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Wikipedia‐ノート:独自研究は載せない/過去ログ5

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「独自研究」テンプレートの作成について

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まだ具体的なものではありませんが、Wikipedia‐ノート:出典を明記する にて、Template:独自研究 を作るかもしれないよ、という予告を含む提案をさせていただきました。そちらの議論や合意の内容次第で、あらためて議論を立ち上げるかもしれません。ひとまずお知らせまで。--スのG 2007年1月24日 (水) 02:25 (UTC)

たたき台を作ってみました。


独自研究:この記事や節の内容は「独自研究」にとどまっているおそれがあります。このおそれを解消するために、必要な議論をノートで行なってください。記事は、公に発表された信頼できる情報源を基にしてください。「独自研究」については Wikipedia:独自研究 をご覧下さい。


自分としては今ひとつしっくり来ません。改良案求めます。この文面では、記事は外部からの転載で作るんだ、と勘違いする人が出そうな気もします。それが杞憂ならよいのですが。--スのG 2007年1月28日 (日) 19:00 (UTC)

「このおそれを解消するために、Wikipedia:独自研究 を確認のうえ、出典を示したり、必要な議論をノートで行なったりしてください。」で、どうでしょう。--Ks aka 98 2007年1月29日 (月) 05:26 (UTC)
確かに、誤解を受けそうであれば書かないほうがなんぼもマシですね。では、

独自研究:この記事や節の内容は「独自研究」にとどまっている恐れがあります。この恐れを解消するために、Wikipedia:独自研究 を確認の上で、出典を示したりノートで必要な議論を行なったりしてください。


こんなところで。漢字/ひらがな、語順をいじりました。--スのG 2007年1月29日 (月) 12:16 (UTC)
当面、それでよいと、まあ個人的には、ですが、思います。ノートでの議論というのが、どの程度必要なのか、いまいちつかめていなかったりはしますが。実際には、独自研究はウィキペディア独自の表現なので、文書参照が第一義となると思いますから、語句の流れとして、「確認の上」が先行する形を崩さないのがよいと思います。そっちでは、ちょこっと口を出したきり議論に参加できずに申し訳ないです。--Ks aka 98 2007年1月29日 (月) 12:29 (UTC)

インデントを戻します。ガイドライン(草案)では「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供する信頼のおける情報源を出典を記し、その情報源に記された内容に忠実に記述することです」(ちょっと日本語が変ですが)と言っているわけですから、情報源・出典を示さずにノートで議論されても困るでしょう。だから、私が書くとすれば、次のような表現になります。

独自研究:この記事や節の内容は「独自研究」にとどまっている恐れがあります。この恐れを解消するために、Wikipedia:独自研究 を確認の上で、記述の根拠となる出典を示してください。また、もし既に充分な情報源が示されていると考えるなら、ノートで議論を行なってください。

もっとも、私としては「要出典」のテンプレートがあればそれで事足りるから、「独所研究」テンプレートは不要だという思いも捨てきれません。--Dwy 2007年1月30日 (火) 08:24 (UTC)


出典が形式的に明示されていても、正しく引用されていなかったり、都合よく部分だけを抽出したり、あるいは悪意を持って、出典先ソースにはそもそも該当する箇所が全くないのに、欺妄を目的に出典を羅列する場合が考えられるため、出典の明記だけでは非常に弱いのです。逆に、それゆえ出典の明記に過大な期待をかけるのも危険かと。出典をもとめるのは検証のため、検証は中立性のため、中立性のためには嘘や独自の研究(推論・結論)は排除する、という工程が重要かと考えます。個人的には、「根拠を示せ」「出典を示せ」と追求、糾弾するような論調が少しでも出ないような文面を望みます(スのGさん:第二案 に賛成)。時々「出典を○○日以内に示さない場合はリバートします」などといった記事を見ますが、糾弾された側が腹を立てて、悪意からデタラメな出典を書かれても忙しい大半のWIKIPEDIANには検証の機会がなく、かえって害悪が拡散する危険があり有害です。--58.95.145.142 2007年1月30日 (火) 09:46 (UTC)


独自研究:この記事や節の内容は「独自研究」にとどまっている恐れがあります。この恐れを解消するために、Wikipedia:独自研究 を確認の上で、記述の根拠となる出典を示したり、情報源の適確さについてノートで議論を行なったりしてください。


(以前の私の案を目立たなくしました)これぐらいではいかがでしょう。Wikipedia:信頼できる情報源にリンクしたほうが良いでしょうか? --スのG 2007年2月1日 (木) 18:23 (UTC)

独自研究の場合は、何が適確なのか、という点についても、独自の判断基準が求められ、情報源の適確さへの議論が、メディアは真実を報道しないとか、そっちに向かいがちなように思います。なので、出典の明記に留めるほうがよいのではないかなあ…。--Ks aka 98 2007年2月2日 (金) 04:17 (UTC)
数では及びませんが、自分のウェブページにある自説を開陳するタイプの独自研究も結構あります。「記述の根拠となる出典を示し、情報の妥当性についてノートで議論を行なってください。」とやりましょうか。情報源ではなく情報に、出典and/or情報源ではなく、出典then議論に。妥当性がベストの言葉とは思えません。出典のない独自研究と、出典のある独自研究の両方に上手く対処できれば理想です。--スのG 2007年2月2日 (金) 06:34 (UTC)

自分のHPでは、wp:norで求められる出典ではないということで。「wp:norでは、個々の事柄についての検証可能性とは異なる形での出典が求められています」みたいなことが伝わるように、ということなのかなあ。自分が執筆者だとして、このテンプレを貼られて、ノートで何を議論しないといけないかってのがわからないんすよ。俺理論ではないトンデモは、トンデモ的に位置づけることなく書いてはいけませんということもあったほうがいいような気もしてきたけど、それは本来「中立的観点」か。--Ks aka 98 2007年2月2日 (金) 07:54 (UTC)

おっしゃられてみると確かに中途半端な文になってました。第一義に帰り、「この恐れを解消するために Wikipedia:独自研究 を確認の上で、その方針に沿った出典や情報源を示したり、ノートで議論を行ったりして下さい。」となると、方針名の改名、翻訳文の確定、公式方針化を進めなきゃ、という結論になってしまいそうな。後ろの話は Wikipedia:中立的な観点#疑似科学と科学を対等に扱うのか ですね。--スのG 2007年2月2日 (金) 10:40 (UTC)

ああ公式化の問題もありますね。orz。「この恐れを解消するために、Wikipedia:独自研究 を確認の上で、ある事実の典拠だけではなく、分析や統合の根拠となる出典を示してください。」とか?--Ks aka 98 2007年2月2日 (金) 10:49 (UTC)

方針の文に近づける方向は良いと思います。語彙を合わせるならば「この恐れを解消するために、Wikipedia:独自研究 を確認の上で、ある情報の典拠だけではなく、解釈や評価、分析や総合の根拠となる出典を示してください。」でしょうか。現在 synthesis に「総合」の訳語が当てられています。また、information, data, material を「情報」としてみました。今後に方針の和文が書き換われば、それに応じてテンプレートの文も修正するということで。--スのG 2007年2月2日 (金) 11:53 (UTC)
独自研究:この記事や節の内容は「独自研究」にとどまっている恐れがあります。この恐れを解消するために Wikipedia:独自研究 を確認の上で、ある情報の根拠だけではなく、解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。

少しなおして箱にしてみました。--スのG 2007年2月4日 (日) 16:27 (UTC) 再修正--スのG 2007年2月4日 (日) 16:31 (UTC)

試作テンプレートをアップロードしました

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試作品に使用法と解説をつけて、Template:独自研究 としてアップしました。みなさまのチェックをお願いします。テンプレートや付属の文章に大きな問題がなければ(なくなれば)、井戸端 (告知) と出典の明記のノートに試作品として持って行きます。--スのG 2007年2月5日 (月) 16:28 (UTC)

