしておく方が良いかと思うのです。
で、「他の情報源」イコール「一次情資料」であるとなった場合、「一次資料」の定義にない直接的なインタビューのような情報源の扱いはどうなるもんかという疑問もあります。
例えば、「Wiki出版」という出版社が、「○○」という事象の関係者に対してインタビュー、取材を行い、それをもとに書籍を製作し、
  • 「我々の取材に対して、○○の当事者である××氏は、△△だと述べた」
という記事を発表した場合や、その分野についての他の情報に基づいて、
  • 「○○の当事者である××氏は△△という証言をしたが、□□の可能性もある」
といった分析、解釈を掲載した場合、「他の情報源」イコール「一次資料」だった場合、前者は、この新聞記事のもととなったインタビューには「一次情報たる歴史的文書」が存在していない(新聞社の取材による聴き取りのみ)ので、「二次資料」の条件を満たさず、「当事者である××氏は、○○事件について△△だと述べた(refタグ脚注「○○について」Wiki出版)」といった形での記事執筆の出典にしてはイカン、ということになるのか。
また後者も、「□□の可能性もある」という主張に一次資料が無いからダメなのか。
それとも前者は「一次資料」の定義とは切り離された「他の情報源」によるものとして有効に処理され、後者も

「「他の情報源」に対する著者の分析、解釈、評価」として肯定されるのか。一次資料二次資料の関係によって変わってくるかと。検証可能性とも絡むと思いますが、いったいどちらになるんでしょう?--ひゃくじゅうご 2010年3月4日 (木) 15:23 (UTC)

えーと、あんまり細かいところまでこだわらなくてもよいですし、実際こだわることができないことも多々あります。
「我々の取材に対して、○○の当事者である××氏は、△△だと述べた」というのは、まあ一次資料に近いものです。発言部分は、そこからさらに遡ることができる資料はない。ただ、取材というものは、いくらか誘導的なこともありますし、発言のどこを選択するかというところで、オリジナル性のようなところは弱い。
「○○の当事者である××氏は△△という証言をしたが、□□の可能性もある」の場合は、「○○の当事者である××氏は△△という証言をした」の部分は上と同じ。「□□の可能性もある」は、その証言に拠らないなら、その著者の意見の表明として、これも一次資料に近いかな。
一次とか二次とかいうのは、厳然として決まっているものではありません。ある考古学資料があり、それについての分析があるなら、前者が一次資料、後者が二次資料です。では、その分析に諸説あるような場合、個々の分析が一次資料、それらを総合的に比較・分析したような論文があればそれは二次資料と言えます。逆もあります。たとえば、源氏物語は一次資料と言えますが、実は、古来より伝わっている写本そのものが一次資料で、様々な考証などを経た二次資料でもあります。
何かを書くときに、情報源として使うべき資料、使うことができる資料を探し、その性質から、そのまま使うことが望ましいものもあれば、それ自体を使うことは難しく、それを分析したもの、類似する資料と共に比較分析したものを使うのが望ましいこともあります。取材ノートや取材テープのようなものが手にはいればいいのに、と思っても、手に入らないこともあります。そういったことは、書く記事の性質や使う資料に拠るところが大きい。どうすれば、記事の信頼性が高まるかということを、個々の場面で考えながら執筆し、ノートでの議論や、あるいは査読依頼やコンテストなどで他者の意見から学びながら考えてみてください。--Ks aka 98 2010年3月4日 (木) 18:37 (UTC)
ご意見ありがとうございます。
  • 一次とか二次とかいうのは、厳然として決まっているものではありません。
私もそう思うのですが…そういう意味で独自研究の方針文書が一次二次の関連性をぼかしているなら、双方の関連性を厳密化している信頼できる情報源の記述が競合している状態ではないかとも思います(公式方針が優先だ、草案など知ったことか、と言い切ってしまうならともかく)。
例えばノート:白燐弾の「写真キャプションおよび検証可能性について」における議論などでは、草案信頼できる情報源を拡大解釈して、Ks aka 98さんの言うところの「個々の分析」に対し、意図的な一次資料と二次資料の分類や関連性の厳密化に「こだわる」ことで、「それは一次資料の不明な二次資料で、筆者の個人的意見で信頼できない。だって一次資料が無いのだから」といった主張、もっと簡単に言うなら「出典(二次資料)の出典(一次資料)がなければ認めない」という主観的なループが、出典つき記述の除去に利用される例が実際にあり、気になったもので。--ひゃくじゅうご 2010年3月7日 (日) 03:41 (UTC)
現行の英語版の「独自研究は載せない」(en:Wikipedia:No original research)では
"Secondary sources are second-hand accounts, at least one step removed from an event. Secondary sources write about primary sources, often making analytic or evaluative claims about them."(二次資料とは間接的な記述で、少なくともある事象から一段階離れています。二次資料は一次資料について書いており、多くの場合はそれらについて分析的または評価的な主張を形成しています。<当方直訳>)とありますし、言語的な意味からも二次資料が一次資料に基づくものであるのは明らかかと思われます。
雑誌、新聞等での取材記事は個別にその信頼性を判断すべきもので、一律に一次資料、二次資料と決められるものではないのではないでしょうか?--Type64r 2010年3月7日 (日) 07:30 (UTC)
方針を理解せず、都合のいい表現を抜き出したり拡大解釈したりして自説を強化しようとする人の排除を容易にするために、よりよい記事にするために必要な方針の曖昧な部分を変えるというのは、避けたほうがいいと思うのですね。それはWikipedia:腕ずくで解決しようとしないの問題で。
検証可能な情報源を求めるのはなぜかと言うと、「それは一次資料の不明な二次資料で、筆者の個人的意見」だとしても、どこの誰だかも分からないウィキペディアの投稿者よりは信頼できるからだとぼくは考えています。文句があるなら、一次資料を突き止め、それを用いて信頼できる著者が個人的な意見を述べている信頼できる情報源を探すか、自ら査読付きの学術誌などで発表すればいいのですから。もちろん、一次資料となるものがなかったり、困難だったりすることもあります。情報源を示していない二次資料は、しばしば信頼性に欠けるものだということは言えるでしょう。しかし、諸処の事情で情報源を具体的に示せない場合もあれば、わざわざ示すまでもないという場合もあります。調べればあるのかもしれないけれど、当面の記述をどうするかという場面もあるでしょう。そういう場合は、少なくともノートなどで多少の知識を持つ参加者の間で合意が得られるような説得力のある提案をするのがよいでしょう。逆に、情報源があるということはウィキペディアに書いてもいいということではないということを理解されていない編集者も散見されますから、これもまた、その場その場で、対話をする必要が出てくるとも思いますし、提案を却下するのではなく、記述を多少書き換えることで論争が解決できることもあります。誤解や言い掛かりに近いものでも、そういうことがないような記述に修正すればいいのにと思うこともたまにありますですよ。--Ks aka 98 2010年3月7日 (日) 08:21 (UTC)
とりあえず、解説文の記述の変更をそこまで強く主張する気は無いので、現行のままでも良いとは思います。
例えば「食材○○を食べると胃腸に良いとされる(出典□□出版)」という記述があったとして、この記述を削除するか、あるいは否定的な見解を書き添えたいなら、本来は「食材○○は胃腸に影響を与えることは無い」や「食材○○は実は胃腸に悪い」と書かれた別の資料を探してくるか、あるいは、Ks aka 98さんの言うように、自分でどっかの出版社に原稿でも持ち込んで査読を受けて「食材○○が胃腸に及ぼす悪影響」といった論文を世間に向けて発表するか、つまるところ検証可能性独自研究の解説やKs aka 98さんの仰るところに行き着くんですけどね。
ただ、「自分は世間一般より優れた知識・情報を持っている」「自分が体験的に知った知識こそ正しい!世間には誤った情報が流布されている!」みたいな思い込みタイプの独自研究屋が出没しがちな趣味色の強いもの、サブカルチャー系なんかでは、「反証たる出典を提示し反論する」という議論が成されない例もけっこうあるように思うんで、それもあって今回ノートに書き込んだ面もあるのですが。
まあ、「否定することにも出典は必要」という事ぐらいは、本来、独自研究や検証可能性の方針さえ理解できいれば済むことなんで、わざわざ方針文書にそうしたことまで書く必要はないでしょうけど。--ひゃくじゅうご 2010年3月13日 (土) 09:18 (UTC)
最初の提案が「解説文の記述の変更」の提案ではなく、問いかけだったので、そのように答えましたが、記述の変更の提案だとすると。たぶん、どこまでローカライズするか、という問題。この文書は、日本語版に限らず重要な文書ということになっているので、基本的な説明としては適切ということで、あまり英語版から離れていかないようにしておく。その上で、ひゃくじゅうごさんが書かれているような懸念を抑えるために、よりわかりやすい解説をガイドラインのような形で作るというのがよいのかなと思います。
何度か、とりあえずエッセイとして利用者ページのサブページにでも書こうかと思ったことはあるんですが、けっこう手間がかかるような気がして。--Ks aka 98 2010年3月13日 (土) 13:27 (UTC)
エッセイというのは面白いですね。そういう手法もあるもんかとちょっと驚いてます。私としては、方針文書で言うところの一次資料・二次資料の説明でカバーしきれていないもの、体験レポート本や現地ドキュメンタリ本のような資料がどう扱われるか、なにか類例FAQのような形で明らかになったら、後から見る人も多少は楽かなと思ったのですが。もっとも、これだとかえって範囲を限定してしまうかもしれませんね。--ひゃくじゅうご 2010年3月29日 (月) 12:26 (UTC)

