Wikipedia‐ノート:査読依頼/雲取越え 20090907
出典注釈分離方式
[編集]掲題の件、こちらで述べます。結論から述べれば、私自身がかかる方式を採るつもりは今後にわたってありません。
- 採るべき理由があるという主張がまず理解できません。
- 私自身がある程度なじんでいるいくつかの専門分野(社会学、歴史学、民俗学〈一部〉)で、かかる方式がスタイルとして採られているとは承知していません。この方式はjaWPで初めて見ました。そして、非常に奇異に感じました。かかるスタイルに対し、それこそ「出典はどこ?」と思わずにおれません。
- 方針文書「Wikipedia:独自研究は載せない(WP:NOR)」は記事の内容に関するものです。その趣旨は、Wikipediaが百科事典である以上、知識の集成をするのが任であって、知識の創造をするべきではないという点にあると理解しています。さて、出典注釈分離方式は記事の内容ではなく形式ですが、注を伴う論文形式の文章を書くスタイル、すなわち知識と言えます。記事の形式とはいえ、出典注釈分離方式は新たな知識を創造してしまっているという点で、非常にまずいのではないかと考えています。WP:NORの文言には即しているけれど、精神に反しているのではないか、ということです。
他の方が使用するのを止めたり、修正したりというようなことを敢えてするつもりもありません(例証)。方針文書等で強制されれば、考えざるを得ませんが、そうでない限り専門分野でも採られていないような注の付け方をするのはおかしいと考えます。--ikedat76 2009年9月19日 (土) 04:18 (UTC)
- ご回答ありがとうございます。以下、再度回答いたします。名称を統一するため、「出典注釈分離方式」を私も呼称させていただきます。
- 利点は前回述べた通りです。読者視点に立った場合、出典の確認と注釈の確認は利用目的が異なります。注釈は読み進める上での読者の理解を援けるためのもの、出典は読者に対して記事内容の信頼性を担保させるためのもの、と認識しています。私は利用シーンの異なる情報を同じ記号配列でリンク先へ飛ばす行為は読者に対しストレスを与え、不快にさせるものと考えていますので、目的に合った行動を任意に行えるよう配慮し、記事量の多くなるものに対しては「出典注釈分離方式」を積極的に採用するようにしています(既にご承知かと思いますが)。岡部幸雄などを参考にしました。そうした考え方からの指摘になりますが、「採るべき」という強制は考えておりません。先の指摘がそのように読み取れてしまったのであれば私の文章の拙さから来る誤解ですのでお詫び致します。
- いま手元にあるもので近しいものとしては『子供の民俗学(飯島吉晴、ISBN 4-7885-0390-5)』(「追記」「註」という形式)、『しぐさの民俗学(常光徹、ISBN 4-623-04609-5)』(「注」「引用・参考文献」という形式)などがありました。明確にそういう形式を採っていなくても、巻末に参考文献や出典、頁末や章末に内容や用語に対する注釈というスタイルを持つ書籍や、下段や横段を解説欄に割き、出典とは別に内容に対する補記を行う書籍は多数あるのではないでしょうか(『でぶ大全(ロミ&ジャン・フェクサス著、高遠弘美訳、ISBN 4-86182-017-0)』、『日本の童貞(渋谷知美、ISBN 4-16-660316-7)』、『ワインの文化史(ジャン=フランソワ・ゴーティエ著、八木尚子訳、ISBN 4-560-05801-6)』など。特に日本語訳された書籍は訳注という形で内容に対する補記が出典とは別に入ることが多く、巻末や章末、段落末などに注釈が付与されているようなものが多々あると思います)。ということで、特に奇異でも無いし、新たな形式の創造(NORの精神に反するようなもの)でも無いように思っておりますが、いかがでしょうか。
- 逆にお伺いいたしますが、読者視点に立ったときの本方式を取ることによるデメリット、本方式を取らないことによるメリットをikedat76さまはどのようにお考えでしょうか。--R.Lucy 2009年9月19日 (土) 06:09 (UTC)