試作品について支持も異論も無い状態ではありますが、ひとまずお披露目して参ります。--スのG 2007年2月7日 (水) 16:44 (UTC)
引き続き支持も異論も無い状態が続いております。Wikipedia:井戸端 (告知)#テンプレート「独自研究」試作しました でもお知らせしました通り、10日ほど経ちましたら発効とさせていただきたいと思っております。ご検討よろしくお願いします。--スのG 2007年2月19日 (月) 04:51 (UTC)
匿名IP主義者なので可否発言は控えておりましたが、新テンプレート2種とも賛同いたします。--58.95.141.91 2007年2月19日 (月) 06:24 (UTC)
ありがとうございます。一定期間異論がつかなかったことから、発効ということで各方面にお知らせいたしました。なお、(1)テンプレート名、(2)文面、については、本ノートや Attribution のノートの議論により修正する可能性があります。さらに、(3)埋め込むカテゴリ、がまだありません。各方針が落ち着いた時点で相談できればと思っております。--スのG 2007年3月2日 (金) 15:50 (UTC)

不粋なのはご勘弁を

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出典さえあれば、すべての責任が回避できるというのは典拠主義、原典主義、ありていに言えば官僚主義的無責任体質、あるいは原理主義というヤツです。出典さえ明示すれば、内容については責任が回避できる、という立場にWIKIPEDIAがお墨付きを与えるのは危険だろう。いわく、そういう記事はつまらない。--隠者 2007年2月2日 (金) 16:39 (UTC)

記事恋愛など面白いですよ。典型的な典拠主義でつまらないw--58.95.145.142 2007年2月2日 (金) 16:44 (UTC)
(節分けます)事典や辞典には編集方針がつきものなので、その枠が不粋でつまらないのはご勘弁くださいませ。私個人はいつかシュールリアリスティックな文章ひっさげてアンサイクロペディアに乗り込んでやろうと狙っているのですが、ウィキペディアで普通の記事書くより余程むずかしく、実現できずにいます。--スのG 2007年2月4日 (日) 16:27 (UTC)

全体の構成について

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皆さま、検討作業ご苦労様です。今一つ、現在の議論の焦点がわかっていないのですが、はやく公式化するとよいなと思っています。ところで、日本語版で議論をしているうちに、英語版はだいぶ構成などがかわりました。もちろん、日本語版が英語版のコピーである必要はないのですが、見比べてみると、現在の英語版の方が全体の構成はすっきりとしてわかりやすいように思います。もし現在の日本語版の文面を大きくいじってかまわなければ、英語版最新版の構成を取り入れたものに取り換えたらどうかと思うのですが、いかがでしょうか。--Aotake 2007年2月7日 (水) 15:31 (UTC)

教えて下さい。ざっと眺めただけですが「What is excluded?」が「Why do we exclude original research?」と合わせられて整理された上で「Sources」よりも前の場所へ持ってこられて、「Origin of this policy: the opinion of Wikipedia's founder」の節が脚注へ行き、「The role of expert editors」が一般化された内容で「Citing oneself」となり、さらに「Related policies」の節が加わり、「On talk pages and project pages」の節が除かれた、ということで良いのでしょうか。勘違いがあればごめんなさい。英語版には en:Wikipedia:Conflict of interest なるガイドラインがあるようですので、それが日本版には無い(のですよね?)ことが踏まえられた上での整理であれば賛成です。「What is excluded?」が前にあるのは良いことと思います。--スのG 2007年2月7日 (水) 16:44 (UTC)
早速のコメントありがとうございます。基本的にはおっしゃっていただいてる通りだと思います。私も禁止されるものが先に示されているのがよいと思いますし、ORの定義が冒頭においてあるのもずっといい構成だと思います。Conflict of interestについては、citing oneselfに関連してということだと思いますが、そのあたりは必ずしも英語版最新版と同じにしなくてもよいと思いますので、柔軟に対応できるのではないでしょうか。あと1、2日待って異論がなければちょっとやってみようと思います。問題があれば差し戻せばいいわけですしね。--Aotake 2007年2月8日 (木) 02:18 (UTC)
やってみました。日本語文は構成を変えただけで、文自体はほとんどいじっていません。英文の方はかなり汚くなってしまってすみません。日本語文のいいまわしなどで変えてもいいところもありそうですが、まずは構成についてご感想などを聞いてから次に進むことにします。--Aotake 2007年2月9日 (金) 10:24 (UTC)
あんまり反対などもないようなので、ちょこちょこと進めています。問題があればいつでもストップをかけてください。--Aotake 2007年2月12日 (月) 03:27 (UTC)

ごく小さな少数派について

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2007年2月11日 (日) 16:03と16:07の版で春野秋葉さんによって、「Wikipedia:中立的な観点」の節に次のような文がコメントアウトの形で加えられました。

ジンボ・ウェールズは2ちゃんねるのような「多数の匿名の人物の集合体」のような存在を想定していないことに留意する必要があります。「言及するのに意味があるような少数派」でも、それが2ちゃんねらーの場合、「著名」な支持者の名前を挙げることは困難です。だからといって、2ちゃんねらーを「極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派」として扱うことは、それらが「極めて小さい」または「極めて限定されている」という確実な証拠がない限り、そのように扱ってはならないし、「その内容はウィキペディアで言及するに値しない」としてそれらに関する記述を除去してはなりません。

コメントアウトの形で文を紛れ込ませること自体のよしあしはおいておいても、当該部分にこのような注釈を加えることにはやはり議論が必要ではないでしょうか。ちなみに、私はジミー・ウェールズもネット掲示板の存在についてきちんと理解しているはずだと思っていて、2ちゃんねるで話題になっていたとしてもウェールズの言っていることはそのまま当てはまると思いますし、この注釈は的外れだと思います。--Aotake 2007年2月12日 (月) 03:27 (UTC)

まさに、特定の立場を有利にする意図を持って、加えられた内容のようですね。--Isorhiza 2007年2月12日 (月) 13:19 (UTC)

コメントアウトとはいえ合意を得ずに記載してしまい、失礼いたしました。自己弁護いたしますと、日米では匿名#ネットワークにおける匿名のとおり、匿名に関する見方が大きく異なります。アメリカでは匿名掲示板は一般的ではありませんし、したがって2ちゃんねるのような「巨大な匿名掲示板」というのも存在しません。J.ウェールズ氏は2ちゃんねらーのような「『言及するのに意味があるような少数派』であり、なおかつ『著名』な支持者の名前を挙げることは困難であるケース」について想定していないのはその発言から見ても明らかです。2ちゃんねるに詳しく通じている人物であればこんな発言は絶対にしないはずだといってもいいでしょう。「著名」な支持者の名前を挙げることが出来ないばかりに、実情を無視された「極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派」として扱われ、「その内容はウィキペディアで言及するに値しない」として記述が除去されてしまうなんて、2ちゃんねるおよび2ちゃんねらーがあまりにも不憫でなりません。--春野秋葉 2007年2月12日 (月) 17:20 (UTC)

んー。ごめんなさい、春野秋葉さんが想定しているケースがよくわかりません。極小少数派の人がいくら2ちゃんねるで大々的にキャンペーンを行っていても、2ちゃんねるで発言した事実を以てそれが言及するのに意味があるような少数派になるとは思えず、もし言及するのに意味があるのであれば、2ちゃんねる外でも信頼できる情報源において同趣の意見が表明されると思うのですが、違いますか?それとも、2ちゃんねるそのものの文化が極小少数派として言及に値しないとされることを危惧していらっしゃるのでしょうか。ちなみに、2ちゃんねるの世界における特異性、著名性は認めますし、日米では匿名に関する見方が異なる、という言説にも一部の真実はあるでしょうが、アメリカ合衆国でも匿名のネット活動は充分ありますので、ウェールズがそういうことに無知だと想定するのは、どうかと思いますし、喩え無知だったとしても、やはり彼の説明は充分通用すると思うのですが、どうして「こんな発言は絶対にしないはず」と思われるのでしょうか。すみませんが、もうすこし具体的に「不憫」な例をあげてもらえますか。--Aotake 2007年2月13日 (火) 02:46 (UTC)
別の観点から。匿名の掲示板の場合は、①ログ保存の安定性から検証可能性に乏しい②発言者が特定できない以上、いかなる崇高な文字列であっても、それは単なる記号の羅列にすぎない③ソースが2ちゃんねるではさえない。むしろ笑かす。④2ちゃんねらは不憫くらいで丁度良い。--58.95.141.91 2007年2月13日 (火) 04:06 (UTC)