独自研究と著作権の矛盾

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外部のサイトに書いてあったことですがウィキペディアの「独自研究」には矛盾があるようです。


  • 独自研究の禁止、著作権侵害の禁止、文献の明記は必須
    • はっきりいうが独自研究なしに記事を書くなんて無理!
      • え?文献だけで記事を書けだって?本を見るだけで自分の創作が全くないってのはすなわち著作権侵害
        • なに?文献を読んで理解し得たことを書け?「理解し得た」ってのはすなわち独自研究
      • 厳格に「独自研究の禁止」を適用したら自然科学系以外の記事は全滅する。
        • 芸術系はある程度主観が入らないと書けない。というか、書く気が起きない。
    • あまりにもしょーもない矛盾スパイラル。
    • そもそも『独自研究』なる造語の定義が最も曖昧なので、何をもって『独自研究』とするのかは各個人の主観で判断される。
        • Wikipediaがいう独自研究にならない記事とはWeb上にある記事をコピペすることである。「百聞は一見にしかず」はどこ吹く風「この場所は我が家から遠くて見に行けない」、「これを調査するとお金がかかる」などの理由で独自研究認定という運用。
    • 地震に不都合な記述がある場合も{{独自研究}}のタグを貼り付け、それに便乗して不都合なテキストの除去を依頼しようとする輩もいる。
    • 文献(出典)を明記するにしても、雑誌名やISBNを正確に明記していないのが多い。
    • アンサイクロペディアにこれを馬鹿にする記事も・・・

どのようにお考えですか?--にごにい 2010年4月10日 (土) 12:12 (UTC)


  • こんにちは。Wikipedia:著作権という公式方針があります。--大和屋敷 2010年4月10日 (土) 12:35 (UTC)公式文書ではありませんがWikipedia:引用のガイドラインという記事もあります。引用元を丸写しすることは著作権上問題がありますし、引用元を明示しないまま丸写しされた投稿がしばしば削除対象として問題になっているようですね。いっぽうで「著作権侵害」と「独自研究」の間には相当広い領域があると思います。Wikipedia:著作権問題という記事もあります。他の書籍から引用しているときは引用元を明記するクセさえ守っておけば、よほど問題のある引用(現代詩の全文引用なり画像の無断使用等)以外は誰かが適切に修正(ないし削除)してくれると思いますよ。--大和屋敷 2010年4月10日 (土) 12:45 (UTC)あー元サイト見てきましたが、議論のための議論の提起でしたか?それなら私の上記のコメントはなかったことに・・・。よろしくお願いいたします--大和屋敷 2010年4月10日 (土) 12:49 (UTC)僕の理解としては「独自研究」というのはWikipedia読者に対する抗弁で、「著作権」というのは法的なリスクを回避するための自己規制だとおもいます。Wikipedia以外にどこの文書・メディアにものっていないような怪しげなことを記載されても読まされる側はたまったもんじゃないじゃないですか。いちおう根拠のない話じゃないですよという抗弁が独自研究(出典明記)ってことでしょう。著作権のほうは自主規制ですよ。権利者から侵害の事実をもって裁判をおこされること(とそれに加担すること)を防止するためのものでしょう。そんなに矛盾してるかなあ?--大和屋敷 2010年4月10日 (土) 12:57 (UTC)
  • すごく単純な言い方をすると、「独自研究の禁止」というのは、「あなた自身の考えは書かないで。資料を調べて偉い人の考えを書こう」ということです。一方、「著作権」というのは「表現」を保護するものであって「考え」そのものを保護するものではありません。要するに、偉い人の考えをあなた自身の言葉で紹介すればよいだけで、これは決して不可能なことではありません。--Dwy 2010年4月10日 (土) 13:22 (UTC)

現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査に当たるか

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細分化された専門分野の用語や俗語によくある事ですが、分野・集団・時代によって微妙に意味が違ったり、異なる付加条件がついたり、価値付けが違ったりする事があります(いわゆる社会的方言)。個別の分野・集団・時代における出典は存在するとします。それらの差異や変化を指摘する事は整理なのでしょうか、独自の価値判断なのでしょうか。

少し違う話ですが、Aという事項について、たとえば50年前の社会状況や常識からすれば「AはBである」という文言が正しく、出典もあります。しかし現在の社会状況・常識・前提条件からするとこれは正しいと言いかねる状況で、強いていえば「AはB+である」という状態です。これについての直接の出典はないものの、いくつかの資料で確認可能です。ひとつの判断としては、この事実を書かない事でしょう。しかし「AはBまたはB+であろう」という事を素人でも(だからこそ)簡単に思いつくような簡単な文言の場合、逆に触れない事によって誤解を生じさせる恐れがあります。この事案はどうでしょうか。

もののついでに、数学の教科書や論文では「XとYとZより自明」という証明が往々にしてみられます。紙の辞書も紙面が限られているので、読者のレベルを考慮しつつ可能な限り縮めて書きます。Wikipediaでは紙面に限界はないので、読みにくくならない範囲なら、中学生でも理解できる説明も可能です。リンクを使って理解を容易にすることも出来ます。しかし紙文献でそのような丁寧な説明は現存しない。一冊の教科書を読破して理解可能ならそれを参考文献として挙げればいいでしょうが、大抵の場合はそうではない。内容の独自性は全くないのですが(教育手法的な独自性はあるかも知れない)、出典を挙げろといわれたら困る。「A学での常識だ」としか答えられない。さあどうしましょう。

3つも挙げてしまいましたが、よろしくおねがいします。--Kurubu 2010年6月15日 (火) 11:30 (UTC)

個人的な考えではありますし、その項目の主題の性質や、「出典がない」と判断するに至る調査をどの程度やっているかというのにもよりますが、ともかく上から順に。
  • 個々の意味や負荷条件については直接的な情報源があるとします。ならば、単に列挙することはできますよね。そこで違いや変化を解説する文章は、常識的な範囲でならば許容されると思いますが、その文章が、明らかにされている情報源から逸脱していたり、特定の立場を強調するような内容であれば、独自研究となると思います。
  • 「AはB+である」ということが把握できる用例を情報源として挙げておけば、妥当な記述になり得ると思います。「何年のほげほげではAはBであるとされるが、ほげほげのような用例[1][2]もある」のような。
  • これは何を書きたいのか、ちょっと読み取れませんでした。「XとYとZより自明」というウィキペディアの記述の情報源として「XとYとZより自明」と書かれているものを用いればよいと思います。「1+1=2」の解説をしているものが挙げられていれば、「3+4=7」の情報源にそれを用い、そこからの演繹は常識の範囲としてしまって良いと思います。A学での常識のうち、それなりの部分は、A学の入門書や啓蒙書で得られると思います。自明の部分を丁寧に解説したいということであれば、まずは演習の参考書を漁るということになると思います。ただ、それが百科事典の役割ではなくて、教科書か学生向けの演習の参考書などの役割ではないか、ウィキブックスの領分ではないかとも思います。--Ks aka 98 2010年6月15日 (火) 12:50 (UTC)
数学の例を挙げたのはちとまずかったかと思いますが、具体的に言うと、俗語の由来の説明で、紙の辞書ではスペースの関係で非常に簡潔に書かれています(関連した語を発生順に矢印でつないだだけ、大抵は1行)。ところが俗語は言葉遊びな部分もあり、自国語なら説明せずとも分かると思いますが、外来語だと説明しないと分からない人も多いと思います。ところが「信頼に足る文献」はそんな事まで説明してない。ネット上の元の言語の文献でも「これより当然の結果として」みたいな書き方がされている。日本人の専門家も半分常識視しちゃってる。状況としてはこんな感じです。--Kurubu 2010年6月15日 (火) 14:41 (UTC)
常識として成立する課程での、同時代的な資料を探すってことになると思いますよ。たとえば「テレビっ子」なら国会図書館の雑誌記事検索で
  • 森 しげる「テレビっ子指導の社会心理学」社会教育. 25(8) [1970.08.00]
  • 森 しげる「テレビっ子の指導 (マスコミ時代の教育(特集))」児童心理. 24(2) [1970.02.00]
  • 高山 英男「テレビっ子が大人になったら」中央公論. 81(9) [1966.09]
  • 宇川 勝美「テレビっ子の指導法」児童心理. 20(8) [1966.08]
  • 寺内 礼治郎 他「テレビっ子になる子ども--その基礎条件と指導--特集・テレビと学校教育 」児童心理. 15(4) (通号 173) [1961.04]
くらいは見つかる。大宅文庫の目録にあたれば、まだ出てくると思います。--Ks aka 98 2010年6月17日 (木) 18:44 (UTC)

