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Wikipedia‐ノート:削除依頼/競走馬記事 20141109

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「特筆性」の考え方が逆ではないか

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「記事の濫造を招くこと」についての懸念は、そのとおりだと思います。質の悪い記事が作られることは避けなければなりません。しかし、きちんと書かれた記事であれば、好きなだけ作って困る事は無いでしょう。そして、きちんとした記事を作るために必要なのが「無関係な信頼できる情報源」なのです。これに基いて書くことで、検証可能性を満たし、中立的な、利用者個々の独自研究にならない記事が書けるのです。そして、もし記事にそれが示されていなかった場合、果たしてそれを示せるのか示せないのか、を考える必要があります。その時に初めて、例えば「この馬は重賞を勝っているのだし、情報源は存在すると考えるのが自然だろう」といった、情報源の存在が推測できる材料を考慮するわけです。推測できる材料があれば、それを探すなり、誰かによって示されるのを待つなりすれば良いでしょうし、無ければ、他の記事への統合や削除を考えることになるでしょう。にも関わらず、競馬ジャンルの方々は、まず馬の戦績で判断し、情報源があろうが無かろうが、戦績や話題性で劣ると判断された場合は「特筆性無し」と、順序を逆に考えてしまっています。それに、情報源がほとんど全ての馬に見つかる、のであれば、それはむしろ記事に反映させるべき材料が数多くある、むしろ歓迎すべきことでしょう。過去の議論を尊重してほしい、とおっしゃっていますが、これは尊重すべき議論の積み重ねではなく、ウィキペディアの目的に反する悪しき風習です。そうでないとおっしゃるのであれば、ぜひ、情報源の有無よりもまず戦績や話題性での判断を優先することの合理性について、説明していただきたいです。--Bellcricket会話2014年11月11日 (火) 07:37 (UTC)[返信]

Wikipedia:独立記事作成の目安より 一部抜粋

このように、ジャンルの特性ごとに、そのジャンルに精通した利用者によるコミュニティによる議論を経て、ジャンルに特化した基準を持つことは一般的に行われています。Bellcricketさんのおっしゃることは、これらをすべて否定することになってしまいます。

「情報源の有無よりもまず戦績や話題性での判断を優先」というのは誤った見方ですよ。「情報源はある」という前提で「戦績や話題性を判断」しているのです。

実際、ある馬に関する何らかの情報源はまあたいがい有りますからね。(「その馬についての何らかの情報源がある」というのと、「この馬は○○だ」という記述に対する情報源があるかどうか、は別問題です。)競馬の専門雑誌やスポーツ新聞を数紙、5年ぐらい定期購読してみるとよくわかります。下手すりゃまだ生まれていない仔馬の記事までありますし、そういう雑誌はそういう記事を毎日毎週山ほど詰め込んだものを作って売って商売が成り立っているわけです。

今度こういう馬が厩舎に入ってきた、血統はこれこれで、走らせるとどうで、誰それはこんな期待をしていて、今後の予定はこんな感じだ、みたいなことが。レースに出れば、全馬に対して何らかの言及が様々なメディアで行われますし。少なくともJRAに所属しているような競走馬の場合、情報源は間違いなくあるでしょう。

Wikipedia:独立記事作成の目安の目的は「取り扱う対象」の「百科事典の記事として言及するにふさわしい価値」を定めるためにあります。ここでは、森羅万象の全てには「有意な第三者言及」がないから、「有意な第三者言及」があるということは、他と比べて収録する価値がある、というのが理念です。

ところが競走馬の場合には、すべての競走馬に「有意な第三者言及」がある、というところから始まるので、単に「有意な第三者言及」だけではすべての競走馬を収録する羽目になります。これはWikipedia:ウィキペディアは何ではないか(辞書ではありません・名鑑ではありません)に抵触することになるでしょう。だから、さらなる選別をしているということです。これは、Wikipedia:独立記事作成の目安#一般的な目安「ただし以上の目安を満たしていたとしても、編集者の間での合意形成により、作成、収録にふさわしくないとされる話題もあります。例えばウィキペディアは何ではないかに違反している場合などです。」にも合致した考え方だと思います。

字面だけ追うと「有意な第三者言及」があればOK、ということにもなるのでしょうけれども、冒頭に示したように、日本語版に限らず、多くの分野で、こうした考え方に基づいて、分野ごとの判断基準を別に設けているのでしょう。

誤読しないでいただきたいですが、だからといって成績に関する出典の明記が行われないのはもちろん問題です--柒月例祭会話2014年11月11日 (火) 08:32 (UTC)[返信]