(Aotakeさんの発言に対して)Aotakeさんが「極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派」と考えているものを私は「言及するのに意味があるような少数派」と考えている、まさにこの解釈の違いなのです。そして、その基準としてJ.ウェールズ氏が述べている「『著名』な支持者の名前を挙げることが容易かどうか」では2ちゃんねらーが「極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派」と判断されてしまい、「その内容はウィキペディアで言及するに値しない」ことになってしまうのですが、2ちゃんねらーの参加者数や社会的影響から考えると、2ちゃんねらーを「極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派」と判断するのは不適当であり、「言及するのに意味があるような少数派」と考えるのが適当であろうと考えるわけです。だから、J.ウェールズ氏の基準は2ちゃんねらーについては当たっていない以上、2ちゃんねらーについては想定していないと私は主張しているのです。2ちゃんねらーを「極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派」と考える人はJ.ウェールズ氏の基準を基にそう考えているのか、あるいは独自の基準によってそう考えているのか分かりませんが、いずれも当を得ていないと思います。また「不憫でなりません」は不当に低い扱いを受けている2ちゃんねるおよび2ちゃんねらーに対して述べたもので、必ずしも具体例を意図したものではありませんでしたが、具体例を挙げるならば私がかかわった例としてこれこれがあります。どちらも5年以上の歴史があり、前者はアスキーアートによる時事的な風刺を含めた対話形式、後者は実況スレッドですが数時間ごとにスレッドが更新され、スレッドの総数が18000を超える程の人気があるにもかかわらず、どちらもウィキペディア日本語版の記事として存在することを許されませんでした(前者はほとんど内容のない削除依頼が通ってしまったことにも問題があるとも考えて復帰依頼をしましたが、理解を得られず却下されています)。

(58.95.141.91さんの発言に対して)まず、Wikipedia:検証可能性をもって2ちゃんねらーが「言及するのに意味があるような少数派」と「極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派」のどちらであるかを判断するのはそもそも不可能だと思います。また、現在ウィキペディア日本語版ではWikipedia:検証可能性を厳密に適用するとサブカルチャーを中心に「少なくとも数万の記事」が削除対象となっていしまうのを避けるため、Wikipedia:検証可能性を少し緩めに解釈しているようですが、現状ではその「少し緩めの解釈」が恣意的に適用されており、2ちゃんねるに関する記事に対しては「少し緩めの解釈」ではなく、本来の厳密なWikipedia:検証可能性を適用して出来るだけ締め出そうとされつつあります。これについての議論はWikipedia‐ノート:検証可能性に譲りますのでこれ以上書きませんが、私はこれを危惧しております。次に、58.95.141.91さんは匿名を実名よりも下に見ており、むしろ蔑視しているのではないかとさえ思われますが(2番と4番より)、それが日本国内で支配的な考え方であれば、2ちゃんねるを含めた匿名掲示板のこれほどの発展はなかったのではないかと考えられます。前の発言で挙げた匿名#ネットワークにおける匿名にもそれが現れております。であれば、ウィキペディア日本語版では(日本国版ではないにしても)匿名を実名よりも下に見るのは間違いであり、蔑視すべきではないと思います。J.ウェールズ氏も蔑視こそしていないものの「アメリカでの一般的な考え方」によって匿名を実名よりも下に見ていることは、ここで問題になっている基準を見れば明らかですし、それをもってJ.ウェールズ氏を非難することは出来ません。ただ「それが日本国内の実情に合っていない」だけなのです。なお、ログの保存については58.95.141.91さんのおっしゃることに間違いはありませんが、2ちゃんねるでの習慣として「数年間にわたって続くような人気スレッドの場合は、有志がログを保存し、『まとめページ』として別のサーバー上に保存しておく」というものがあります。またこのような人気スレッドの場合、前のスレッドのレス数が1000に達して終了しても間をおかずに(数時間単位で開くことはあるが、数日単位で開くことはまずない)新しく継承スレッドが立ちますので、常に最新のスレッドが存在しているといってよく、そのスレッドが記事の正しさの証拠となりえます。以上が反論です。--春野秋葉 2007年2月13日 (火) 08:00 (UTC)

私も「ねらー」の一人ですが、不憫がられる理由がわかりませんな。匿名とか実名とか、少数派がどうこうの問題じゃない。別にあの媒体だけを特別扱いしているわけでなくて、スポ新の署名記事でも、実名ブログに書かれていても、高名な大学教授の講義ノートに書かれていても、同じことですが。例の個人運営の掲示板のカキコの一つ一つが、査読や、編集校正過程を経て掲載されるようになってから、もう一度いらっしゃい。意味がわからないなら、1本でいいから論文を書いて、査読のある学会誌に投稿してごらんなさい。--Isorhiza 2007年2月13日 (火) 12:07 (UTC)
Wikipedia:検証可能性などの方針やガイドラインと 2ちゃんねるのいろんな事象との相性が悪いだけだと思うのですよ。また、ウィキペディアに載らなかったり、削除依頼まわりで色々言われたからといって 2ちゃんねるの有象無象の価値が下がるわけでもないでしょう。そのあたりの相性の悪さを無理に詰めようとする必要はないのではないでしょうか。--スのG 2007年2月13日 (火) 12:29 (UTC)
気になったのですこしだけ。ウィキペディアは百科事典ですから、その記述自体が何らかの権威ある、人類の常識とでもいうか、人類が共有しており共有すべきだと広く認められる情報を記述しているものであるべきです。しかし、ウィキペディアはウィキ形式をとっており、その情報の取捨選択を学者有識者の類いが行っているわけではありません。そこで、どこに権威に求めるべきなのかという問題に対するひとつの回答がWP:Vであって、現在すでにこの方針はウィキペディアが拠って立つべき基盤として確立されているものと思います。その精神は、先行する学術研究やメディアによる価値判断なしにウィキペディアが情報を評価し取捨選択せず、そのような話題は取り上げない、という事であると理解できます。
一方で、英語版をはじめとして、日本語版でも既存メディアに取り上げられるなどしてウィキペディア自体が「権威の源泉」として成り立ちつつある事情もあります。WP:VやこのWP:ORの現在の内容から判断すると、2チャンネルの中で起きている事象を全て排除すべきだとは結論されないと思います。報道機関や学術研究の対象になったような事象に関しては取り上げるべきだと解釈できます。しかし、「2チャンネル自体が注目すべきメディアであるから『極めて限定された少数派』として切り捨ててはならない」とルールを変えてしまうと、2チャンネルや2チャンネル上の事象、言論などに対してウィキペディアがポジティブな評価を与え、人類が共有すべき情報として世間に発信してしまう結果になります。これはウィキペディアがある情報・事象に関する価値判断、権威付けを学術研究やメディアに先んじて行うべきではないとの原理に著しく反すると思いませんか?2チャンネル上の出来事であっても、それが noteworthy であるかはウィキペディア自身が判断するのでなく、WP:Vに従って消極的かつ保守的かつ受動的に行うべきであると思います。ある特定のスレッドなりなんなりが学者の研究対象になったり、広く報道されたりする事になればそれは noteworthy であり、そうでなければ原則的にそこに価値判断を付与すべきではなく、ウィキペディアの記事の対象になりえないと思います。--Pugnari 2007年2月13日 (火) 14:06 (UTC)

結局、私の noteworthy の解釈が一般的な解釈とズレてしまったのが問題なのだと思います。私の解釈はPugnariさんのおっしゃる「消極的、保守的、受動的」というのとは真逆の「積極的、革新的、能動的」だったのですから。検証可能性に反することであっても、それは仕方がないから、どうにかして例外を作って容認される方向に持っていこうと考えていました。それはなぜか。スのGさんが言われたように「ウィキペディアと2ちゃんねるの相性が悪い」というのと、それから派生する話で「ウィキペディアから漏れてしまう(2ちゃんねるのスレッドのような)情報の適当な行き先が見つからない」からです。大項目主義小項目主義削除主義包摂主義の対立のように、「多情報収録主義」と「少情報収録主義」の対立という形を作り出し、ウィキペディアから2ちゃんねるのスレッドのような情報を漏らさないようにさせようと私が考えていたのが今回の問題の発端だったと思います。ここは素直に「2ちゃんねるのスレッドのような情報はウィキペディアの収録目的外である」ことを認めたいと思います。そして、ウィキペディアから漏れてしまう「2ちゃんねるのスレッドのような情報」の行き先については、今後私の利用者ページかそのサブページにて考えてみたいと思いますので今回の私の主張はこれで終わりにしたいと思います。--春野秋葉 2007年2月17日 (土) 16:41 (UTC)