独自研究にインラインのテンプレートを用いてはどうか

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「独自研究にインラインのテンプレートを用いてはどうか」という提案をTemplate‐ノート:要出典でさせていただきました。そちらにご意見をいただければ幸いです。--有足魚 2010年10月15日 (金) 05:04 (UTC)

英語版から「アップルパイ」が消えている件

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まだ考えがまとまっていないのでメモ書き程度なのですが、英語版en:Wikipedia:No original researchからは"Apple Pie"の文言が消えています。ノートを読むと、

  1. 「"Apple Pie"で何が言いたいのか意味不明」
  2. en:Talk:Apple pieでさえゴタゴタ揉めてるのに的外れである」

ということが指摘されているようです。--fromm 2011年2月16日 (水) 02:04 (UTC)

「Aという本にBと書いてある」という記述に出典は必要か?

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「Aという本にBと書いてある」という記述に出典(=信頼できる情報源)が必要かどうかについて、こちらの議論で以下のように意見が対立しています。

  • 出典不要説:「Aという書物にBと書かれている」という事実(Bである、という事実、ではない)は、そのAという書物が出版ないし公開されていれば「書かれている」事実はだれにでも容易に検証が可能なわけですから、出典を必要としませんし、記述したところで独自研究にはなりません。
  • 出典必要説:、Wikipedia:検証可能性の点からは「Aという本にBと書いてある」という記述にも出典が必要なわけです。「Aという本」が出典だと言うのであれば、当然その信頼性を評価する必要がありますし、「出典はないけれど読めば誰でも分かるだろう」というのなら「独自研究」になってしまいますよね。

どのように考えるべきか、皆さんのご意見をお聞かせください。--Dwy 2011年2月22日 (火) 14:57 (UTC)