  • (もうちょっと具体的に追記しておきます)
競走馬を実際に数千万とか億の金を出して買う人がゴロゴロいて、彼らは他人が買うより先に良い馬を買うために情報を常に欲しています。そういう人たちのために、仔馬が生まれる前から、情報が公開されています。売る側は売りたいわけですから、いろいろ情報を出します。実際に馬を買わない人でも、ペーパーオーナーといって、いわゆるソトウマの賭けを行ないますので、やっぱり他人より早く良い馬の情報を知りたいわけです。そういう人たちのための専門雑誌も出版されています。畜産家が手にするような情報も容易にアクセスできます。仔馬が生まれると、今度はそれをセリに指すために仔馬のリストが作成されて、ちょっと大きな本屋に行けば売っています。それどころか、生まれる前から、どこの牧場のなんという牝馬は今年はなんという種馬を種付けした、なんて情報をまとめたものも売られています。ネットでも閲覧できます。こういうものは、データベースや名簿の形式のものもあれば、「牧場の人の一言」みたいのが付いていることもあります。
ウィキペディアで競馬の記事を書こうとする人は、そういうものだって利用します。
そういうのを全部認めるのは不合理でしょう、ということです。--柒月例祭会話2014年11月11日 (火) 08:53 (UTC)[返信]
えー、『サラブレ』ならかつて6年ほど購読していましたが、「すべての競走馬」は言いすぎです。限られた紙面/誌面に、そんなに多くの情報を載せられるわけがないでしょう。百歩譲って、すべての競走馬についてそうした記述が存在するとしても、それが「すべての競走馬は記事化にふさわしい」などということもありません。「信頼できる情報源における相当量の言及」(WP:NRVE)が求められているわけですから。で、私は今回削除依頼の対象となった2頭について、情報源を質も量もそれなりに用意したつもりです。「ウィキペディアは何ではないか」に該当するものでもないと考えています。情報源の質・量について評価されてなお削除に賛成するのであれば仕方ありませんが、誰もそうされずに「重賞勝ってないからダメ」と繰り返すだけでしょう? それがおかしい。--Bellcricket会話2014年11月11日 (火) 09:43 (UTC)[返信]
そりゃまあ、サラブレだけですべての競走馬を網羅するのはムリかもしれませんね。でも、世の中にはほかにも日刊・週刊・月刊・季刊・年刊の競馬雑誌・新聞があり、本が出版され、ネットにも情報があるのです。
Wikipedia:独立記事作成の目安に列挙されているような分野別の特筆性基準を否定なさりたいなら、既にガイドライン化されているWikipedia:特筆性 (音楽)をも否定することになりますから、まずはWikipedia‐ノート:独立記事作成の目安にて、『すべての記事は例外なくWikipedia:独立記事作成の目安の定める「信頼できる情報源における相当量の言及」のみを独立記事作成の目安とし、分野別に特化した基準を設けることは禁止する』という高いレベルでの合意を得てきてください。以上です。--柒月例祭会話2014年11月11日 (火) 10:18 (UTC)[返信]
以上です(キリッ)、って言っちゃいましたが、なにか思い違いをされているような気がしたので補足しておきますね。
これは一人ひとり意見が異なる部分はあると思いますが、競馬ジャンルでの過去の議論、それをまとめたものは、あくまでも「成績面に関する特筆性の議論」です。ガイドライン化できてないですし、完全な結論に至っていないので、それは弱いところなんですが、競走成績について「これ以上あれば『特筆に値する成績だ』とかこれ未満なら『特筆に値しない成績だ』」とするための判断基準です。立項基準なのか、削除基準なのか、そこは意見の一致に至っていません。しかしまあ、過去の“判例”の総和として、重賞勝ちがボーダーラインになっている、ということです。で、「成績面以外の何か」で特筆性を獲得するということは、当然ありえますし、それは競馬ジャンルの中でも肯定されてきています。成績はカスでも、テレビで大きく取り上げられたとか、人気があったとか、何度も記事になったとか、そういうことで「特筆に値する」とみなされて存続している記事もたくさんあります。グランパズドリームスーパーシンザンハクタイユーミスタートウジンダンスアワルツハルウララロイスアンドロイスシャコーグレイド・・・みんな重賞に勝っていませんが、記事化されて存続しています。これらを「重賞に勝っていない」といって削除依頼を出そうとした人はたぶんいない(はず)。これらの「特筆に値するポイント」はそれぞれです。(「特筆に値する」は「特筆性」のことではないですよ)
要するに今回の2頭については、これらに比べると物足りん、と考える人がいれば削除依頼が出たり、削除票が投じられることになるわけです。
機械的に「信頼できる情報源における相当量の言及」があればなんでも記事にしていいか、と考える人がいてもいいでしょうし、そうは思わない人もいるでしょう。新聞を読めば毎日、どこかのラーメン屋の記事や、ちょっとおしゃれな洋食屋の記事がありますが、それでお店の単独記事化を試みる人は少数派でしょう。それと一緒じゃないでしょうか。--柒月例祭会話2014年11月11日 (火) 10:36 (UTC)[返信]
(さらにおまけ)もしここが私のホームページだったら、2頭とも余裕で、写真付きで掲載しますよ。ただし、引退して成績が確定し、今日はこれを食べました、今日はどこどこを走りました、みたいなものでない、まともな出典が揃ってからにします。根本的には私は競馬狂ですから、正直嫌いじゃないんですが、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありませんあたりにしたがうと、いくらエジソンが偉人でも、出典があるからといって「10歳の2月10日にはパンを2枚食べた、11日は晴だった、12日は朝7時に起きて歯を磨き、それから本を読み、昼にホットケーキを食べた」みたいなことは書くなと言っていますよね。もっかい言いますが、私は自分のホームページだったらそういうことこそ喜んで書きますよ。しかしまあ、ウィキペディアでは自重します。過去の総意が「そんなことまで書くな」と言っているからです。--柒月例祭会話2014年11月11日 (火) 10:56 (UTC)[返信]
「一般的な事項」を、競馬分野の一部の方だけにしか通用しない「一般的でない事項」が超えるような道理はありません。他の各分野における特筆性の基準も、一般的な事項を補うものでこそあれ、それの上に来るものではないでしょう。「上記の一般的な目安も、信頼できる情報源における相当量の言及を求めており、特筆性を主張するには、まずはこれがよい指標となるでしょう。その次に、各分野の特筆性に関する基準・ガイドラインが目安になるので、参考にして下さい」(WP:NRVE)です。明文化されていることをご存じでないということは、失礼ながら柒月例祭さんの理解のされ方には問題があるのではないでしょうか。--Bellcricket会話2014年11月12日 (水) 00:20 (UTC)[返信]
  • 2006年から管理人の座にある方に「あなたの方針理解に問題がある」と名指しされたら、正直びびっちゃいますね。私は従来のコミュニティの判断を踏襲しているだけなんですけども。
でも、もしBellcricketさんがおっしゃるとおりだとすると、過去に行われてきた約90件の議論に参加したすべての利用者(述べ500人ぐらいはいるかな?)、最後に削除/存続を決めたすべての管理者(述べ90人ぐらい)、それからWikipedia:独立記事作成の目安にも列挙されている分野別の特筆性判断基準をの作成にあたった日米の多くの執筆者、これに基づいて記事を作ったり削除してきた様々な分野のたくさんの参加者の全員(全部足したら何万人かにはなるでしょうね)が誤っていて、Bellcricketさんただ一人が正しい判断をしている、ということになりますね。
私は「次に」というのは、ふつうに「まずは一般的な基準で判断し、それでOKなら次は分野別の基準でさらに篩にかけるといいよ」という意味だと考えます。過去の数万人の利用者もそう判断しているのではないでしょうか。そう解釈しなければ、「次に」以降がある意味がないですもんね。
たとえば「一般的な基準」ではOUTでも、「次に分野別の基準に照らしてOK」なら立項してもいいよ、という解釈をするのであれば、これは「独立した情報源なんか無くたって、分野別でOKといえばそれでOK」ということになりますから、それはちょっと無さそうに思います。
一般的基準と分野別の基準は「上」とか「下」とかじゃないんじゃないでしょうかね。分野別の基準があるならそれで、そういう基準がない分野では一般基準で、判断する、ということじゃないでしょうかね。
「表面的な字面」ではなく、その方針文書がなんのためにあるのか、を考えると、私は「出典さえあればなんだって記事化していいよ」というよりも、「出典があってもよく考えろよ」というのが中心的な理念だろうと思うのですがね。
繰り返しておきますけども、「成績面についての従来のコミュニティの判断」は重賞を勝っているかどうかに収束している、というだけでありまして、「成績面以外で、独立記事に値する価値」があるかどうかは、「出典があればなんでもいい」ではなく、「出典があっても」個々の利用者の判断が分かれることはある、と私は考えています。そのうえで、私個人はエイシンヒカリはギリギリあるんじゃないかなーと思って保留にしています。他の方が「ない」と判断したり、「ある」と判断することは、各自の自由なので、私はそこは否定していません。Bellcricketさんの考えは「出典さえあればなんでもいいのであり、出典があるのに削除票を投じる利用者は問題だ」ということですよね。そこは私とは意見の隔たりがあるようです。
Bellcricketさんの解釈が正しいのであれば、英語版も含めてWikipedia:独立記事作成の目安に示されている分野別の基準、がすべて元の木阿弥、全部間違っていたってことになりますから、本当にそうなのか、どうぞWikipedia‐ノート:削除の方針で、過去のコミュニティの判断がすっかり誤っていた、という高レベルの合意を取りつけてきてください。私の側では「従来のコミュニティの判断に従う」だけですから、それを覆そうとするBellcricketさんの側に、そうする責任があるように思います。--柒月例祭会話2014年11月12日 (水) 03:17 (UTC)[返信]