勝手に敗北宣言されても困る。むしろ頑張れ。ソースが2chであってもその内容にさらなる検証可能性や中立性が遡及できるなら問題はない。またアスキーアートやコピペテンプレなどは2chオリジンであるが、扱いの次第ではWikipediaの採録対象として面白いだろう。これからもその調子で。--58.95.141.91 2007年2月18日 (日) 01:19 (UTC)

本方針と密接不可分な検証可能性の趣旨として、一次情報源(つまりあなたの言うところのオリジン)は取り扱いが難しいので、専門家によって取捨選択がなされた二次情報源に取材するべし、つまりこれは三次情報源なんですよ、ということを言っている。だから、いくら面白くても2ちゃんねるをウィキペディアが直接情報源として利用することはできない。一方、2ちゃんねるに取材した二次情報源は、それが信頼できる情報源であるなら情報源とすることができる。2ちゃんねるの内容に検証可能性が遡及できるなら、遡及された資料を出典とすべきである。ともかく、ブログ、掲示板の類を直接情報源とすることはできないので、2ちゃんねるだけを特別扱いすることはできません。これほど単純なルールが理解できない方は記事の内容の編集に携わらなくても結構です。翻訳、字句の校正や内部リンク、テンプレートの作成など、いくらでもやれることがあるでしょう。--Isorhiza 2007年2月18日 (日) 06:09 (UTC)

初心者なのでイジメないでください。酷(ひど)い事を言う人だなあ。え?これって個人攻撃?いやー参ったな。『これほど単純なルールが理解できない方は記事の内容の編集に携わらなくても結構です』だって?あっはは!え?こんどは礼儀を欠きましたか。どうも御免なさい。あっはは!--58.95.141.91 2007年2月18日 (日) 06:40 (UTC)匿名IPアドレスからの投稿は、仮にいかなる高尚な内容であっても単なる記号の羅列にすぎない。--58.95.141.91 2007年2月18日 (日) 06:40 (UTC)

英語版の動向と廃案の可能性について

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なんだかややちゃぶ台をひっくりかえすような話ですが、英語版では検証可能性と独自の調査を統合してen:Wikipedia:Attributionとするということがほぼ決定したようです。もうしばらく様子を見る必要があるでしょうし、3本の柱とか言ってたのはどうなるんだ、とか思わなくもないですが、独自の調査の公式化も遅れていることですし、えいっと英語版に追随し、「独自の調査」を廃案にし、検証可能性をAttribution(これまた極めて訳しにくい語ですが…)に対応するものとして、検証可能性の中に本方針の必要部分を統合しまうのもアリかと思ったりもします。いかがでしょうか。乱暴すぎるでしょうか。--Aotake 2007年2月19日 (月) 07:47 (UTC)

ぐはあ。どしよう。さっさといったん公式化した上で統合のほうがいいのかなあ、という気もしなくもないですね。今会社なんでゆっくり見にいけないんですけど、向こうで草稿とかできてるんですか?--Ks aka 98 2007年2月19日 (月) 08:27 (UTC)
統合の議論がされているのも知りませんでした。。。en:Wikipedia:Attribution は草稿どころか、もう official policy のテンプレートが貼られてます。そこから引用すると、"Wikipedia:Attribution is one of Wikipedia's two core content policies. The other is Wikipedia:Neutral point of view."、記事の方針の2つの核のひとつである、だそうです。中身は NOR と V を単に足したような内容で、original research, reliable source の言葉は残り、verifiability の言葉が消えたように見えます。舌を噛みそうな単語だとは思っていましたが。attributable = 帰属可能な? しかし、日本語の"帰属"より英語の "attribution" のほうが意味が広いですし、無闇に追うのは危険なような。どないしましょ。--スのG 2007年2月19日 (月) 08:48 (UTC)
んー、もうしばらくは様子見が必要ですね。ただ、大項目/小項目主義的なまとめ方の違いみたいに割り切って、NORのところは「詳細は~」で今あるのを別ページとして詳述用にしちゃうのも手かな、と。WP:Attribution を別途作るという、またややこしそうな議論が必要になりますが。
WP:Attribution は、出典を出すことがもうほぼ常識になってる英語版だからこそ、WP:Vで従前強調されていたような「出典のない記述は除去される可能性がある」とことさら強調しなくてもよくなったからこそ、書くことができる方針文のような印象を受けました。それと、昨今井戸端あたりで上がっている、情報の永続性を保証すべしという解釈を取り除こうとしてるのだろうか、という点かな? この辺りの事情があるので、日本語版にいきなり持ってきて大丈夫かな、と思わなくもないですね。まぁどの道、いずれは向かう道だろうし、今新たな混乱の種が一つ持ち込まれたところで、さほど状況が変わるとも思えないけど ^^; 問題は、スのGさんも言ってますが訳語ですね。どうしたものか。--Y tambe 2007年2月19日 (月) 09:22 (UTC)
んと、「(記述の)帰因」みたいなことなんですかね。「Wikipedia:記述の根拠を提示する」みたいな感じかなあ。--Ks aka 98 2007年2月19日 (月) 09:47 (UTC)
あー、僕も似たようこと考えてました。「根拠を示す」とかね。いっそ、馴染みの人が多いだろう表現で「ソース希望」でもいいかな、とか(違 --Y tambe 2007年2月19日 (月) 09:55 (UTC)
ちょっと見てきました。NORの構成てなんとかせなあかんと思ってたんですが、これはきれいな感じですね。統合の方向がいいような。--Ks aka 98 2007年2月19日 (月) 10:12 (UTC)
NPOVとAttributionが2大ポリシーなら、日本語でも、中立と根拠、みたいな語感を気にしたいですね。Merriam-Websterで引くと、根拠、あるいは典拠でほぼ言い表せるような気がします。attribution,attributing --Isorhiza 2007年2月19日 (月) 10:16 (UTC)
さっそくのたくさんの反応ありがとうございます。私の意見としては、基本的には他の大規模言語版の動向も含めてもうしばらく様子見が必要だと思いますし、いざ統合して2大方針にするとなると、告知に出して広範な意見を募集して合意を形成しなければならないとも思います。ですが、英語版のAttributionはVとNORを合体させたもので、内容的に新しい点はないと繰り返し強調されているようですし、日本語版も結局統合するのであるならば、独自の調査の公式化に労力を割くよりは、今から統合を見据えた作業に移行していったほうがいいのかなと思います。
訳語については、「根拠を示す」はいいかもしれませんね。英語版の用語選択はen:Attribution_(copyright)もふまえているのかなと思うんですが、法律の世界ではこれはなんて訳してるんでしょうか。帰属先?Creative Commonsのクレジットでは「表示」となっているようですね。[1] en:Journalism_sourcingも参考になるでしょうか。--Aotake 2007年2月19日 (月) 11:00 (UTC)
取り急ぎ。US Copyright Lawでは、「§ 106a ? Rights of certain authors to attribution and integrity」とあり、「氏名表示および同一性保持の権利」と訳されますが、これに対応する日本の著作権法「第十九条 (氏名表示権)、第二十条 (同一性保持権)」は、英訳だと「Article 19. (Right of determining the indication of the author's name), Article 20. (Right of preserving the integrity)」となるようです(英訳・和訳はCRICに拠る。ここから→[2])。US法では、"attribution"は、この組み合わせのみの使用(動詞とかは見てない)、日本法の英訳は、"attribution"で第二章だけ検索しましたがヒットせず。--Ks aka 98 2007年2月19日 (月) 11:33 (UTC)