コメント まずここで論じるべき事柄かどうか疑問に感じます。コメント依頼はまずはノート:喜連川騒動に誘導した方がようのではないでしょうか。以後の編集のための参考もかねて、ここで一般論として論じたいということなのかも知れませんが、それならばもう少し問題提起の仕方を工夫した方がよいでしょうし、たとえばいきなりここで論じるのではなく、まずはWikipedia:井戸端に投稿するのもよかったのではないかと思います。
問題となっている喜連川騒動に関しては存じませんので、一般論として言えば、「Aという本にBと書いてある」という出典明示があれば、通常はそれ以上を求める必要は特にありません。もちろん出典自体が疑わしい場合もありますし、本を読んでいて出典タグを付けたくなるようなものをもありますが、そういったものは一般に出典にはせず、然るべき信用のおける出典を付加するか差替えるのが筋でしょう。
件のページでは出典が信用できないとして論争になっているようですが、しかし、その出典は町史だそうなので、通常ならば出典としても何の問題はないと思います。ただ、それが「一時資料」であることが問題になっているようですが、それも誰かの意見にあったように、その一時情報から結論を導き出すのではなく、その資料に基づいて淡々と事実を書くだけならば特に問題はないと思います。なお、「その資料に信頼性がない」という批判があるということは、相反する見解もあるはずで、その立場も何らかの出典に基づいて両論併記したらどうでしょうか? それができないなら、反対派の意見には説得力がありません。なお、この問題は、やはりここで論じるより件のノートページに議論を誘導した方がよいと思います。--Bokemiann 2011年2月24日 (木) 16:30 (UTC)
もう少しはっきり書けばよかったのかもしれませんが、こちらでお尋ねしているのは、一般論として、「Aという本にBと書いてある」という記述に出典(=Wikipedia:信頼できる情報源)は必要かという問題です。基本方針についての根本的な問題なので充分な議論が必要だと思いましたが、方針に関する一般論を個々の記事のページで論じるのは不適切だろうということで、こちらに誘導しました。井戸端でも良かったのかもしれませんが、こちらの方針の解釈の問題ですから、こちらのノートで議論するのが筋かなと考えました。井戸端で議論しても良いのであれば、その方が議論に参加してくれる人も多いでしょうから、今後はそうします。なお、町史が信頼できるか等々、喜連川騒動の具体的事例に関わるコメントは、後からでも結構ですので、ノート:喜連川騒動#一度記事の内容を見直しませんかの方にいただけるとありがたいです。問題をちゃんと切り分けて明確な誘導ができてなかったことについて、お詫びを申し上げます。
…で、一般論に対するBokemiannさんのお答えは、結局どちらなのでしょう?Aという本が出典として疑わしい場合は、「然るべき信用の置ける出典」を追加・差替えすべきだということなら、出典(=「信頼できる情報源」)が必要だというご意見のように見えるのですが、それでよろしいでしょうか?--Dwy 2011年2月24日 (木) 17:14 (UTC)
最初に一般論として書いた通り、「Aという本にBと書いてある」ということはそれ自体が出典なのだから、それに更に出典を加える必要はありません。但し、その出典が信用できないものならばその記述は削除される可能性もあるということです。大体、疑わしい資料を下にして記事を書くこと自体が問題だと思います。一般論としてはそれ以上は言えません。
後は個別の問題で、確かに「一色家の資料は信用性の問題もあって使えない」という意見が優勢でしょうが、信用できない資料が町史ならば特に問題はないと思います。町史ということで、(事実かどうかは別にして)ある程度の信用性も担保されるはずです。また、先にも書いたように、信用できない資料だという意見があるということは、別の立場の見解もあるはずで、信用性の問題はあるかも知れませんが、そちらの資料を使って両論併記をすることで論争をとりあえず回避することも可能ではないかと思うのですが。--Bokemiann 2011年2月24日 (木) 17:41 (UTC)
Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料には「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる」「分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない」場合には一次資料に基づいてよいとあります。Aという本に実際にBと書いてあるのであれば、「Aという本にBと書いてある」ということ自体はだれでも確認可能なので、恣意的な解釈・要約などが行われているとの異論が出ない限りはAを出典にしていいはずです。「Aという本にBと書いてある」という記載の事実そのものが正しいかどうかはAという本の通常の意味での信頼性が高いか低いかとは関係が無いので(極端な話「B」の主張内容が完全に誤りだったとしても「Aという本にBと書いてある」という記述自体は正しい)、Aの通常の意味での信頼性が低くても記載の事実そのものを記事に掲載できる可能性はあるはずです(もちろん掲載しなくていいということもある)。Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源に書いてある『サン』のケースとかがそうだと思いますが …。--貿易風 2011年2月26日 (土) 03:25 (UTC)
貿易風さんの考え方で行くと、「UFOは○○星から来た(出典:月刊「トンデモ」)」は駄目だけれど、「月刊「トンデモ」は『UFOは○○星から着た』という説を紹介している」なら別段の出典がなくてもOKということでしょうか?これはちょっとおかしくないですか?
Wikipedia:検証可能性は、ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」ですと言っています。たとえ「UFOは○○星から来た」という説の存在が確実な「真実」だったとしても、そういう「真実」のすべてを百科事典に記載して良いわけではありません。信頼できる情報源によって検証できることが必要だと思います。
なお、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源については、Wikipedia‐ノート:検証可能性#信頼性に乏しい情報源という議論もあります。議論に参加してくださる方がいなくて、尻切れトンボみたいになっていますが、もしよろしければあちらにもコメントをいただけるとうれしいです。--Dwy 2011年2月26日 (土) 06:23 (UTC)
それが記事主題にとって有意な情報であることは前提とします。その上で例示します。
ウイルス進化説」に「××は、ウイルス進化説が正しいと主張している(出典:××著書『××』、以下出典1)」と記載することは(出典があれば、そしてここでの議題以外の条件がなければ)常にOKと考えます。「ウイルス進化説は正しい(出典1)」と記載することも、他の利用者がその説を否定できないなら一時的にはOK(執筆者層が薄い記事分野では仕方がないでしょう)と考えます。但し、それがその分野における主流説でなければ(そして執筆者層が厚い記事分野では)別の出典によってすぐに覆されることが予想できますし、「ウイルス進化説」では既に記事に否定する第三者意見が記されています。他の利用者から「ウイルス進化説は正しくないという意見がある(出典2)」ということが示されたらその段階で、出典があるから即、断定形式で記載可能という状況は崩れ、その分野における説の妥当性とその記載のありよう(両論併記か、一方を少数意見とするのか、一方を記載に値しないほどの少数意見とするのか)を、複数の出典に基づいて検討する必要性が発生すると考えます。それ以降は、対抗する意見の数や信頼性などを総合的に考える必要があると考えますし、ケースバイケースかなと思いますので、一般化できるものではないと考えます。
否定意見が存在する場合に「ウイルス進化説は正しい(出典1)」というスタイルで書けないのは、単に「ウイルス進化説は正しい(出典1)が、ウイルス進化説は誤りである(出典2)」というのは日本語としておかしいという話であるがために、「××は、ウイルス進化説が正しいと主張している(出典1)」というスタイルを用いるしかなくなったというだけの話だと思います。否定意見がない限りは、どちらの形式で書いても問題にはならないと思います。否定意見があることを事前に知っているなら、初期加筆時点で「××は、ウイルス進化説が正しいと主張している(出典1)」というスタイルで書いておくほうが無難とは思いますが、そこはスタイルだけの話かと。
もちろん記載にあたる前段階で、典拠である月刊「トンデモ」に対する評価が行なわれている場合があると思います。例えば、「Wikipedia:存命人物の伝記」における暴露本の類は、典拠としてふさわしくないことが既に左記文書の中で示されていると思っています。そのような≪ここでの議題以外の条件≫によって、記載不可とされることはあるでしょうから、そのレベルでは上記に加えてさらにケースバイケースだと思います。--NISYAN 2011年2月26日 (土) 07:49 (UTC)
>(出典があれば、そしてここでの議題以外の条件がなければ)常にOKと考えます。
ここで「出典があれば」とおっしゃっているのは、「出典となる信頼できる情報源があれば」の意味でしょうか?「Aという本にBと書いてある」という記述については、「Aという本」に信頼性がなくても、Aを出典として記事に書いてよいという意見もあるので、その点をどうお考えなのかお聞かせください。
>それが記事主題にとって有意な情報であることは前提とします。
ここを「前提」にされてしまうと話が半分くらい終わってしまうのですが、その情報が「有意な情報」か否かを判断するための最初のステップが、その情報の情報源が「信頼できる情報源」かどうかを検討することではないでしょうか。常識的に言って、信頼できるメディアで全く取り上げられていないような情報は「有意な情報」ではありえません。そういう意味も含んで、Wikipedia:検証可能性は、「私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだ」と宣言していると思います。--Dwy 2011年2月26日 (土) 16:51 (UTC)
≪それが記事主題にとって有意な情報≫については、「評価時点では信頼できるメディアに取り上げられているかどうかは不明だとして、仮に取り上げられているとしたら、記述するに値する情報」という意味で書いています。「仮に信頼できるメディアに取り上げられていたとしても、記述に値しない情報、というわけではない」や「WP:NOTに抵触しない」というのに近い意味合いです。
コメントいただいた場所における≪出典があれば≫には、信頼できる情報源であるかどうかは考慮していません。他の記載に値しない/記載を避けるべき理由、上に書いたWP:NOTもそうですし、前回のコメントのWP:LIVINGもそうですし、対抗意見が存在することに伴う中立性の観点を理由とするものもそうですが、そういった記載に値しない/記載を避けるべき理由がない前提においては、検証可能でありさえすればよいと考えます。
大半の「自称……」といった類の情報はそうではないでしょうか?例えば、あるソフトウェアの作者は、導入実績として、≪株価時価総額上位50社のうち18社が法人ライセンスを購入≫と謳っています。ある団体は、その業界における先駆者、日本初かつ世界初であると主張しています。これらが信頼できる第三者によって取り上げられていれば、充分に記載に値する情報だと思います。しかし、そのような信頼できる第三者情報源が見つからないにしても、自称こんな特徴があるんだという主張については、「Wikipedia:信頼できる情報源#公表者自身についての記事内での自己公表された情報源」に沿った範囲において認められると思っています。
全てのソフトウェアにおいて、初版リリース日は記述に値する情報だと思っていますし、だからこそ{{Infobox Software}}には「初版」という項目があるのだと思っていますが、これがReadme.txtなどの自己公表以外の形ではうまく見つけられないことが結構あります。ダウンロードサイトへの登録日だとか、雑誌掲載時点での最新バージョンだとかの情報はちょくちょく見かけますが。他の分野においても「自伝にしかない情報」や「当該団体の公式サイトにしかない情報」の中にも、記載に値する情報はあるのではないかと思っています。団体名や商品名の由来なんかは、単独書籍で取り上げられるほどの企業でない限りは、公式サイトでしか見つけられないものも多くあろうと思うのです。それらが記載に値しないかというと、私はそうは考えません。