機能上の差異があるという意見には納得しかねます。また、ご指摘のようなストレスや不快があるという認識はまったくございませんし、したがって、そうした発想が「読者視点」であるとも考えておりません。
試みに問いますが、学術書(少なくとも社会学・歴史学)の多くは混在させますが、それらは読者に「読者に対しストレスを与え、不快にさせるもの」なのでしょうか。そうしたことをもしリアルワールドで言えば、相手にされず、むしろ「これが常識なので慣れてください」といわれるのが関の山です。かかる形式がまったく新奇なものではない、という点については了解いたしましたが、やはり歴史学や社会学ではまず見ない方式であり、専門分野のスタイルに従うべきだと考えます。
敢えて申し上げますが、読者に努力を要求するモノの書き方はあまねく悪であるとは思いません。R.Lucyさんや私のようにWikipediaの編集者が、(結果としてであれ)論文に準ずる形式で書くことを求められている以上、該当する専門分野のスタイルに従うのが原則であると考えます。
最後に蛇足。問題の方式に対して正直申し上げて嫌悪感があります。それゆえ物言いが我知らずキツくなっているやも知れません。ご不快を感じさせていたら申し訳なく思います。
以上です。--ikedat76 2009年9月19日 (土) 06:25 (UTC)
- notesとbibliographyは分けるのが一般的と覚え育ったもので、他の分野の常識まで理解できておりませんでした。失礼いたしました。--R.Lucy 2009年9月19日 (土) 07:27 (UTC)
こちらこそ大変失礼致しました。貴重なご意見、お礼申し上げます。--ikedat76 2009年9月19日 (土) 10:51 (UTC)
「西国三十三所と雲取越え」の節について
[編集]後鳥羽院の4度目の巡詣ですが、定かでないのが雲取越の行程を採った事情なのか、1日で強行した事情なのか分かりませんが、もし後者なら、雲取越の行程を採る事自体は西国三十三所の前身が成立していた事を前提としたものであって、もしもの上の更にもしもなのですが、もしもそうなら構成は、
== 歴史 ==
平安末から鎌倉初期にかけて、熊野詣と同じく院政期の[[観音信仰]]の隆盛を前提に(脚注)、11世紀ごろには後世の西国三十三所の前身に相当するものが成立していた(脚注)。雲取越えの道はその巡詣ルートの1つで、そのため前述のように中世熊野詣における派生ルートに過ぎなかった雲取越えの道をたどって本宮へ直行する御幸の例もあり、[[建仁]]元年([[1201年]])の[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]の4回目の参詣はその例である(脚注)。・・・(以下「熊野道之間愚記」引用)
12世紀前半に熊野詣の最盛期は過ぎるが、その後も雲取越えの道は廃絶も荒廃もせずに存続した。これは、雲取越えが西国三十三所のメインルートとして定着したことによるものである。西国三十三所は熊野詣盛行を背景に[[青岸渡寺|那智山青岸渡寺]]を第一番とするようになり、室町中期頃までには・・・(以下略)
=== 西国三十三所と雲取越え ===
とした方が分かり易くなるように感じました(「ルート」は適切な日本語にしたいですが)。 あ、勘違いでしたらすみません。--胡亂堂 2009年9月21日 (月) 07:23 (UTC)
「定かでない」のは「雲取越の行程を採った事情」です。この記述の直接の根拠は小山靖憲『熊野古道』(2000、岩波新書、ISBN 4004306655)で、やや長めになりますが該当箇所を引用します。
通常の三山巡拝では、那智からもと来た道を新宮にもどり、さらに熊野川を遡行して本宮に帰るが、この場合は那智から雲取越という急な山道を通り本宮に直行しているのである。定家は御幸の先陣をしばしばつとめているので、定家だけが別ルートをとったとも考えられるが、上皇たちも続いて本宮についているので、一行全員がこのルートをとったとみてよかろう。現存する記録によるかぎり、なぜこの御幸だけが雲取越えの道を利用したのか、これまた詳らかではないが、先を急いで、期間を短縮しようとしたことだけは間違いない。 — 小山靖憲『熊野古道』、p.46