なんとなくですが、日本語だと「根拠 = published source」のつながりが弱いような気がしております。日本語版では「検証可能性」の名前は生かしておいて、そこへ「独自研究はいかんぜよ」の節を増やす方向で考えるのが近道かなあと思うのです。あるいは「中立的な観点」「??????」と並べたときに良い言葉で、「信頼できる情報源」「出典を明記する」etc. と違って聞こえる言葉ならばよいかと。「典拠」で紙ではない情報源も入りうることが伝わるならば、「典拠に基づく」「典拠に基づいて記述する」とか。--スのG 2007年2月19日 (月) 11:51 (UTC) (追記)この発言は、「attribution」の翻訳をあきらめた場合、という前提で考えたものでした。少し飛躍してました。--スのG 2007年2月19日 (月) 16:38 (UTC)

「発言者・作者を特定する」という意義ではないかな?日本語版でもテンプレート「出典の明記」で混乱がありましたが、それと同様の議論が米国版Wikipediaで炎上している可能性も否定できないかと。ちょっと見たかぎりでは米国版でも突然この提案が圧倒的な状態をもって(いちどに)提案されている懸念(計画的な作為)もあるので、様子見で良いのではないでしょうか。あるいはどなたか米国版の詳報をおながい致します(´Д`;)英語苦手・・・--58.95.141.91 2007年2月19日 (月) 13:25 (UTC)
10月にできたばかりのはずなのに、en:Wikipedia:Attribution の版の数がべらぼう(800版以上ある)で、手に負えません。ノートも2500版を超え、アーカイブが9ページできてます。この詳細は分かりませんわ。これだけあれば炎上もまともな議論もどこかにあるでしょうけれど、どこを見たらいいものやら。--スのG 2007年2月19日 (月) 16:38 (UTC)
そうなんですよね。とりあえず、最近のノートを見ると、統合は既定路線のようで、ATTの本文もかなり確定した雰囲気なのですが、ひとまずは注視しておく、といったところでしょうか。検証可能性へ統合していく、というのは私も最初の発言の時に考えていたことなのですが、英語版ノートを読んでみると、「ウィキペディアンがするのは「内容の検証」ではなく、どこから情報を持ってきているかを明確にすることなのだ」という意図でVerifiabilityからAttributionに変えるというニュアンスもあるようで、そうなってくると、検証可能性のままでは違うのかもしれないという気もします。ちなみに、「信頼できる情報源」もAttribution/FAQへの統合対象となりつつあるようですよ。--Aotake 2007年2月19日 (月) 17:30 (UTC)

(横からすみません)たまたまここに飛んできたのですが、Attributionは必ずしも法律用語でもないように思います。本来の意味はご承知のとおり「帰属」で、税法などではそのまま所得の帰属などと使ってるケースがあるようですが、本件とは関係は薄いように思います。原意に近づけると、記事として含まれている内容をそれぞれ外部の情報源に振り分けて紐付きにする、というニュアンスかと思います。意味合い的には「典拠」がしっくりくるはずなのですが、この言葉がどれほど一般的かは微妙でしょうか。--磯多申紋 2007年2月19日 (月) 17:43 (UTC)

en:Wikipedia:Attributionによると、ページ冒頭で、「This page in a nutshell:All material in Wikipedia must be attributable to a reliable, published source.」としています。(訳例:このページを要約すれば:すべてのWikipediaの記述は、帰属のはっきりした、信頼できる、公開されたソースによらなければなりません)あたりですか。なんという典拠主義wどうも胡散臭いなあ( ´_ゝ`) --58.95.141.91 2007年2月20日 (火) 00:35 (UTC)
昨日とうとう英語版の en:WP:Ven:WP:NOR en:Wikipedia:Verifiabilityen:Wikipedia:No original research はhistoricalが貼られて廃案扱いになりました。どうしましょう…。とりあえずもう少し広く声をかけて、日本語版をどうするか合意形成をしたほうがよいように思います。議論の場はとりあえずこのままここにすることにして、大事な話なので検証可能性のノート、井戸端と告知に投げてみます。私の意見としては、とりあえず検証可能性をAttributionの内容に対応させて言語間リンクのリンク先をAttributionにしつつ、訳語を検討し、うまく合意できたら検証可能性を改名、というのがスムーズに行く気がします。コメントなど、どうぞよろしくお願いします。--Aotake 2007年2月24日 (土) 02:22 (UTC)
英語版のWP:VとWP:NORがAttributionのなかの節へのリダイレクトになってしまった(orz)のでリンク先を修正しました。Aotake 2007年2月25日 (日) 03:34 (UTC)
以前、議論からの撤退を宣言したものの、首を突っ込んだ責任を感じているので議論自体は追ってきていました。前言を翻して戻ってくるのは忸怩たる思いがありますが、翻訳の前提が大きく変わっているようなので、ひとことだけ。基本的な対応策としては、Aotakeさんのご提案に賛成します。こちらの議論はもうグダグダになっているので、できればどなたか要約していただけないかと思います。もしまとめられなければ、参考にしようにもログが膨大すぎるので、思い切って白紙ということでもよいかと。少なくとも私の発言が要約に生かされなくとも文句はいいません。
以下、補足的に。あくまで印象ですが、訳語の問題は、このページの上にもあるようにある程度しぼられてきていたのではないかと思います。この点について、もし今回の英語版の推移によって、訳語をひとつに限定せずにいくつか例示する(独自の解釈、新奇な説など)ことである程度幅を持たせて使えることに繋げられれば、訳語の問題は解決するのではないかと思います。もうひとつは、方針の対象について、トンデモ理論を含むのか、資料の統合による新たな理論なのかとかいうあたりで議論があったと思います。ちょっとこの辺は私自身が発言の要旨をよくつかめていないので、自分でとりまとめできず申し訳ありません。こちらの方は、検証可能性の議論で解決できないかと考えます。そもそも「独自の調査」と「検証可能性」の違いはなにか、という点があいまいになっていたことが、この場の議論がまとまらず、また英語版での統合につながったのではないかと受け止めています。--みっち 2007年2月24日 (土) 03:24 (UTC)
「original research」「no original research」の訳語については、年末に実はもう合意ができています。上のほうの節、#再度、正式化へ向けて、あとはその直上の議論です。「独自研究」「独自研究は載せない」でまとまっていました。--スのG 2007年2月24日 (土) 03:46 (UTC)
ログに送られたので、リンク先を修正しました。Aotake 2007年2月25日 (日) 03:34 (UTC)

しばらくウィキペディアを離れている間にとんでもないことになっていたようで(汗) そもそも検証可能性の要旨は「ウィキペディアには正確な情報を載せるべき⇒その手段として信頼できる情報源に則るべき」、独自研究は「トンデモ理論を勝手に作って載せてはいけない⇒やはり信頼できる情報源に直接則るべき」ということだと理解しております。要するに、この二方針はウィキペディアに記載されている情報の信頼性を担保するという、より高次の共通目的の元に定められているわけで、さらにその手段としても信頼できる出典という共通のものを用いていますし、統合しようというのは自然な発想であるように思います。個人的には冗長であるという印象は持っていましたが、統合という発想は大胆すぎて全くありませんでした。英語版が統合したから日本語版も盲従せねばならないというわけでは決してありませんが、基本的には統合する方針で考えればよいのではないかというのが個人的意見です。

Attributionの訳語でまた揉めそうな気はしますが、個人的には方針名は思い切って訳ではなく、「情報の信頼性」あたりでもよいのではないかと考えていたりします。中立的な観点と並列で書く上でも。色々先走ったことを書いてしまいましたが、議論にはあまり参加できないと思いますので、適当に受け流してください^^;

以下完全な私見。実は中立的な観点も「ウィキペディアは中立的観点から記述すべき⇒複数の信頼できる情報源に中立的に則るべき」という要旨と思われますので、実はウィキペディアの三方針は「信頼できる複数の情報源に直接かつ中立的に依拠した記述をする」という一言でまとめられたりするのではないでしょうか。そのうち英語版のかつての三本の柱は一本に収束してしまったりして……(汗);--spirituelle 2007年2月25日 (日) 18:13 (UTC)