なお、私のここでの考えは一般論としての話であり、件の記事にそのまま適用できるわけではないと思います。件の記事は騒動事、現代的には不祥事に近い要素があると思いますので、WP:LIVINGでないにしても、否定的記述を許すに値する根拠、具体的には情報源の信頼性を必要とすると思っています。その観点で単純に≪信頼できる情報源であるかどうかは考慮≫しなくてよいとは言えないケースと思うのです。だからケースバイケースで検討すべき範疇の話ではないかと思うのです。それでもここで一般論の範囲で話を続けたいということであれば、私は上記のように考えます。--NISYAN 2011年2月27日 (日) 00:00 (UTC)
書き忘れていたのでもう少し補足。前回のコメントで私自身も混乱していましたが、「××は、ウイルス進化説が正しいと主張している(出典1)」は出典1が示す事実、「ウイルス進化説は正しい(出典1)」というのは出典1が主張する意見ですが、前者を後者の形で書くと「ウイルス進化説は正しい」ということを意見ではなく事実として書いているように読み取れてしまいます。その意味では単にスタイルの違いとするのは間違いでした。--NISYAN 2011年2月27日 (日) 00:18 (UTC)
Dwyさんの「2011年2月26日 (土) 06:23」の発言へのレス)
別におかしくはないと思いますが…。月刊「トンデモ」がどういう説を紹介したか、という記述内容の正確性が月刊「トンデモ」そのものによって「検証」できると考えられます。おっしゃるとおり情報を無差別に収集する場所ではないので、そんなことを記載する必要はないと判断されて除去される可能性はありますが、裏を返せば必要性があれば残せる可能性もあります。実際、なにがしかのオカルト・超常現象について解説する上で、(それに科学的実証性があるかとは別に)いわゆるトンデモな人たちがその現象は宇宙人の存在を裏づけるものだと主張している、というようなことを説明することには十分意味があるし、その一例として月刊「トンデモ」の内容を挙げることが読者の理解の助けになるのだと判断される状況であれば(Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源でいう「もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば」に相当するなら)載せたほうがいいでしょう。念のため書いておきますが、Aのみを出典として「Aという本にBと書いてある」と記載することについて、「それが常に適当である」といってるのではなく、「適当なこともある=出典がAのみであることをもって即却下されることはない」といってるだけです。一般論として情報源A自体の信頼性が著しく低い場合、結局は「載せないのが妥当」という結論になることのほうが多いとは思います(匿名掲示板への書き込みがソースです、とかだったら99%ダメだろうし)。--貿易風 2011年2月27日 (日) 04:36 (UTC)
貿易風さんのご意見に対しては、疑問点が2つあります。
(1)特に客観的な基準もないなかで「その情報が重要で残す値打ちがあるもの」かどうかをトンデモさんと議論して、結論が出せるものなのでしょうか?(私は非常に難しいと思っています。難しいからこそ、『独自研究』のルールが考え出されたのでしょう。)
(2)信頼できるメディアに一切言及されていない情報が、「その情報が重要で残す値打ちがあるもの」である可能性がどのくらいあるのでしょう?(私はゼロだと言っても良いと思っています。)--Dwy 2011年2月27日 (日) 05:19 (UTC)
1点目。仮に完璧に信頼のできる出典のついた記述であっても、「記事に掲載するだけの重要性がない」と判断されれば除去される可能性があります(WP:VWP:NORは記事に掲載するための必要条件であって十分条件ではありません)。したがって情報源の信頼性が高かろうが低かろうが「記述内容の重要性の有無を判断しなければならない状況」になる可能性は存在します。「出典が皆無な状況」であればその時点で記載NGになる(重要性の有無の判断を下さなくてもいい)ので、これらの方針の存在は「重要性の有無の判断」からウィキペディアンをある程度は解放しますが、完全には解放しません(その判断を「完全に」回避しようとするとWikipediaというプロジェクトは成立しないと思う)。「重要性の有無の判断」は確かに困難なこともありますが、それを承知でやらなきゃいけない場合もあるわけです。
2点目。まず、全ての情報源がきっちり「信頼できる」「信頼できない」に二分できるわけではないですよね。匿名掲示板への書き込みや一般人のBlog・個人サイトなど(その気になれば自作自演も可能なレベルのもの)を出典として「情報源AによればBである」と記述することは99%ダメだと思いますが、そういったものよりはマトモだけど信頼性が高いとも言い切れない…というような微妙なラインの出典に基づいた有用そうな情報について「『情報源Aによると』という前置きをつけた上で載せとこう」という結論に至るような状況はそこそこあると思います。要するにWikipediaとしてその情報源の信頼性を評価するのは諦めて、その判断は読者に任せようということです。「信頼性の低いメディアでしか言及されていなくても重要性があればOK」という言い方だと不安を感じるということであれば、「(重要性のある話題について)くだんの情報源によるものと明示することによって、求められる情報源の信頼性のレベルをある程度は緩くとることもできる」という言い方だとどうですか?
それから、その情報源を使ってどんなことをどの文脈の中で書こうとするかによっても掲載可能かどうかの判断はかわってきます。例えば月刊「トンデモ」という雑誌は、「そこに書かれている内容がどれくらい正確であると期待できるか」という意味での信頼性はきわめて低いかもしれないけど(つまりその内容を確定した事実であるかのように記事に載せるべきではないけれど)、オカルト系雑誌としては著名であって「オカルト論者が展開しているトンデモ理論がどんなものなのかを解説する」という文脈では一定の信頼性を備えていると判断できるかもしれません(であればくだんの情報源によるものと明示した上でその内容を記事で紹介するのもひとつの手だと思います)。そういうわけで、(通常の意味での)信頼性が低いからといって即座に記述不可能と判断されるわけではないといいたいのです。--貿易風 2011年2月28日 (月) 03:10 (UTC)
1点目。とりあえず「信頼できる情報源」の有無で最初のスクリーニングがかかるなら、「重要性」の判断を迫られる場面はかなり限られる。「信頼できる情報源」でなくても重要なら書いてよいと言ってしまうと、その最初のスクリーニングがかからなくなる。これは大変な違いです。
2点目。そうは言っても、最終的には「書いて良い」と「書いてはいけない」に二分することが必要になるわけです。恣意的になりやすい「重要性」などという基準を入れるよりも、「(百科事典の記事の出典にしても良いくらい)信頼できる情報源」と「(百科事典の記事の出典にするほどには)信頼できない情報源」に二分する方がよほど簡明でしょう。
なお、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源については、Wikipedia‐ノート:検証可能性#信頼性に乏しい情報源もご覧ください。「信頼性に乏しい情報源』の節は昔の英語版の記述に由来するものですが、英語版ではずいぶん昔に別の内容に書き換えられてしまっている規定です。というか、英語版のノートを見ると、この節が字義どおりの運用をされていたことは一度もないのではないかと思われる節もあります。私の個人的な印象で言うなら、多分この節を書いた人は、Wikipedia:中立的な観点#疑似科学と科学を対等に扱うのか の「少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し」の趣旨を混同していたのではないかと思っています。(「少数意見として提供」の部分は「○○によれば」のような前置きを付けての意味に解釈されていますが、これはもちろん、少数意見が「信頼できる情報源」で検証可能なことが前提となっています)
それから、同じ情報源が違う場面で「信頼できる情報源」になったり、「信頼できない情報源」になったりするのは当然のことです(アインシュタインは物理学の権威ですが、日本史のことは多分あまり知らないでしょう)。おっしゃるように「トンデモ理論」の記事では月刊「トンデモ」が信頼できる情報源になることもありえるでかもしれません。けれど、そういうことがあるからといって、「信頼できない情報源」がWikipediaの出典として使えることにはならないはずだと思います。--Dwy 2011年2月28日 (月) 14:02 (UTC)
(インデント戻し)1点目。前回のコメントで2点目として指摘した前半の部分とかぶるのですが、「Bと書いてあるAという情報源がある」という前提の下で情報源Aの信頼性を評価する際に、
  • 情報源Aは、記事に「Bである」と記載できるだけの信頼性がある(信頼性:高い)
  • 情報源Aは、記事に「Bである」と記載できるだけの信頼性はない(信頼性:低い)
という2つのほかに、
  • 情報源Aは、記事に「Bである」と記載できるだけの信頼性はないが、「AによるとBである」と記載できるだけの信頼性はある(信頼性:中ぐらい/判断不能)
という中間ランクを設定しておいたほうがよくない?…というような話だと思うのですが。実際に記事を書いていると「記事に掲載する意義のある興味深い話題でそれなりにマトモな情報源も確保しているが、信頼性が高いと断言はできない…」ようなことがときどき起こりますし、情報源の信頼性の評価について意見が対立し合意形成できなかった場合の妥協策にもなりうるわけです。信頼性が高いとも低いとも言い切れないようなものを「(記事に載せるだけ)信頼できる」「(記事に載せるほど)信頼できない」とWikipedia側が勝手に判断するよりは、その判断を読者に任せて「記載の事実」のみを示したほうが安全な場合もあります。ぼくは「内容の重要性の判断をする手間がかかる」ことよりも「信頼性の評価を誤ってしまうリスクを回避する」ことのほうが大事だと思います。
2点目。ぼくが前回のコメントでいいたかったのは、「同一の情報源でも信頼性の評価の結論が異なることがある」というより「情報源の信頼性の評価の仕方自体に2種類ある」ということです。これは「アインシュタインは物理学の権威だが日本史は専門外」という話とは違います。確かにアインシュタインによる著述内容のうち、物理学関係のものは信頼できるけど日本史関係のものはあまり信頼できないかもしれません。ですが、結局のところ「いってる内容自体が正確であると期待できるかどうか」という観点から信頼性を評価しているのは同じです。しかし、「アインシュタインが日本史についてどんな考え・知識を持っていたのかを説明する」という文脈で考えると、さっきの評価軸では信頼できないと判断された「アインシュタインによる日本史関連の著述」が信頼できる情報源になりうる、ということがいいたいのです。そしてこの信頼性の評価の方法の違いが、記事において確定的事実として「Bである」と記述するかそれとも「AによるとB」という形で記述するかという違いに対応しているのではないでしょうか。
で、ここでぼくの一番最初の発言(「2011年2月26日 (土) 03:25」)を見直していただければわかると思いますが、ぼくが述べているのは「通常の意味での信頼性が低くても記載の事実そのものを記事に掲載できる可能性はある」ということなんです。ここでいう「通常の意味での信頼性」というのは「内容自体が正確であると期待できるかどうか」という観点から評価した場合の信頼性のことです(このことが伝わってなかったとすればごめんなさい)。したがって、Dwyさんは「月刊「トンデモ」を出典としてその内容を記事で紹介するのが妥当なこともある」ということを認めているわけですから、実はぼくがもともと述べていたことも認めてもらったことになりますね。結局のところ「信頼できる」という言葉の使い方の問題で話がややこしくなってるのかもしれません。--貿易風 2011年3月1日 (火) 04:00 (UTC)
おっしゃるとおり「信頼できる」という言葉の使い方の問題かもしれません。私の言葉遣いで言うと、月刊「トンデモ」はトンデモ理論を語る際の一次資料としては「信頼できる」という言い方になります。
例えば、「オカルト論者が展開しているトンデモ理論がどんなものなのかを解説する」という文脈で、同じように「AにBと書いてある」という形式の記述をするとしても、
  • 『大手出版社から出ている月刊「トンデモ」に○○と書いてある』と
  • 『Dwy個人のブログサイト「オカルトを語ろう」に○○と書いてある』では、
記述の可否の判断が全然違ってきますよね。そしてそれは、情報源の信頼性を評価して「大手出版社から出ている月刊トンデモ」の情報なら(この文脈の情報源としては)信頼できるとか、「Dwy個人のブログサイト」は(この文脈の情報源としてでも)信頼できないという判断をするからではないですか。
つまり、記述の可否を判断するときには、常に情報源の信頼性を評価しながら判断しているはずであり、そこのところを『「AにBと書いてある」と書く場合には出典は不要であり、情報源Aの信頼性は問題にならない』と言ってしまうと、話がおかしくなるのではないかというのが、この節の議論を立ち上げたときの私の問題意識です。--Dwy 2011年3月1日 (火) 15:55 (UTC)