コメント Wikipedia:独立記事作成の目安では、一般的な目安、つまり対象と無関係な信頼できる情報源による有意な第三者言及が複数ある。または、各分野ごとの基準を満たしている。のどちらかを満たせば基本的に記事の作成は認められることになっています。
まず、競走馬などについて、もっぱらレース結果を伝えるだけの報道は、Wikipedia:独立記事作成の目安で言うところのニュース報道に該当するため、一般的な目安にある有意な言及とは言えません。つまりレース結果のみの出典がいくらあっても、有意な言及とは言えないので、それだけでは独立記事を作成することは困難になります。ところが重賞レースで勝利したことが判明すれば、仮に出典がレース結果のみであっても「重賞勝利なら作成可能」という慣例により記事が作成可能になります。
つまり、有意な第三者言及があれば基本的に作成可能。有意な言及ではないが、各分野の基準を満たしていることが確認できればこれも作成可能です。一般的な目安と各分野の基準はorでつながったものです。例えばスーパーオトメハルウララはそれぞれ脱走騒動や、連敗が却って人気を呼んだことなどが有意な第三者言及によって示されていますので、一般的な目安によって作成可能。ミナミホマレはプロフィールと血統を示す程度の外部リンクしか出典に当たるものがありませんが、GIレースである日本ダービーで勝利しているので、慣例として認められている基準の「重賞レースで勝利している」を満たしているから作成可能。といった按配になるでしょう。
競走馬の基準(重賞勝ち)を満たさないが一般的な目安を満たすスーパーオトメハルウララ、一般的な目安を満たさないが競走馬の基準を満たすミナミホマレ。どちらもウィキペディアに存在してよい記事でしょう。一般的な目安は単なる出典でなく、対象と無関係な信頼できる情報源による有意な第三者言及を要求するため、出典があるだけでは満たすことができない場合もあります。これを補う意味で、ある一定の事実が確認できればよいとする各分野の基準があるとも言えるのです。
さて、今回削除依頼にかけられた記事はBellcricketさんによって出典が追加されていますので、これが独立記事作成の目安を満たしているか。及び追加の調査によって目安を満たす情報源が見つかるかどうか。といったところが焦点になるのではないでしょうか。少なくとも「競走馬の特筆性判断では一般的な目安を適用しない」という合意はなされていないはずです(だからこそスーパーオトメが存在するわけです)。単に出典の有無ではなく、これが独立記事作成の目安を満たしているかどうかが大事であると考えます。 --153.189.204.180 2014年11月12日 (水) 13:21 (UTC)[返信]
  • IPさんへ、ご意見ありがとうございます。Bellcricketさんがどう感じられるか私にはわかりませんが、私には、IPさんの見解は、ツボをついたものであり、私とBellcricketさんの主張の隔たりを埋めるものになりそうだ、という感じがします。
具体的にティルナノーグ (競走馬)に関して言うと、現時点で7つの出典がつけられているわけですが、これらの1つ1つが「有意な第三者言及」に該当するか、そうでないか、を判断する必要がある、ということですよね。
たとえばnetkeiba 「ティルナノーグが連勝、武豊「すごいね。キズナみたい」/紫菊賞」が、「ティルナノーグに対する有意な言及」なのか、それとも「ニュース報道」(有意な言及とは言えない)なのか。
もし仮に、今ある7つの出典がすべて「ニュース報道だ」ということになれば、独立記事作成の目安はクリアしないし、複数(2つ以上)が「ニュース報道でなく有意な第三者言及だ」ということになれば、独立記事作成の目安をクリアする。
そういう理解ではどうでしょうか?(>Bellcricketさん)--柒月例祭会話2014年11月12日 (水) 17:17 (UTC)[返信]
さんざんそういった旨を申し上げているのに、それを全く見当してこなかった柒月例祭さんこそ、いかがお考えですか。--Bellcricket会話2014年11月12日 (水) 23:25 (UTC)[返信]