WP:ATTの翻訳をしました

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みっちさん、スのGさん、コメントありがとうございました。なんとなくこういう「どうしましょう」系の話題は、手を動かしてやってしまった方が早い気がするので、 Wikipedia:Attribution の翻訳にとりかかってみました(まだコピーしただけですが…)。統合の話が没になれば廃案にすればいいし、検証可能性をAttributionで置き換えるにせよ置き換えないにせよ、WP:ATTを翻訳してみたらすこし話が進むような気がします。ご協力お願いします。--Aotake 2007年2月25日 (日) 03:34 (UTC)

spirituelleさんのコメントもありがとうございました。ATTのほうはひと通り翻訳をしました。確認をお願いいたします。FAQのほうもいちおう移入した方がいいのかな、と思っていますがどうでしょうか。また、これまでのところ、特に統合に反対意見はないようですが、検証可能性をAttributionの内容で置き換える方向でよいでしょうか。このページで1週間ほど意見を伺って、特に問題がなさそうであれば、検証可能性の方で再度提案、さらに1週間ほど待って問題がなければ置き換え(独自の調査はhistoricalを貼る)、という流れではどうかと思うのですが、ちょっと拙速でしょうか。いろいろご意見頂戴できればと思います。--Aotake 2007年2月27日 (火) 06:45 (UTC)


おつかれさまでした!(゜∀゜)ノシ Wikipedia:Attributionを早速拝見いたしましたが、やっぱり予想通り「Wikipedia:出典を明記する」で議論した「あらゆる記述には外部の信頼できるリソースが完全に必要」「それが証明できないものは無条件で削除できる」というものですね。これでは、おそらく日本版のWikipediaは維持できないでしょう。日本では良かれ悪かれ匿名掲示板(2ch)の洗礼を受けており、大半のWikipediaの記事には信頼できる出典の「ヒモ」が着いていませんからねえ。いますぐWikipedia:Attributionを採用すれば、また削除荒らしか編集要求のテンプレート貼り付け(編集荒らし)が再燃するでしょうね。まあ、学校教育などでWikipediaを安心して利用できるようには、(ようやく)なって来るのかも知れませんが( ´_ゝ`) やれやれ--58.95.141.91 2007年2月27日 (火) 12:05 (UTC)
出典明記については「ウソの出典が記述されていても、未検証のまま放置される可能性がある」「ウソの引用や作為があっても未検証で放置される可能性がある」という点で危険がある。出典明記をWikipediaの公式方針に採用すれば、悪意をもって読者を欺罔(ぎもう)する意図でウソの出典を混入されても、それを排除できていないまま、Wikipediaコミュニティが正確性のお墨付きを印象付けてしまう可能性がある。ある投稿に対して'出典がない'ことでリバートされた投稿者が、その削除に腹を立てて悪意をもって出典欺罔の荒らしを始めた場合、形式的に出典が記載されているだけ、なおさら悪意ある荒らしになるのではないか。出典が形式的に明示されていても、それだけではなんの権威付けにもならず、また'全く'信頼性の担保にならない。この点で米国版のWikipedia:Attribution方針には疑念を感じる。--58.95.141.91 2007年2月27日 (火) 12:27 (UTC)
嘘が書かれる可能性を排除するのは、方針の役割ではないでしょう。方針とは、どのような記事が書かれ、どのように編集をすすめるべきかを示すものです。荒らしや嘘を排除するのは、個々の編集者の努力に期待するしかありません。--Isorhiza 2007年2月27日 (火) 13:43 (UTC)
ふむ。なるほど正論なのですが。出典明記を求める努力と、その出典が正当なものと検証する努力、どちらが大変かということなのです。出典が'形式的に'明記されている以上、それが正当なものかどうか検証するのは「出典明記を求めた側」になります。さて、出典明記を求めるヤカラが、そういった努力をしてくれますかね?--58.95.141.91 2007年2月27日 (火) 14:08 (UTC)議論が紛糾するほど参加者の関与度合いが高いトピックなら、追及者と反駁者の参加には事欠かないでしょうが(南京虐殺事件のような)、他のトピックスにまでそのような高度な関与が、果たしてドコまで期待できるだろう(すくなくとも日本語版Wikipediaで)?--58.95.141.91 2007年2月27日 (火) 14:08 (UTC)
記事を書くにあたって、出典を検証するのは当然のことです。--Isorhiza 2007年2月27日 (火) 15:22 (UTC)
どうも。58.95.141.91さんのおっしゃりたいことは分からなくもないですが、Attributionや独自研究排除の方針を設定したりしなかったりすることで避けることができるものではないと思います。まず、検証可能性、独自の調査、Attributionの方針はいずれも、出典が提出できる情報しか書いてはいけない、と規定しているのであって、出典明記を義務づけてはいません。出典が存在する情報しか書いていけないというのは、ウィキペディアの根本的なルールであり、日本語版ウィキペディアでも検証可能性の方針によってすでにルールとして確立していますので、Attributionによってはじめて現れたものでもなければ、58.95.141.91さんを含む、利用者個人の見解で否定できるものではありません。このルールが気に入らない、信用できないのであるならば、ウィキペディアに関わらないことです。
また、出典明記の義務があろうとなかろうと嘘の出典を書くことはできますし、嘘の出典が与える影響も大差ありません。ウィキペディアが方針によって出典明記を義務づけたとして、嘘の出典が出現する確率は確かに上がるかもしれませんが、その出典が正しいものであることをウィキペディアが保証しているようにみえることにはならないでしょう。また、読者の立場に立ってみれば、参考にしたい記述があった時に、1)出典がなければその情報の大元にあたるために、出典捜しからすべて自分で調査をしなければならない、2)虚偽の出典に基づいていれば、その出典を捜し、見つからない時点で1)と同様の出典捜しをするか、あるいは情報自体を虚偽か無根拠であると判断する、3)適切な出典があれば、その情報の大元に容易にあたることができるわけで、2)が1)より望ましいとはさすがに言えなくとも、3)からの距離で言えば、1)と2)は大差ありません。
確かにAttributionの方針を公式化することで、信頼性の大幅な向上が即座に期待できるわけではないですが、実際問題として個人的意見や独自の見解を発表しに来る利用者が日本語版でも後を絶たない以上、独自の研究を排除する方針は必要であり、独自の調査なりAttributionなり何らかの方針を公式化すべきときにきているのではないでしょうか。
なお、Attributionの方針では、ご心配の、この方針を逆手にとった攻撃的編集を戒める文言も含まれています。必要であれば、日本語版ではこのあたりをもう少し手厚くしてもよいのかもしれません。いずれにせよ、これでは信頼性があがらない、と思われるのであれば、ぜひ、信頼性が確実にあがるような新たな方策をご提案いただければと思います。--Aotake 2007年2月27日 (火) 15:59 (UTC)
再び断片的なコメントで恐縮ですが、Aotakeさんがおっしゃってる方向性に同意します。あらゆる記事の全部分を即座に完全に出典の紐付きにするのは現実的にどうみても不可能にしても、特定の部分の記載内容について争いが出てきた場合には、執筆者のアイデンティティを問わないウィキペディアの場合には、自分の意見を書くというよりは、出典ある事項をヒトゴトのように地道な記述にするしかないように思います。
この部分のルールは「強制力」をどう扱うか、ですが、争いにならない限りは別に出典がなくても当面問題にならない、という面が確かにあると思います。ところが議論になった場合には、真実性そのものをその場で証明しようとしても難しいので、このルールに基づいて議論は整理され、記述は修正されていくことになるのかと思います。資料インデックス的なものになってしまう面もありますが、誰でも参加の基調を損なわずに最低限の中立性を確保する方法論として限界なのかとも思います。その意味でもめたときには立ち返るルールとしては公式なものとしておくべきかと考えます。
58.95.141.91さんの着眼点も、ある意味現実的で面白い指摘だと思いました。ただ、究極的には、出典が掲載されていれば、いつの日かそれが検証されるかもしれませんし、誤りであることが客観的に明示されるだけマシ、とも言えるようにも思います。検証可能性の検証?というべき話なのかと思いますが、出典が適切な出典かどうか、の検証責任は、出典を呈示された誰かだけにあるのではなくて、出典の実在性などに、ある程度以上の合理的な疑問がある場合には、その出典について、出典提示者以外の第三者による確認を求めていくことがありえるのではないかと思います。--磯多申紋 2007年2月27日 (火) 20:43 (UTC)
58.95.141.91さんの反対よりともとれるコメントもあったのですが、ここのところご発言がありませんし、他に大きな異論も出ていないようなので、本方針の廃案と、検証可能性のAttributionの内容による置換を再度提案します。検証可能性の方にも大きく関わることなので、恐れ入りますが、検証可能性のノートへ議論の場を移したいと思いますので、よろしくお願いいたします。なお、Attributionの日本語版における記事名についてWikipedia‐ノート:Attributionにてもいくつかコメントが寄せられています。ぜひご意見お寄せください。--Aotake 2007年3月9日 (金) 12:12 (UTC)