いろいろ論点はありますが、一番重要だと思われる論点に絞って、インデントを戻します。

「Aという本にBと書いてある」という記述に信頼できる情報源が不要ということになると、Wikipedia:独自研究は載せないの実効性がなくなってしまうのではないでしょうか?Web上に公表して誰でも「検証」(わざとWikipedia的でない意味で使っています) できるようにして、記事には「○○というサイトに~と書いてある」と書きさえすれば、どんな噂話やトンデモ理論でも、とりあえずWikipedia:独自研究は載せないはクリアできることになるんですよね?

もちろん、Wikipedia:独自研究は載せないをクリアしても、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか等のハードルがあるわけですが、「百科事典に乗せるほど重要な情報でない」「いや、これは○○にとってはとても重要な情報だ」と言うような議論は、容易に決着がつきません。だからこそ、「信頼できる情報源」の有無というある程度客観的で明確な基準で判断するWikipedia:独自研究は載せないというルールが考案されたのだと思います。

「Aという本にBと書いてある」という記述に信頼できる情報源が不要だというなら、トンデモ理論等をどういう基準で排除するのか、ある程度客観的で明確な基準が必要だと思います。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかは基準が主観的であいまいなので、それだけではあまり役に立たないと思っています--Dwy 2011年2月27日 (日) 05:02 (UTC)

(コメント)噂話やらトンデモ理論やらを持ち出してきても同じ結論だろうと思いますが。つまり、「出典とされる情報源の信頼性は?」ということです。そしてそれらは、wikipedia:信頼できる情報源の役割です。むしろ、その出典が信頼できるか否かということをwikipediaが判断してしまうのは逆の意味での独自研究でしょう。--Kodai99 2011年2月27日 (日) 10:19 (UTC)
どういうご意見なのか良く分からないので、確認させてください。「Aという本にBと書いてある」という事実はAが公表されている限り誰でも容易に検証できるから、たとえAがwikipedia:信頼できる情報源に該当しなくても、それ以上の出典は必要がないという意見があります(別の言い方でいうと、「Aという本にBと書いてある(出典A)」という記述は、(Bの部分に余計な分析や解釈が加わっていない限り)Aが「信頼できる情報源」に該当するかどうかにかかわらず常に許されるという意見です)。これ対してKodai99さんはどういうご意見なのでしょうか?--Dwy 2011年2月27日 (日) 11:03 (UTC)
(お返事)「AにBと書かれている」と書けるです。その余の部分は全てwikipedia:信頼できる情報源で行うべき問題だし、「A」の信頼性はwikipedia以外の場所に求めるべきだ、ということです。で、噂話やらトンデモ理論やらはその都度ノートで議論すべきで、画一的なルールを設けることはできないだろうという立場です。これまでの議論からは『「AにBと書かれている」と書ける』、『その記述が残せるかどうかはケースバイケース』というコンセンサスができているように見えます。--Kodai99 2011年2月27日 (日) 13:16 (UTC)
(Aが「信頼できる情報源」に該当しなくても)「AにBと書かれている」と書けると言ってしまった後に、wikipedia:信頼できる情報源で何を問題にするのか私には理解が困難ですが、「書ける」という結論は分かりました。噂話やトンデモ理論について、画一的なルールのないところでケースバイケースの議論をするのは非常に骨が折れるだろうし、議論してもなかなか結論が出ないだろうと思いますが、Kodai99さんがおっしゃるようにそれがコンセンサスなら仕方ありません。英語版では、このあたりをすべてWP:VとWP:NORで仕切っていて、信頼できる情報源がなければ「書けない」になっていると思うのですが、こちらでは事情が違うようです。--Dwy 2011年2月27日 (日) 14:45 (UTC)
ん?独自研究には抵触しなくても、特筆性や信頼できる情報源の方に引っかかったら記述できないって趣旨と違うのん?--61.124.4.130 2011年2月28日 (月) 11:41 (UTC)
コメント検証可能性と言うのは、百科事典の記事の記述に含める場合には、その情報源を示せというものであって、情報源を示していれば書いても良いというものではありません。百科事典の記事にBを書くにあたって、Aを示す必要があり、その書式として脚注にするか、本文中に「Aという本にBと書いてある」と書くかというのは、Bの確度というか、Bが事実と言えるようなものなら脚注でよいですし、Bが複数の見解の一つならば本文に書いたほうがいいとか、Bが一次資料や原著論文なら本文に書いたほうがいいとか、そういうふうに判断していくものだと思います。
記事には「○○というサイトに~と書いてある」と書きさえすれば、どんな噂話やトンデモ理論でも、とりあえずWikipedia:独自研究は載せないはクリアできる」わけではなくて、噂話やトンデモ理論であれば、少なくとも「○○というサイトに~と書いてある」と書かなければならず、その上で、中立的な観点から、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、公正に論争を記述するためには、競合する様々な観点を、その主題についての専門家や関係者の勢力に合わせて提示すべき、ということになるでしょう。勢力によっては書かないほうがいいこともある。
そこで、一般論としては「Aという本にBと書いてある」ということ全体についての情報源が、常に求められるわけではないと思います。単に情報源を示す上での表現という場合もあれば、Bの情報源であるAそのものが持つ情報から、じゅうぶん判断できることも多いでしょう。
「Aという本にBと書いてある」ということが、他の記述とあわせて、特定の観点を推進する要素の一部となるなら、包括的な別の情報源を示す必要がある。取り上げるに足る対立する学説の一つとか、科学的な信頼性はともかく社会的に知られている見解とか、ということなら、認知度に疑義があり、情報源Bが学術誌や著名な出版社から発行されている書籍でないならば、第三者的な情報源が必要になるでしょう。一次資料や原著論文ならば、一次資料自体の確かさがある程度担保されているなら(偽書の類とかもあるわけで)、まあ許容されるのではないかと思います。だからといって、過度に原典から引用するべきではないですが。
あとは、じゅうぶんな信頼はできないけど、否定もされておらず、信頼性は読者に丸投げできるってことで情報量を確保するか、一定の信頼できる情報源がない事柄であるのだからそれに即した情報量に収めて、信頼性が確保されていない部分については簡潔にまとめつつ情報源への道をつけておくことで今後の研究の発展の基礎となればよいと考えるか、てなところではないでしょうか。--Ks aka 98 2011年2月28日 (月) 17:49 (UTC)
記事読んできましたけど、これ独自研究ですね。単純な問題をすごく複雑に議論しているような...。ウィキペディアの出典、信頼できる情報源は普通二次資料、つまり新聞や雑誌の記事ですけど、問題の記事はすべて一次資料を基に書かれてますね。有効な出典がひとつもなく記事が丸ごと独自研究と言うのも珍しい気がします。
解決法としては、この史料を取り扱っている、日本史学者による論文や書籍を見つけてきて、それを基に書き直す、ということになると思います。--Bugandhoney 2011年9月13日 (火) 19:26 (UTC)

「例文は独自研究か」についてのメモ

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言語学系の記事、数学やコンピュータプログラミング系の記事などにはしばしば例文が紹介されていますが、これは独自研究に該当するのかどうか?という主題について少し調べたのでメモします。英語版Wikipediaのガイドラインにはen:Wikipedia:Scientific citation guidelines[3]があり、数学・物理学・分子生物学・細胞生物学・化学の分野では、定理を使用した簡単な事例を提供することに寛容な姿勢をもっており、(例文等を列記するのは百科事典的とはいいかねるものの権威ある雑誌やジャーナルでもしばしば行われているものであり)慎重で正確に作成されたものであるかぎり(独自研究として)クレームの対象とはしない、とされています。対象範囲を限定しない例文についてはさかんに討論されているようですが(たとえば[4])一定の合意が得られている状態ではなさそうでした。--大和屋敷 2011年7月9日 (土) 02:59 (UTC)