長文なので節を分けます

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いやあ、議論って難しいなあと感じます。お互いに相手の考えていることを分かっていると思い込んでいて、全然わかっていない。私は3つの問題を見つけました。

1つ目、私が、私が知っていたり理解していることを、Bellcricketさんや他の人も同じように知っていたり理解していると思い込み、そういう前提で、共通理解があるものというつもりで話していたこと。

2つ目、Bellcricketさんが、「過去の議論」をおそらく読んでいないこと。Wikipedia:削除依頼/ログ/競馬にある競走馬の削除案件(特筆性がらみは約75件)、過去のPJ競馬における競走馬作成基準の議論の過去ログ、ぜひ読んでください。読んでほしい。お願いします。そうでないと、こちらの主張を理解できなくて当然です。ただ、どうしても読まないということでも、ここでの下の1から3を読んでいただければ概要は掴んでいただけるはずです。

3つ目、Wikipedia:独立記事作成の目安がいまだに定まらず、ガイドライン化されていないこと。


順を追って説明しますから、どうか最後まできちんと読んでください。全部目を通していただくには、ひょっとすると1週間ぐらいかかるかもしれませんが、構いません。もし「長いこと」「容量だけでかいこと」だけで判断され、読んでもらえなければ、それまでです。長いのは私の才能がないせいもありますが、過去に長く重い積み重ねがあることの証左でもあります。--柒月例祭会話

※次節「2」を読んでいただければ合点がいくと思うのですが、この1で述べていることが「そもそも今のWP:Nの規程と合っていない」と即断しないでください。2で、そのことについて詳述しますが、この1で述べていることは、2005年から2013年秋までは確実に有効だったのです。

1つ目の件ですが、話の順序はこうです。(1)ほとんどの競走馬には何らかの情報源を容易にみつけることができる(2)だから情報源があることが特別ではない(3)だから選別が必要である(4)そのために選別のための基準が必要だ(5)9年かけて議論や実例を積み重ねてきた結果として「重賞勝ち」付近に判断の分かれ目があるようだ(6)だからこれまでどおり重賞勝ちの有無についてまずは確認しよう。

こういうロジックを積み重ねてきています。私の側では、(1)から(5)までは自明のこととして、すっ飛ばしてしまいました。私の思い込みとして、競走馬の削除の話をする参加者は、当たり前のように、過去の判例や議論を知っているから、あらためていちいち(1)から議論を始めること無く、合意がある部分までは議論を省略し、(5)か(6)あたりから話を始めていいだろう、と考えたのです。(1)のところで待ったがかかることは想定していなかった。

ぜひ、過去の削除依頼約90件にすべてぜひ目を通していただきたい。Bellcricketさんもかつて参加しているんです。そしてそれらを見ればわかるのですが、「議論そのもの」はおおかた、PJ競馬でやっている。PJ競馬で議論した結果に基いて、削除依頼の場では各自が端的に結論だけ報告している。削除依頼の場で「そもそも競走馬の特筆性とは~」みたいな議論をやっているケースは(ゼロではないのですが)少なく、根本議論はPJ競馬で行い、削除依頼ではその根本議論に基いて判定のみを行っています。 と、いうことを、私は知っている。過去に競走馬関連の削除依頼に参加した人の多くは、PJ競馬での議論にも参加しているので、お互いに共通理解はある。

今回も、私はそのつもりで臨みましたが、Bellcricketさんはそうではなかった。だから、Bellcricketさんは「そもそも論」を始めたし、私は「今更ここでその話?」と思いました。このノートページの最初のほうで、「すべての馬に情報源がある」「それはいいすぎだ」というやりとりをしましたよね。あそこで私はもう少し掘り下げておくべきだったのかもしれません。

私はようやく(1)や(2)あたりがBellcricketさんの側の立ち位置なんだ、と遅ればせながら気づいたのです。私はてっきり、とうの昔にそこは通りすぎていると、一人合点をしていました。(1)(2)あたりの具体論は、一番最後にさせてください。

2つ目、割愛します。

3つ目、「ガイドライン」じゃないからそんなに大上段に構えるな、という話ではありません。ガイドラインでないがゆえに、多くの利用者に周知がされないまま、マイナーチェンジをしている。こちら側も、いちいち細かい変更について確認していない。ということです。

さて、おそらくまだ「何を言っているんだ?」とお感じじゃないかと思います。ご理解いただくには、「過去の議論」を読んで頂く必要があります。

先に言っておきますが、私は今回のBellcricketさんとのやりとりを、無駄とは思っていません。競走馬記事の、特筆性を理由とする削除依頼は、ここ2年ほど著しく件数が減っています。100%捕捉していないかもしれませんが、Wikipedia:削除依頼/ログ/競馬にリスト化されているように、2008・2009年頃まではかなりの数がありましたし、2012年も多かった。2012年に多かったのは、ソックパペットを使った大量の削除依頼提出があったからなんですが、2013年は4件でしたから、最近はかなり少なかったわけです。その結果として、削除依頼の場に「過去の議論をよく知る人」が集まることが減り、「過去の議論を知らない人」が入ることで、共通理解がなくなってしまった。だから「そもそも論」になった。

まあ、毎度毎度はかんべんして欲しいですが、2年に1度ぐらいそもそも論をやるのはいいことかもしれないです。知らないうちにWikipedia:独立記事作成の目安の文面が変わっていrたりしますので。

既に長文ですが、ここからはもっと長いです。お付き合い頂く必要があります。これが「過去の議論」であり、こちらの主張の根拠になっているからです。これを読んでいただけないのであれば、Bellcricketさんは「自分の言いたいことだけ主張して相手の話には耳をかさない人だ」と思うしかありません。