申し訳ありません。少し黙ってました(´ー`;)・・・Wikipediaが「名も無き庶民」によってのみ作成されるモノである限り、権威ある出典のヒモ付きでないあやしい記事を排除するのは永遠の課題かもしれません。一方、「Wikipediaは典拠主義以外は受け付けません」と高らかに主張しても、実効的にそれを保証できる何らかの防衛策はない。誰もが匿名で自由に記事を投稿できるからです(ワタクシみたいにですw)。匿名性については、残念ながらログインしている、していないに関わらず顕名性は唯一排他的には保証されていません(ソックパペット)。ですから、陽気な諦観(ていかん)が必要なのかと考えます。出典明記を要求してもヒモのない投稿が絶えない、出典のない記事を排除したとしても、偽装された出典による偽記事の投稿が実効的に排除できない(偽記事投稿の容易さと検証の困難さの非対象性)、専門家以外は記事の正確性を検証・評価できない、検証した別の投稿者のほうが「正しい」「信頼できる」とすら評価することもできない。ですから「出典明記の要求」なり「独自研究の指摘」は、あくまで論争のある記事に対して攻撃をしかけたり、リバートに対抗(防衛)する場合のツールテンプレートにすぎないと「陽気に諦める」必要があるのではないか、と感じています。重要なのは、ある記事において「正確性の論争がおきること」であって、その記事が<完璧に正確である事>ではないのではないか?--58.95.141.91 2007年3月9日 (金) 14:37 (UTC)

申し訳ないだなんて、とんでもないです。結局、ウィキペディアの方針というのは、ウィキペディアをすこしでもよくするためにあるもので、ウィキペディアにふさわしくないものを排除するための方便だと思います。いまの日本語版では、独自の見解を書きこむ人に対して、その記述を削除する時に、盾となる公式の方針が明確にはありません。「何ではないか」と中立的な観点である程度は排除できますが、ひどい場合は「独自の調査は草案だし従う義務はない」という反撃にあうことになってしまいます。方針があるからといって、ウィキペディアをみんなの落書き帳から少しでも百科事典らしいものに改善していく作業が大幅に簡単になるわけではないですが、少しでも楽になるのなら、意味があるのではないかと私は思うのですが。--Aotake 2007年3月10日 (土) 02:59 (UTC)
(遅まきながら)翻訳をありがとうございました。この方針は「ウィキペディアをよりよくするための楯、ツール、アイテム」として貴重なものになるでしょう。これが無くても根拠のない独自説やトンデモ記述は排除すべきですが、この方針があれば、それがより円滑に行えると思います。針名を決めるのがまた大変そうですが、相手を説得するときを考えれば、
「情報の根拠」を提示してください。
「記述の典拠」を提示できない情報は本文から除去すべきです。
のような使い方になるのかなと思いました。--miya 2007年3月14日 (水) 03:06 (UTC)

Wikipedia:Attributionの日本語名について投票しています

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表題の通り、今日から4月4日00:00 (UTC)までWikipedia‐ノート:Attribution#方針名についての投票にて、Attributionの方針名についての投票をしています。ぜひ多くの方のご意見をおきかせください。--Aotake 2007年3月28日 (水) 01:40 (UTC)

再度、正式化への試み

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Attributionの方針の導入を図るうちにNORの方針が棚上げになってしまいましたが、英語版のAttributionが草案に差し戻されて先行きが見えません。一方、日本語版での独自研究の投稿はあとを絶ちませんし、それに対する指摘に「NORは草案なので拘束力がない」という反論もしばしば見かけます。そこで、とにかく「独自研究は載せてはいけないのだ」という方針を公式な方針として明確にしておきたいと思います。つまり、一日も早く、この方針の冒頭に「公式な方針」のテンプレートを貼りたいと思います。

いままで公式化が遅れた理由はいろいろあると思うのですが、1)タイトル、2)翻訳もとの英語原文の解釈が特に問題となっていたと思います。このうち、1)については「独自研究は載せない」で大方合意が形成されていたと認識していますので、これより1週間待って異論がなければ、本方針の題を「Wikipedia:独自研究は載せない」に改名したいと思います。また、英語原文の解釈ですが、現在記事本文に記載されている訳文で私はひとまずは問題がないと考えています。これについても、これより1週間待って異論がなければ原稿本文を基本として「公式な方針」のテンプレートを貼りたいと思います。(この投稿のあと、少し本文を整理し、原文を外すつもりですので、原文との対応はWikipedia:独自の調査 oldid=11539247の版をご覧下さい。)

なお、この方針については、ジンボ・ウェールズが示したコミュニティの合意によって覆らない3つの重要な方針の1つであるので、「日本語版では独自研究禁止の方針は受け容れられない」というような意見は、残念ながら受け付けられないかと思います。このような意見についてはウィキメディア財団に掛け合っていただければと思います。--Aotake 2007年4月17日 (火) 05:14 (UTC)

おつかれさまです。趣旨の通りでだいたい宜しいかと存じます。NOR適用の際の硬性度についての議論は、追々できると思いますが、NORそのものが機能しない状況はさすがに混乱の元だと考えます。また「調査」という訳語に問題が多いことにも過去の経緯を確認したうえで賛同いたします。1匿名(IPアドレス)主義者より--125.205.8.21 2007年4月17日 (火) 06:30 (UTC)
御提案に賛同します。--Ks aka 98 2007年4月17日 (火) 06:35 (UTC)
同じく賛成します。名称案「独自研究は載せない」は、完全な合意ではないものの、現時点で最も有力な案と理解しております。少なくとも現状の仮称「独自の調査」より改善になっているのは間違いないでしょう。
また「コミュニティの合意によって覆らない」という点も重要ですね。現状はあくまで和訳文が草案であるに過ぎず、方針そのものは財団レベルで有効という、わかりにくい状態でした。この点からも、和訳の正式化は歓迎します。 --Kanjy 2007年4月18日 (水) 04:09 (UTC)
ご提案および段取りについて賛成いたします。ご手配いつもお世話様です。--磯多申紋 2007年4月18日 (水) 04:32 (UTC)
  • (賛成)正式化に賛成します。「Wikipedia:独自研究は載せない」への改名についても異議は唱えません。取りまとめありがとうございました。--miya 2007年4月19日 (木) 17:07 (UTC)
賛同いたします。--Isorhiza 2007年4月20日 (金) 11:43 (UTC)
  • 大筋賛成です。--ゆきち 2007年4月20日 (金) 16:34 (UTC)
  • 大賛成です。今まで草案だったとは!しかし現在でも独自研究自体が検証可能性から派生したものだから正式の方針にして問題ないし、又米国の案のように一体化しても問題ないでしょう。もし独自研究がゆるされるなら、俺どんどん書いちゃうよ。F86F 2007年4月22日 (日) 08:15 (UTC)

みなさまたくさんの賛成、ありがとうございました。特に反対もなかったので、若干フライングになってしまいましたが、移動、公式な方針テンプレートへの貼替えを致しました。二重リダイレクト、各文書の文中表現など、わかる範囲で修正したつもりですが、漏れなどありましたら、修正御協力お願いいたします。今後ともよろしくお願いいたします。--Aotake 2007年4月24日 (火) 00:52 (UTC)

お疲れ様です。ありがとうございます。--Ks aka 98 2007年4月24日 (火) 05:18 (UTC)
お疲れさまでした、大変ですね。しかしこれで多くの人間にかなりの利益があると思います(できれば今度は、Wikipedia:中立的な観点でも「簡単に書けば」を作ってほしいです。)F86F 2007年4月26日 (木) 04:27 (UTC)