  • 一般論として「例文は独自研究か否か」は決められないと思います。出典があれば独自研究じゃないし、出典もなく自分で勝手に考えた例文は独自研究という、基本的な考え方が例文についても妥当する話でしょう。「出典に挙げられた例文の改変がどこまで許されるか」という話であれば、それはもうケースバイケースとしか言いようがないです。要は、その記述が出典として挙げられた文献の記載から導けるかという話で、これは、例文だろうがそれ以外の記述だろうが変わらないはずです。「例文」のみ特別視する必要もないし、「例文」のみ基準を厳しくしたり緩和したりする必要もない。まあ、「百科事典的か」という意味で「例文」の必要性が議論されることはあり得るでしょうが、それはまた検証可能性とは別論です。--かんぴ 2011年9月3日 (土) 05:16 (UTC)
    • 題材として「マジックナンバー (フォーマット識別子)#Unix系OSでの具体例」を挙げてみます。例文という表現には合わないものですが、例示によって説明しているという点では同じです。この例示は私が全く独自に考えたものであり、この例示に出典を付けることはできませんが、果たしてこれは「独自研究」でしょうか?果たして「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」の≪(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事≫には該当しないと言えるのでしょうか?ポイントは「読者は、そのとおりに何かを行うことで、何かを容易に検証できる」ように例示が行われており、それは≪専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説≫となっているのではないか、というものです。別段、現行の≪基準を厳しくしたり緩和したり≫しているわけではなく、≪数学・物理学・分子生物学・細胞生物学・化学の分野では≫≪専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説≫に該当しやすいケースが多いということなのではないかと思います。
      一応補足すると、先の例について、「/dev/null」は古のUnix系OSから存在するものであり、「gzip」も「compress」ほどの歴史はないにしても、大抵のUnix系OSに存在すると推定される(compressよりもgzipのが通りが良いだろう)という、読者環境を考慮した観点から選択した例示であります。--NISYAN 2011年9月3日 (土) 06:15 (UTC) +lk --NISYAN 2011年9月3日 (土) 14:41 (UTC)
コメントその項目の内容について、専門的な知識というほどではないが、一定の基礎知識がある、分別ある大人にとって妥当であるならば、独自研究とするべきではないでしょう。一定の基礎知識があり、分別がある大人が、その例示を妥当ではないという指摘があれば、基礎知識と分別によって、合意をして修正すればいい。--Ks aka 98 2011年9月3日 (土) 06:20 (UTC)
コメント先ほども述べたとおり「『例文』のみ特別視する必要はない」のですから、「例文」以外で特段出典が必要とされないような場合には、「例文」についても出典は必要でないわけです。NISYANさんの挙げた題材がそれに該当するかは分かりませんが、出典がなくても独自研究に該当しない場合であるなら、それは(例文か、それ以外かにかかわらず)独自研究でないのでしょう。いずれにせよ「例文」だからどうとかいう話ではなく、一般論として、「どういう場合に出典が必要か」という議論に解消できる話です。--かんぴ 2011年9月3日 (土) 06:31 (UTC)
コメント一般論から踏み込んで、特定の分野においては例示はより寛容に認められているようだ、尤もそれを一般論にまで広げてよいとするわけでもない、というのが大和屋敷さんの紹介だと思います。「例文」という特別記述と、「数学・物理学・分子生物学・細胞生物学・化学」という特定分野では、≪一般論として、「どういう場合に出典が必要か」という議論≫で解決される許容範囲が、他の記述や分野よりも広いようだ、という紹介だと思います。その話をわざわざまた一般論に戻す理由が判らないです。--NISYAN 2011年9月3日 (土) 06:54 (UTC)
そもそも、大和屋敷さんが示した英語版のガイドラインも、主に(日本語版でいうところの)「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」との関係で、例文を用いることも許容されるという話(ウィキペディアは教科書でも雑誌でもないけど、自然科学の分野で例示はよく使われているよ…という話)であり、独自研究との関連において、特にその基準が緩和されているということが書かれているわけではありません(例示が「独自研究にならない」というのも、出典の存在が前提となっています)。つまり、「例文を載せるか載せないかという意味で寛容」であるわけであって、「独自研究との関連において寛容」なわけではないわけです。「例文を載せるか載せないかという意味で寛容」であるべきかは、(最初に述べたとおり)「検証可能性とは別論」です。--かんぴ 2011年9月3日 (土) 07:51 (UTC)
提示された事柄が「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」との関係において取り上げられるべきものであり、≪独自研究との関連≫においてここで取り上げることではないという主張なら、もっと早めに言ってほしかったです。尤も、その議論はWikipedia:独自研究は載せないのen版で話し合われていることだから、それをここで取り上げるのが妥当でないとするのなら、それは疑問です。
そもそも(例文にも)≪出典が必要≫とか≪検証可能性≫とかいった観点を持ち出しているのはかんぴさんであり、他の人はそんな切り口で話をしていないと思います。私のコメントは、≪出典もなく自分で勝手に考えた例文は独自研究≫などの≪出典が必要≫という主張を受けてのものであって、私が≪出典≫≪検証可能性≫という観点を他者に先んじて発言しているわけでもないです。≪検証可能性とは別論≫と言われても、その観点を持ち出したのはかんぴさんでしょ、としか言いようがないです。
かんぴさんの発言の中では、≪出典がなくても独自研究に該当しない場合≫を想定した発言と、≪例示が「独自研究にならない」というのも、出典の存在が前提となっています≫という発言との間に矛盾があるように思うのです。「こういう場合に出典は必要でしょうか?」と事例提示しても≪出典がなくても独自研究に該当しない場合≫などと言われ、特定分野(における例示)では出典不要な場合が多いのでは?と言っても≪例示が「独自研究にならない」というのも、出典の存在が前提となっています≫などと言われても困ります。
コンピュータプログラミング分野などの特定分野においては、示されるコード(もっと言うなら、そこで使われているコマンドや関数やシステムコールなどの動作仕様、あるいはマニュアル、あるいは--helpなどのオプションをつけることで得られるヘルプでもよい)自体がそのコードの挙動に関する出典と成り得るように思います(難読化コードでもない限り)。そして、個々のコマンドが「そういった挙動を行うのか」という点に出典は不要と思います。その上で、そのようなコードの断片を合成して記事主題と密接に関係がある一連のコードとする、その点について「Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に抵触するという考えもできるかもしれません。そういったものについて≪(独自研究として)クレームの対象とはしない≫という話であれば、「Wikipedia:独自研究は載せない」の話題の範疇から外れていないように思います。--NISYAN 2011年9月3日 (土) 14:41 (UTC)
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>提示された事柄が「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」との関係において取り上げられるべきものであり、≪独自研究との関連≫においてここで取り上げることではないという主張なら…
→別にどこで取り上げてもいいですけど、英語版ガイドラインには、独自研究との関連において、「一般論から踏み込んで、特定の分野においては例示はより寛容に認められている」なんてことは書かれていない、という点を指摘したまでです(なので、別に取り上げてもいいですが、「特に何の根拠にもならない」というだけ)。ついでにいうと、「慎重で正確に作成されたものであるかぎり(独自研究として)クレームの対象とはしない」っていうのは、英語版ガイドラインのどこに書いてるのですか?
>そもそも(例文にも)≪出典が必要≫とか≪検証可能性≫とかいった観点を持ち出しているのはかんぴさんであり
→そうですよ。ウィキペディアにおける「独自研究」の問題は、記述を裏付ける情報源が存在するか、すなわち出典の要否の問題(そして、その出典は検証可能性を満たすようなものでなければならないのは当然)です。「独自研究か」という問題なのに、「そんな切り口で話をしていない」のであれば、先に本文(Wikipedia:独自研究は載せない)をお読みください。
>かんぴさんの発言の中では、≪出典がなくても独自研究に該当しない場合≫を想定した発言と、≪例示が「独自研究にならない」というのも、出典の存在が前提となっています≫という発言との間に矛盾があるように思う
→「例文だろうがそれ以外の記述だろうが変わらない」「例文だからといって基準が厳しくなるわけではない」のだから、出典がなくても独自研究に該当しない場合を想定するのは当然です。他方、「例示が『独自研究にならない』というのも、出典の存在が前提となっています」というのは、あくまで大和屋敷さんが紹介した英語版のガイドラインがそうなっているという事実(だから、別に英語版も出典の要否について、要件を緩和しているわけではないという事実)を摘示しています(上のコメントの文脈上そうなっているでしょう?)。「(1)独自研究かどうかにつき、出典が必要な場合もあれば、不要な場合もある。」「(2)紹介された英語版ガイドラインは、出典がある場合について書かれてある。」この2つのどこが矛盾していますか?