まず、2005年10月から始めます。これはPJ競馬の初版です。「注意点」に「あまりにも実績のない馬の記事を作らないこと。」という判断基準が既に盛り込まれています。2005年から既に、競走馬記事の作成基準が存在したということです。当時の主要なガイドはウィキペディアへようこそウィキペディアは何ではないか新規ページの作成で確認できます。主に「何でないか」がベースになって、「あまりにも実績のない馬の記事を作らない」という合意に至ったのでしょう。

この頃、Wikipedia:独立記事作成の目安(かつてはWikipedia:特筆性)はまだ存在しません。この通りWikipedia:独立記事作成の目安の初登場は2006年12月です。しかもこの時はまだ草案に過ぎません。(今でも、「提案中」どまりですが)それどころか当時は、記事の品質を保証するのは出典や検証可能性ではなく、「専門家相互による査読」でした[1]

一方、競走馬の削除案件はこの頃には既に20近い実績が積み上がっています。2006年12月頃の案件を2つ紹介しておきます。Wikipedia:削除依頼/ヴィクトリーWikipedia:削除依頼/クルサード (競走馬)あたりでも、「競走馬としての実績」が重要になっています。この時期にはまだ、競走馬の記事の数が少なかったこともあり、全体的に今よりも基準が厳しいです。「G1を勝たなきゃダメ」というような見解を持っている方も少なくない。

確認頂きたいのは、この時期にはまだWikipedia:独立記事作成の目安は、2014年現在の内容とは大きく異なっているという点です。当時の版にはこうあります。 「後述する分野別ガイドラインは、まだ議論中です。そして、これらの基準が特定の分野で何をしなければならないかを、より正確に述べます。」

この2006年12月の時点では、PJ競馬における「競走馬作成基準」議論は、かなり先行していました。まさにそれが「分野別ガイドライン」そのものだったのです。プロジェクト‐ノート:競馬/過去ログ1#競走馬記事作成の基準について(2006年12月)これがちょうどその頃の議論です。これは最古の議論ではありません。Wikipedia:削除依頼/エクススピーディ(2005年9月)、Wikipedia:削除依頼/イナズマゼウス(2005年11月)のように、ずっと前から個々の削除案件で話がでていたものです。

ここでの「2006年12月13日 (水) 17:13 (UTC)」での私の発言、当時はWikipedia:独立記事作成の目安がまだほとんど存在していないわけですから「用語」は違いますけも、現在のWP:Nの「有意な第三者言及」そっくりだと思いませんか?私はこの時、競走成績だけで単純に足を切るのではなく、誰かがこの馬は特別だよ、と言ったらそれは特別なんだ、と言っているんですよ。

その後、約1年間はこのまま運用されます。Wikipedia:削除依頼/クルワザード(2007年1月)でも、管理者によって「PJ競馬でまず決めてこい」という依頼がなされています。そして、PJ競馬が明文化した「あまりにも実績のない馬の記事を作らない」に基いて、個々の案件でその馬が「あまりにも実績がないかどうか」を各利用者が判断し、その判断結果を述べ、それをみて最終的に管理者が削除・存続を決定する、ということが定着しました。この運用は、この頃すでに40件ほどの「削除依頼」を結審して実績を積んでいます。PJ競馬の明文化されたものはずっと変わらず「あまりにも実績のない馬の記事を作らない」というふわっとした記述であったのですが、40件の実例を通して、「重賞を勝っているかどうか」あたりにおおよその判断の別れ目が収束しています。もちろん個々の判断ですから、中には「G1勝ってなきゃダメ」という人もいれば「500万勝ちでもいいだろう」という意見もありましたけども、総和としては収束してきている、ということです。(その間、WP:Nはほとんど進化しておらず、機能していません)そして何人もの管理者が、こうした議論を判断基準として削除・存続を決めています。6年も前のことで今更当時の管理者に責任をおっかぶせるつもりはないですが、もし仮に管理者が「この削除議論は問題がある」と判断していたら、そう発言していたかもしれません。しかしそういうことはなく(例/Wikipedia:削除依頼/ザサンデーフサイチ)、少なくとも当時の判断・運用としては、もっぱら競走成績で判断することは、適ったものだったのでしょう。

2008年になって、1月2月6月に議論があり、「重賞1勝以上・話題があった競走馬」という目安の言及がありますが、結論としては大きな変化は起きていません。

7月にはこのように、管理者であるTantalさんが介入しています。Tantelさんは管理者としてPJ競馬にこう要請しています。

「削除する立場になって、行動すると過去の判例を踏襲しながら、やっていかないといけない側面もあるので、今回の一連の削除依頼を契機に、PJ参加者の皆様には、ある程度のボーダーラインを策定していただけると助かります。」

このような管理者からPJ競馬への削除基準の策定依頼は、何度か繰り返されています。Wikipedia:削除依頼/レーヴダムールなど。

これを受けて、PJ競馬はそれまでしてきたように、「ボーダーラインの策定」のための議論を行います。(が、これは申し訳ないのですが、2014年11月に至っても、結論には至ってないです。そこは弱い部分です。まあ、それを思って私が私論としてひとまず基準を文書化し、数名の方には大筋では賛同いただいている、というところです。)

7月の議論の中で利用者:Knuaさんという方が登場します。この方はこの頃、Wikipedia:独立記事作成の目安の内容についてノートで熱心に議論をしていた方で、彼によって、競走馬の記事作成基準と、Wikipedia:独立記事作成の目安が結び付けられました。とはいえ、この頃のWikipedia:独立記事作成の目安はまだこんなであり、2006年12月の初出の頃からほとんど進展が無いことを確認ください。

Wikipedia‐ノート:独立記事作成の目安/過去ログ2での2008年7月のKnuaさんの提案はこうです。

Notability(著名性・特筆性)とは、記事主題がウィキペディアに採録すべきかを示す基準です。ウィキペディアの記事は各分野で定められた採録基準を満たす必要があります。基準を満たすか微妙な場合、または基準自体が存在しない場合は、信頼できる情報源で相当量の記載がされている事を明記することでNotabilityを満たすことを証明することができます。