雲取越えが例外的であることを強調した上で、「先を急いで、期間を短縮しようとしたことだけは間違いない」にせよ、雲取越えが採られた理由は結局のところ「詳らかではない」、つまりはよく分からないと言っているわけです。
また、西国三十三所の順序の定着過程を考慮しても、「西国三十三所の前身が成立していた事を前提としたもの」と述べる事は難しいでしょう。今日知られている西国三十三所の順序、すなわち
- 第1番那智山 - (雲取越え・本宮周辺・中辺路主要部・田辺) - 第2番紀三井寺 - … - 第33番華厳寺
が公式のルートと見なされる様になるのは、東国からの伊勢参宮と西国三十三所巡礼がセットになってからのこと[1]であり、時期としては15世紀頃のことです[2]。
記事中にも書いたことですが、今日の順序が確立する背景には、熊野三山の造営に要する財源として、朝廷や貴族から寄進された荘園・造営料国、または室町幕府の公的保護を当てにすることが出来なくなり、勧進聖の勧進請負を頼るようになる過程で、三十三所の組み合わせや順序を固定化していったという事情があります[3]。では「それ以前の時期」(後鳥羽院らの参詣のあった13世紀初頭含め)はどうだったのかと言えば、今日の順序と違う順序によるものも見られます。例えば『寺門高僧記』行尊伝の例(11世紀末)では、第1番として大和国の長谷寺(奈良県桜井市)、第33番として宇治の三室戸寺(京都府宇治市)を巡拝しており、那智山は第6番とされています[4]。
三十三の観音霊場を巡るという意味での西国三十三所の前身は確かに11世紀に遡りますが、その順序や寺院の組み合わせは様々で[5]、何種類もの観音霊場巡礼が併存し、ひとつの寺院が幾つもの観音霊場に数えられていました[6]。11世紀における西国三十三所の「前身」とはそうしたものだったわけです[7]。熊野詣の盛行が那智山を第1番として定着させる上で大きな影響力があったのは確かなようですが[8]、後鳥羽院の4度目の参詣のあった13世紀初頭の時点で、西国三十三所第1番といえば紛れもなく那智で、だから後鳥羽院の雲取越えもそれを前提していた、と言えるのかといえば、否と言わなければならないように思われます。その時点では、「今日の順序」は、いくつもある巡礼順序のなかのひとつでしかなく、(繰り返しになりますが)公式なものとして残るようになるにはもっと後世のことになります。
もちろん、後鳥羽院の雲取越えが西国三十三所を前提にしていたという説が成り立つ余地はあると個人的には 思います。しかし、私がしようとしていることは、Wikipediaの記事には根拠のあること(検証可能性)を根拠が何かはっきり示して(出典の明記)書け、勝手に想像したことやでっち上げたこと(独自研究)を書くな、というWikipediaの方針にしたがって記事を書くことです。その限り、「後鳥羽院の雲取越えが西国三十三所を前提にしていた」という記述は、そのように明言した信頼の置ける文献がない限り書くことは出来ません。そして、私が知る限りそのような所説が記された文献は見たことはありません。もしかしたら、そういう文献が私の知らないところにあるのかも知れませんが、あったとしてもそれがどういう評価を専門分野で受けているのか、慎重に見極めたいところです。
ここら辺、以前ご指摘いただいたとおり、西国三十三箇所とどう分担するか検討すべきところだと思います。熊野詣は盛期を過ぎて後も、西国三十三所の一部として形を変えて存続した[9]という観点からすれば、熊野信仰なり熊野詣なりの歴史と西国三十三所との間で記述を分担する必要は大きいように思いますが、その任をひとり雲取越えの記事に負わせるのはちょっと難しいのではないでしょうか。
以上、回答とします。--ikedat76 2009年9月21日 (月) 16:43 (UTC)
答えが長くなって分かりにくくなっているかもしれません。後鳥羽院の雲取越えと西国三十三所を結び付けて論じた文献がないから書けません、というのが答えの核です。--ikedat76 2009年9月22日 (火) 01:15 (UTC)