>特定分野(における例示)では出典不要な場合が多いのでは?と言っても≪例示が「独自研究にならない」というのも、出典の存在が前提となっています≫などと言われても困ります。
→ご自身のコメントをもう一度ご覧になって下さい。NISYANさんは、ご自身の意見として、「特定分野(における例示)では出典不要な場合が多いのでは?」などとは述べていません。NISYANさんは、「というのが大和屋敷さんの紹介だと思います」「許容範囲が、他の記述や分野よりも広いようだ、という紹介だと思います。」だと述べたのです。だから、私は、「大和屋敷さんが紹介した英語版ガイドラインではそんなこと書いてないですよ」と指摘したのです。もし、NISYANさんのご意見として、「特定分野(における例示)では出典不要な場合が多いのでは?」と(私の意見を求めて)質問していたとしたら、私は「それは分かりません」と答えていたでしょう(というか、「だとしたらどうなのです?」と答えたかもしれません。私は、「出典不要な場合にも出典を出せ」とは一言も申しておりませんので)。
(まとめ)以下、今まで述べたことをまとめておきます。
  1. 「例文は独自研究か」…これは、テーマ設定自体が適切でないと考えます。なぜなら、今までに述べたとおり、独自研究の例文もあれば、そうでない例文もあり得るからです。
  2. 「独自研究でない例文とは何か」…「必要な出典が示されているもの」だと思います。
  3. 「個別の出典をつけられない例文は全て独自研究か」…そうとも言い切れません。例文以外の記述において一字一句出典が必要でないのと同様、本文読めば明らかに例文が導き出されるような場合にまで、いちいち、例文に出典は不要と思います。もっとも、これは「出典が不要な例文もあり得る」というだけであり、「およそ例文に出典は不要」というわけではありません。どのレベルの出典が必要かについては、個別に判断するしかないです。
  4. 「『特定分野』における『例文』については、独自研究の基準が緩和されるか」…それはないと思います。特定分野だろうが例文だろうが変わりません。
結局のところ、「特定分野」だとか「例文」だとかいうことは、大した問題ではない(それらを、特別扱いする理由はない)ということです。--かんぴ 2011年9月3日 (土) 23:10 (UTC)
ご説明いただきありがとうございます。1から3については、ご説明いただいて判りました。4については納得いっていないところはありますが、少し置いて、考えが纏まったら、もしかするとコメントするかもしれません。--NISYAN 2011年9月4日 (日) 00:02 (UTC)
  • かんぴさんの要約のポイントは「ケースバイケースで当該記事で議論して決めよ」とするもので、問題意識に対する回答になっていないような印象があります。確認ですが【信頼できる情報源にあきらかにそのように解説されている例文】を引用するなり参照するなりして工夫してWikipeidaに紹介する以外の行為は独自研究の可能性があります。他の編集検討者により「それはそもそも独自研究だから不要じゃないだろうか?」と指摘されれば除去しなければならない。これがWikipedia編集ルールを素直に解釈した場合の編集検討上のガイドラインです。重要なのは【一般論として、「どういう場合にWikipedia記事において例文が許容されるか」という議論、どういう場合に「例文を載せるか載せないかという意味で寛容」であるべきかという議論[5]】に集約されると思います。英語版では例外措置として特別のガイドラインが合意されており、Scientific citation guidelines[6]です。さて、日本語版では①そもそも、Scientific citation guidelinesの合意がありませんので、数学やプログラミング等の例文であっても「独自研究だから削除してくれ」という編集依頼に対して抗弁することができない状況でした。en:Wikipedia:Scientific citation guidelinesを紹介したのは英語版ではこのような編集競合時の解決ガイドラインが存在するので参照してくれという趣旨があります。②「Scientific citation guidelinesがいうところの例文に含まれないものついてはWikipedia編集ルール上は独自研究だから削除すべきなのだけれども、ほんとうに削除で良いのだろうか」という問題意識が残ります。これに回答するに「ケースバイケースだから個別の記事で解決しろ」は問題意識に回答して頂いて居ないも同然です。なぜなら現状が「ケースバイケースで個別の記事で解決しているから」です。そこでもうすこしつっこんだガイドラインが必要じゃないかと考えます。
1.例文がそもそも当該主題を扱う「外部の信頼できる情報源」に紹介されている(【独自研究に相当しない】)
当然Wikipediaに引用なり参照する方法で紹介可能である。
2.例文がScientific citation guidelinesに該当する
英語版のガイドラインを参照して、日本語Wikipedia編集者間で議論して決定することができる。「その例文は独自研究だ」というクレームは直接採用されない。問題がない範囲で好意的に掲載すべきである。
3.例文が1.2.に該当しない
独自研究に該当するのでクレームがつけば原則削除すべきである。
3-1.他のWikipedia編集者に「好意的に受容」されている例文(独自研究)は放置していて良い(好意的受容の例外)。
3-2.あきらかに例文そのものに問題があり、別の例文に書き換えるべきだとする提案に対してクレームが付き、独自研究を別の独自研究で塗り替えるための編集検討や編集合戦が発生する。
第三者が見て、一方に明確に問題があり、あるいはまったく問題がないケースは、他方の例文を支持する編集者を説得してもよい。説得が不調であれば「そもそも独自研究なので全部削除すべき」を主張しても良い。
3-3.あきらかに例文に問題があり、削除すべきだとの提案が出た場合。
削除しても良い。但し例文を「適正化」したのち「削除すべきだ」とする提案者を説得しても良い。
3-4.あきらかに例文に問題がなく、しかも削除すべきだとの提案が出た場合。
これがいちばんの問題で、原則として削除すべきとなっています。英語版Scientific citation guidelinesはそもそもこのケースで、よって例外規定と特別に設定したわけです。
  • さてわたくしのつたないWikipedia体験によりますと、例文について問題のありそうな記事は論理学、言語学に多く見られると考えています。やや例外的な記事で確信犯という法的概念を紹介する記事でも同様の問題がありました(これは直近にかんぴ氏と編集検討し例文を削除した経緯があります)。この記事(確信犯)についてはほとんど言語学上の解説(辞書的な解説)のために例文がそもそも導入されたようで、別にあっても無くても良かったのですが、論理学や言語学方面では、信頼できる書籍や論文、テキストなどにおいても「例文」が紹介されることが多く、できればScientific citation guidelinesと同じように、「あきらかに例文に問題がない」場合は「好意的に受容する」例外規定を【ゆるやかにご納得】頂ければと考えます。この【ゆるやかなご納得】が相応に受容されるようなら公式ガイドライン化すれば良い。--大和屋敷 2011年9月4日 (日) 02:44 (UTC)
en:Wikipedia:Scientific citation guidelines#Examples, derivations and restatementsは、「『あきらかに例文に問題がない』場合は」のような言い方をしているわけではなく、「資料を読んで理解した人がウィキペディアに書かれた情報がどのようにして導き出されたのかを容易に見て取ることができる限り」(provided that a reader who reads and understands the references can easily see how the material in the Wikipedia article can be inferred)という条件を付けています。要するに、例文に問題がないかどうかを判断する際にもreference(資料=出典)の記述を基準にすると言っているわけで、必ずしもWikipedia:独自研究は載せない(=信頼できる出典がない情報は記述しない)から乖離した運用を定めているものではありません。微妙な言い方の違いかもしれませんが、大和屋敷さんのようにWikipedia:独自研究は載せないの「例外措置」だと言ってしまうと、「出典は要らない」と言っているようにも聞こえてしまうので、ちょっと抵抗を感じます。--Dwy 2011年9月23日 (金) 12:51 (UTC)
おっしゃる趣旨わかります。ある主題について、信頼できる複数の情報源において、例文により解説が利用されている事例がある。その場合はWikipediaにおいても例文を利用することができる。そのさいにはまったく同一の語により引用しなければならないわけではない(1+1=2とあるものを2+2=4の例文に変更しても許容される)。これは大和屋敷2011年9月4日(日)02:44の言うところの1.【例文がそもそも当該主題を扱う「外部の信頼できる情報源」に紹介されている】であり、まず異論なくWikipediaコミュニティから反論は出ないと思います。むしろ日本語版の現状で問われる箇所は信頼できる情報源において「例文」が利用されていることが、いまだに出典情報として明記・提示されていないWikipedia記事について、【例文を載せるか載せないかという意味で寛容】であるべきかどうかということじゃないかと思います。Wikipedia編集ルールの原則に従えば削除されるべきである(独自研究)。但し米国版のガイドラインに従えば、慎重に正確に記述されているかぎりはScientific citation については好意的に扱うので良いのではないかとされている、と合意されている(のではないかと大和屋敷は理解しています)。--大和屋敷 2011年9月23日 (金) 14:03 (UTC)