もし仮に、これに従うのであれば、競馬分野では競馬分野で定めた基準に従って判断するんだ、ということになりますね。基準がない分野の場合だけ、「信頼できる情報源」の登場になるわけです。

Wikipedia:独立記事作成の目安が大変身したのがこれ(2009年2月)です。なぜこの突然大きく変わったかというと、それまでの版が履歴の継承に問題があって削除されてしまったからで、議論に基いてブラッシュアップされたわけではありませんでした。ひとまず翻訳されたものがペタっと貼られた、ということです。Wikipedia‐ノート:独立記事作成の目安/過去ログ3の2月頃の議論をみれば明らかですが、しっかりとした議論の結果これが維持されたというよりは、議論の停滞の結果「うやむやになって」いるだけです。

2009年3月にはKnuaさんが「ウィキプロジェクトの作成基準を正式に「各分野での特筆性」に加える提案」を行い、「専門的な分野における採録基準などは素人目には判断が付かないものも多く、やはりウィキプロジェクトへ委ねるべき」「いままでの削除依頼でも削除理由として用いられてきたこともありますが、正式にウィキプロジェクトの議論結果を「各分野での特筆性」として加えることを提案」と提案しています。が、YESともNOとも何にも意見がつかないまま3ヶ月放置され、ウヤムヤになっています。

ここまでの段階だけで見ると、Wikipedia:独立記事作成の目安が、さっぱり合意を得られていない、いい加減な経緯で登場してきた「草案」であることが明らかになります。

一方、Knuaさんの提案にもあるように、分野ごとのPJで専門的な知識を有する利用者の間で合意によって作られ、運用されてきた基準は、利用者・管理者によって実際の基準として認められていることが明らかです。

このように、Wikipedia:独立記事作成の目安というのは、登場過程は実に不合理なものですが、結果的にはこれが2014年時点でもほとんどそのまま原型として残っています。その理由はいろいろあって一言では説明しつくせませんが、要するに、ガイドラインでないので強制力もないし、その時その時に賛否が別れて、小さな修正が繰り返されてきて入るものの、2014年11月の今の段階でも正式にガイドラインとして認知されていないし、それがゆえに、多くの利用者や、削除基準を分野別・PJで維持してきた人たちも、Wikipedia:独立記事作成の目安に小さな変更があっても、気づかないし、広く告知もされない。

私個人はほんのちょっぴりですがWikipedia:独立記事作成の目安の議論にも加わっているので、それなりにこの文書について知識を有していますけども、過去の経緯からして、この文書はそれほど効力が認められているとは言い難いし、この文書よりもずっと効力を認められてきたのは「分野別の基準」だったのです。

ここで少しだけBellcricketさんを責めますが、こうした経緯があるからこそ、私は「過去の議論」「過去の積み重ね」と繰り返してきたのですが、Bellcricketさんは「これは尊重すべき議論の積み重ねではなく、ウィキペディアの目的に反する悪しき風習」だと一蹴してとり合ってくれませんでした。Bellcricketさんは方針文書でもガイドラインでもない文書の表面だけを見て、その文書の成立過程や効力、運用、過去にどうやって判断が下されてきたか、を検討してくれませんでした。

でもまあ、きっと、ここまできちんと目を通して頂いていれば、私の言い分にも一定の筋が通っている、ということは認めていただけるのではないか、と期待しています。--柒月例祭会話

さて、2009年3月以降ですが、Wikipedia‐ノート:独立記事作成の目安では膨大な議論が行われたにもかかわらず、結果だけ見れば堂々巡りを繰り返しており、Wikipedia:独立記事作成の目安はこの5年で大きく前進したという感じではありません。それはPJ競馬での基準議論も同様です。ただその5年の間に「削除依頼の実例」だけが積み重なっていき、おおよそのところで「重賞を勝ったかどうか」が分かれ目になるという既成事実だけができあがっていきます。

私の主観ですが、Wikipedia:独立記事作成の目安は、ガイドラインではないながらも、それなりには浸透してきているような気はします。これを正式にガイドラインにするよ、という合意が得られていない以上、この文書の効力には怪しいところがあるようにも思いますが、WP:VWP:DPなどからリンクされていることで、半ばなし崩し的に、それなりの効力があるものとして運用されてきている、と言えるのではないかなと思います。

一方で、過去に実際に基準として重視されてきた分野別の基準はWikipedia:独立記事作成の目安の下に置くよ、という明確なアナウンスや合意もまた、得られていません。

BellcricketさんはWP:NRVEを引用し、「上記の一般的な目安も、信頼できる情報源における相当量の言及を求めており、特筆性を主張するには、まずはこれがよい指標となるでしょう。その次に、各分野の特筆性に関する基準・ガイドラインが目安になるので、参考にして下さい」といい、『「一般的な事項」を、競馬分野の一部の方だけにしか通用しない「一般的でない事項」が超えるような道理はありません。』と断言なさいましたが、上で示したように、実際にはその逆の運用が長い間なされてきています。そして、この現在のWikipedia:独立記事作成の目安は正式にオーソライズされていません。

この「次に」はいつ登場したかというと、2013年10月です。たった1年前なんですよ。この変更を行ったのは背番号9さんで、この文案でガイドライン化しようとしたのは2014年1月ですが、合意が得られませんでした。4月になって背番号9さんによる改変にクレームが付き、あらためて議論が行われ、コメント依頼やブロック依頼に発展し、秋になってこれらの当事者が席を離れ、そしていま11月です。この文書、この部分は、Bellcricketさんが高々と掲げて他人の判断を「問題がある」と批難するのに用いることができるほどの、ガッチガチに認められた方針文書ではない。

私の側には、少なくとも「実際に何年か管理者・利用者や草案文書で有効とされてきた判断」という根拠があるのです。

以上で、「柒月例祭さんの理解のされ方には問題がある」という決めつけは、撤回していただいてもいいのではないか、と考えています。--柒月例祭会話

ここまできてやっと、(1)や(2)について、腰を据えて話し合いができるのではないかな、と私は考えています。

基本的に私は自分に落ち度があったことを認めますが、上のような長文を用いて延々と説明してきたことを、競走馬の削除依頼のたびにいちいち説明するのはほとんど迷惑行為だと考え、従来と同じように、有効性を認められた基準に則って判断した「結果」だけを述べました。Bellcricketさんが「過去の経緯」をご存知ないのであれば、それをきちんと何らかの形で説明するべきでした。