反対--220.219.120.215 2007年5月3日 (木) 11:30 (UTC)

上の方へ。「反対」だけではなく、理由もお書きください。また、意見を表明なさるのは結構ですが、すでに当項目は公式方針となっているようですので、実効性がありません。もちろん議論を提起し、変更すべき点は変えていくというのはOKです。--Ich57 2007年5月3日 (木) 11:48 (UTC)

投稿してるので良いと思う。--220.146.205.104 2007年5月10日 (木) 09:32 (UTC)

「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」

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正直この節を読んで、これを回避する記事の作成は困難であり、また回避できているか否かを判定するのも実質不可能だと考えます。例えば複数の情報源から得た論点を解釈を加えずに合成するという作業をするにしても、必ず編集者の観点が加わるものです。それを事後的に中立性の観点から評価して、編集者の観点とは異なる記述を同様に複数の情報源から解釈を加えずに合成して加えて、全体としての中立性を保つというのは分かります。が、いかなる観点も持たない情報の合成というのは無理ではないかと。

挙げられている例にしてもそれ自体は検証可能性にも中立性にも独自研究の排除にも違反していない編集過程を、結論において唐突に独自研究であると決めつけているとしか読めません。このロジックを利用すればいくらでも他人の編集した記事を独自研究とみなして排除することが可能となります。ゆえにこの節の削除を提案します。--222.12.8.167 2007年4月20日 (金) 12:20 (UTC)

IPユーザーが議論するのは難点もあるので上記論点とここの論点の二点についての問題提起に止めておきますが、「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」基準には中立性と本来矛盾するという大きな問題もはらんでいるように思えます。「何が除外されるか」における関連する記述をみてみると「自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します。」とあります。しかしこれが満たされるとすれば(実際に満たされるとは思えませんが)、NPOVという基準は必要ないのではないでしょうか。
「中立的な観点」ページから「中立的な観点についての方針声明(新版 拡張版)」の一部を引用してみましょう。「記事は偏りのない『客観的な』観点に基づいてのみ書くことができる、と誤解されることもありますが、そうではありません。」御覧の通り、ここでは「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」基準は実質的に否定されていると読めます。どうしても意見を交えずに事実のみを書いても「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」につながってしまうからこそ、実現不能な「客観性」に変えてNPOVという基準が提案されたのではないでしょうか。--222.12.8.167 2007年4月20日 (金) 13:20 (UTC)
ログインしていない者の記述は結構ですが,反対意見としてカウントする必要はないと思われます。投票には編集回数で線引きを行うのが少なくとも英語版では一般的です。こと方針に関わることではなおさらでしょう。
それはさておき,以前にログインしていない者が記述し,却下されたことの蒸し返しではないかと思われますが,「悪意にやれば可能である」ことをもって,ある要素を方針から除外したり修正したりする理由にはならないと思います。--Isorhiza 2007年4月20日 (金) 13:54 (UTC)
では、申し上げることにしますが、「悪意にやれば可能である」かどうかの問題だけではありません。そもそも「悪意にやれば可能である」というだけでも、不毛な編集方針上の対立を無数に引き起こします。何が「悪意」かを決める基準すら現行ルールでは決定できないわけですから、この要素を方針に入れることは説得的になりません。それだけではなく、独自研究排除とNPOVというウィキペディアの根本的な方針の間に矛盾が生じることによって、公式方針に忠実な編集という作業が不可能になるという問題が生じます。少なくともNPOVと「特定の観点を~」基準との整合性を示しうる文言、特定の観点からの自由と客観性との違いを説明する文言がなければ、ルールとして機能しうるかどうか疑問です。--222.12.8.167 2007年4月20日 (金) 14:08 (UTC)
どうも。まず、この節については、例が分かりにくいというのが再三問題になっていて、いまWikipedia‐ノート:Attributionの方で新しい例への差し換えが提案されています。あちらで異論が付かなければ、こっちに移植することを提案するつもりですので、よろしければそちらもご覧下さい。
さて、編集の際に観点が絶対に入ってしまうというのはその通りでしょう。どんな資料を選ぶか、ということ自体大きく主観に左右される行為です。ですが、やはり資料Aと資料Bを組み合わせて、そのどこにも言及されていないCという主張を始めてしまうのは困ります。この節で排除しようとしているのは、例えば、「太郎は日本人だ(資料A)。日本人の多くは右利きである(資料B)。従って太郎も右利きであろう。」みたいな記述だと私は考えていますし、これはいけないのだということはしっかりと書いておくべきだと思います。その理由は、まず、ここまではっきりとしたものであれば、多くの人は「独自の研究」と認識しますが、中には「太郎は日本人だ」「日本人の多くは右利きだ」という2点の資料を充実させれば、「太郎は右利き」と書けてしまう、と勘違いする人も実際にいるということです。そして、より重要なこととしては、原理的に完全排除が無理だからといって、私たちが目指すべき到着地点を変更するのはおかしい、ということがあります。もちろん、実際の編集過程で出会うものの少なからぬものが、「太郎右利き説」などよりずっと入り組んで複雑です。中には判断の非常に難しいものもあるでしょう。完璧に排除することも、少なくとも近い将来には無理でしょう。ですが、だからといって、このルールを設けず、ウィキペディアが目指すところを変えたときに、ウィキペディアがよりよい百科事典になるとは思えません。--Aotake 2007年4月20日 (金) 14:40 (UTC)
なるほど、その例示は分かりやすいですね。また引用ページも一読させて頂きましたが、到着地点というニュアンスを含むということでしたら理解できます。議論の行方を見守らせて頂くことにします。--222.12.8.167 2007年4月20日 (金) 15:02 (UTC)
  • この節は非常に重要で是非分かり易い例を伴った丁寧な解説への改定を望みます。

私が独自に書けば以下のようなものか

1Aの主張(出典あり)
2Aの主張と反するBの主張(出典あり)
3Bの主張が正しい解釈できる規則の提示(出典あり)
は1-2-3がセットで一つの論旨をなしている場合、独自研究になる可能性がある。

なぜなら、実際にはAの主張が正しいと解釈できる規則(出典あり)が一般に知られており、また支持されている場合があるから。投稿者はいわば意図的に偏った法律(規則)を提示することで、全体として間違った論旨を事典に記述していることになる。Wikipediaの方針に照らしてここで必要なのは、1-2の対立に関して社会で広く流布している規則の提示であり、必要ならそれがどのように広く流布しているか、なぜ支持されていると言えるかの証拠(出典)が必要である。多くの場合は研究者によりこれらがセットで提示されたものが出典として好ましい。F86F 2007年4月22日 (日) 08:36 (UTC)

あーっと、ちょうど活動が競合しましたね(^^;)。今ちょうど、こちらでAttribution本文からの逆移入を提案しようとしていたところでした。ただ、あちらで書き換えた例は、F86Fさんがご提案くださっているのとはちょっと趣旨が違いますね。ですが、F86Fさんのおっしゃってる例は、いちおう全て出典がある情報を提示していて、資料と情報の選択に特定の立場を推進しようとする意図が反映されているわけですから、独自研究というよりは、中立な観点に反していると見るべきではないでしょうか。それはそれで注意を促すべき点ではありますが、中立的な観点の方に記した方が良いのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
それで、私の本題の「逆移入」ですが、NOR方針本文の例を、上にリンクしたAttribution本文と同じものに変えたいと思います。NORとATTの本文が大筋同じものになってしまうという難点はありますが、これらの方針の関係や今までの経緯を考慮すると、それも仕方ないと思っております。書き換えのタイミングですが、すでにこちらのノートページでも例が分かりにくいことは問題になっており、ATTの方でもそれなりに議論を積み重ねてきた文面であること、ATTからNORへ移入する案についてすでに何度か申しあげていること、またできればNORを公式な方針とする際には例を書き換えておきたいことから、すこし短いですが、48時間まって異論がなければ書き換えたいと思います。よろしくお願いいたします。--Aotake 2007年4月22日 (日) 09:00 (UTC)