さて、私は、2014年時点でのWikipedia:独立記事作成の目安](有意な第三者言及)を否定するつもりはありません。ただ、過去の議論を背景に、過去の議論と「有意な第三者言及」を私の中ですり合わせをして、私なりに整合性をつけてきました。その「私なりの整合性」をきちんと具体的に説明しなかったことも、私の落ち度です。

私なりの整合性、というのは、2005年にPJ競馬が「あまり実績がないものを記事化するな」といった時点では、「特筆性」とか「有意な第三者言及」という用語は存在していませんでした。しかし、「記事の対象はちゃんと選別しろよ」という意味では同じことを言っているのだと考えます。当時と今とではウィキペディアで使う言葉遣いが違うので、そっくりそのままイコールとは言えないのですが、私なりの解釈としては「そりゃ、ありとあらゆる情報源を探れば未勝利馬や500万下の馬でも、スポーツ新聞とかに載ったことぐらいははあるだろうけど、そんなのぐらいでいちいち記事にするなよ」という理念があったのだろうと思っています。今風にうと、そういうのは「ニュース報道等」にすぎない、ということです。

Bellcricketさんは「百歩譲って、すべての競走馬についてそうした記述が存在するとしても」とおっしゃいました。まあ、「すべての競走馬に何らかの記述があるかどうか」については、難しい、徒に疲れる議論になるでしょう。私も「完全に100%すべて1頭残らず」という意味では、語弊があったと思います。しかし、「未勝利戦で8着に来た馬」だって、スポーツ新聞や競馬ブックやGallopやネット情報には乗ります。次の未勝利戦の馬券の検討材料ですからね。500万下の平場戦を勝てば競馬四季報で個別にコメントが載ります。POG本や馬産地本では生まれたばかりの名もない馬も紹介されます。そういうのをかき集めても「特筆性の証明」としてはダメだろう、というのが私個人の見解です。私が判断する「「有意な言及」とは、対象の話題について、直接的かつ詳細に述べていることを意味します。元となる情報源において、「特集記事」(もっぱらその話題について述べている記述)とまではいかなくても・・・」に文句なしで該当するのは、「名馬本」の類に単独項目として掲載されたようなものです。そういうレベルの馬について詳述する際の出典としては、ネット情報や競馬ブックの「今週の注目馬」なんかは情報源として使えると考えています。が、「今週の注目馬」は「特筆性の根拠としての有意な言及」としては、アウトくさい、というのが、私の判断です。

エイシンヒカリでBellcricketさんが付与した7つの出典は、私の基準からするとほぼ全部が「ニュース報道等」側です。完全に、とは言い切れません。だから保留票にしています。

おそらくですが、「有意な言及」「ニュース報道等」とはなんぞや、と万人が納得する明快な線引をすることはムリでしょう。人によって判断は差が出るはずです。だからこそ、削除依頼の場では複数の利用者がそれぞれの見識に則ってアウトとかセーフと述べる意義があるわけです。明確な線引がもし可能だったら、そんな合議なんていらないはずです。

長文で本当にすみません。私の本音としては、これを読み切るのに時間がかかっている間に、2頭とも重賞を勝ってくれればいいのになあ、と願っているのです。--柒月例祭会話2014年11月13日 (木) 16:50 (UTC)[返信]

コメント 上節の結論として、現在それぞれの記事で提示されている出典が有意な第三者言及に当たるかを精査する方向で考えようということで話はまとまっているように見えますし、少なくともこの場の問題はそれで解決ではないですかね。これ以上は個別の削除依頼のノートでやるべき話だとは思えません。削除の審議の足止めを意図するように見えるご発言もありますし、そのような行為は審議妨害と見られても仕方が無いこともご認識頂きたく思います。この場はもう終わりにして必要があれば適宜適切な場所でやってください。--重陽会話2014年11月15日 (土) 08:16 (UTC)[返信]
  • おそれいります。「時間がかかっている間に重賞を勝ってしまえば云々」が審議妨害だというご指摘だと思うのですが、この点は言われてみればごもっともです。長文は、審議を妨害する目的ではなく、「方針理解に問題がある」に対する反論だったのですが、長期化させるのが目的だったと取られてもしかたがない発言でした。
重陽さんのおっしゃるとおりで、私はかまいません。--柒月例祭会話2014年11月15日 (土) 12:13 (UTC)[返信]
JRAの事業報告書によれば、昨年度末の時点で7,869 頭が競走馬として登録されているそうです。「ほとんどの競走馬には何らかの情報源を容易にみつけることができ」「情報源があることが特別ではない」というお考えであれば、この8,000弱の馬の大部分が、ティルナノーグやエイシンヒカリのようにメディアに扱われた、という事になりますが、そんなわけはありません。レース結果や寸評のような「定常的なもの」ならともかく、この2頭のような特別な扱われ方をしているのは特殊なことです。「クラシックの期待の星などゴロゴロいる」ともおっしゃいましたが、その理屈では年136回行われるJRAの重賞レースの勝ち馬だって「ゴロゴロいる」と言えるのではありませんか。「カゼノコ」の時に「JDDの以前のものである、という点が、実は私は気に食わない」とおっしゃっているように、どうも柒月例祭さんは重賞を勝つ前の資料について低く見るきらいがあります。そういった色眼鏡を捨てた上で、改めて精査してみてください。--Bellcricket会話2014年11月18日 (火) 02:48 (UTC)[返信]


10日お待ちしましたが、忙しいのか、私の文章が悪いのか、どうやら読んではいただけなかったようです。私は3塁にいてピッチャーとキャッチボールをしようと待っていたのに、期待していた相手は観客席から無人の1塁めがけて石を投げていた、みたいな感じです。

私は、私が「有意な言及でない」と判断する案件で、別の方が「有意な言及だ」と判断しても、それは多様性であり、「おまえの判断は色眼鏡だ」というような因縁をつけません。

わたしにはよくわかりませんが、Bellcricketさんは私を削除主義者と決めつけて批判したいのでしょうか。過去の事例をよく見ていただければ、私がどれだけ、「成績面」以外の観点から検討し、重賞を勝っていない馬の記述を残そうとしてきたかわかったはずなんですけども。そしてBellcricketさんが「半数の存続意見」がある競走馬案件で記事を削除したことが、明確に記録に残っていますのに。

いくら書いても読んでいただけないのであればどうしようもありません。読まなければ理解できなくても当然でしょう。私は今回もどうせ読んでもらえないことは予想していますが、第三者のためにあえて書いておきます。しっかり過去の経緯や説明を読めばわかることを、途中を読まずに結論だけ一瞥して、勝手に勘違いし、あさっての方向へ批判をされても対話とはいえません。

  • PJ競馬は「削除の基準」を定めたことはないです。(議論にあがったことはあります)
  • PJの基準は、それをクリアすれば、「たとえ出典が明記されていなくても・記事内容が粗末でも」ひとまず特筆性はあるものとして、加筆を視野に入れて存続させようとするものです。削除の基準じゃないですから。
  • それをクリアできなければ(知名度・実績が不十分)、一般的な特筆性基準で判定をします。この場合には出典が求められるでしょう。
  • 両方を検討してどちらかにひっかかるか、を考えるのであり、「上」とか「下」とかそういう関係じゃないです。

一般的な特筆性判断基準が言う「有意な言及」は、どこかに線を引けるような判断基準というよりは、閾値があるものです。判断する人の経験や知識や価値観によって、判断は多様に分かれるでしょう。私はそうした多様性の存在を支持します。複数の利用者が各自の見解に則って多様な判断を行い、その総和によって決定がなされます。そうでなければ、複数で合議する必要がない。

しかしまあ、カゼノコのときはちょっと不思議にも思ったのですが、今はBellcricketさんの判断は、私にとっては理解できるものです。Bellcricketさんは「サラブレ」を6年定期購読していたとおっしゃいました。

サラブレは、ゲーム雑誌を主力とするエンターブレインが出している月刊誌です。最新号の場合、120~130ページのうち、5%ほどが、ダービースタリオンなどの競馬ゲームのために割かれており、そのほか競馬の専門職ではないタレントなどのグラビア記事やインタビュー記事、マンガなどが全体の1割ほどを占めています。月刊誌なので、JRA重賞の記事も、1重賞につき1ページの1/3ほどです。執筆者も競馬の専門職ではなく、フリーのライターや、ゲームのライターの兼任があったりしますし、重賞の記事もその人達の対談によって成立しています。字も大きめ。競馬専従の記者はいるのでしょうか?

サラブレ1号あたり、大雑把に正味110ページとして(広告は考えに入れません)、12ヶ月×6年で約8000ページ分の情報量ですね。

私が普段目にしている競馬ブックは、ケイバブック社という競馬専門の出版社の週刊誌です。競馬の専従記者が何十人かいます。毎週200ページ前後で、G1だと1重賞に20~30ページが割かれます。500万条件の競走にも数ページが割かれます。字も小さい。大雑把に200ページ×50週(1年間)で10000ページ分の情報量になります。

これと同等のメディアとして、同じく週刊の「Gallop」があります。月刊誌では「優駿」ほか。それに、JRAの全ての競走登録馬を網羅した「競馬四季報」が年に4回出て、競走登録をしていない仔馬を網羅した文献も毎年刊行されます。ほかにも定期刊行物はたくさんあります。これに、複数の日刊紙(競馬専門の記者が大勢います)と夕刊紙があり、競馬開催日には専門紙が出ます。それにネット情報が加わります。これらに不定期の刊行物、専門書、などがあります。

計算するのも難しいし、してもしょうがないのですが、「サラブレ6年分」に相当する情報量が、1週間かそこらで出回っていて、私はそういう情報量を「分母」にしています。「未勝利戦で8着だった馬」のことをああでもない、こうでもないと書いているようなメディアに慣れ親しんでいるので、私から見ると、エイシンヒカリなどの記事で示された程度の出典は「定時的なニュース報道」レベルに映ります。

でも、JRAの重賞が1ページにも満たない扱いを受けているメディアを標準におく方が、500万条件でのことを書かれているものを見た時に「これは特殊な言及だ」と感じるということは理解できます。繰り返しますが、BellcricketさんがBellcricketさんの知見に基いて判断することを私は否定しません。私のようにどっぷり浸かりすぎている者よりも、シンプルに判断できるということもあるでしょう。いずれにせよ、そういう色々な判断があってよい、と私は考えています。

  • (参考までに)競馬の世界では、世界共通のブラックタイプシステムというのがありまして、日本(JRA)もそこに加わるために何十年かかけて必死に努力してきてやっと加わったわけですが、「Gレース(≒重賞)」に勝ったかどうか、は極めて重要です。
JRAのGレースに「ホゲホゲ」という馬が勝てば、ベネズエラの血統書でも、インドの血統書でも、スウェーデンでもベルギーでもイギリスでもアメリカでもロシアでも南アフリカでも、半永久的に、血統書にホゲホゲが記載されます。しかし、Gレースではないレースをいくらレコード勝ちしても、血統書に載りません。詳しい血統書で「3勝した」とか載るだけです。なので「重賞(Gレース)を勝ったこと」は競馬では重要になります。一部の生産者や調教師にとっては、重賞を勝たせてブラックタイプを獲得することが競馬の目的なのです(絶対に読んでもらえないでしょうけど『サラブレッド・ビジネス』ジョスリン・ド・モーブレイ著、サラブレッド血統センター・刊、1991、第4章「競馬のパターン」)。
  • 「JRAの事業報告書」を引き合いに出したのはいいのですが、根拠もない決めつけで、私の「ごろごろいる」を批判しようとしたのは、Bellcricketさんにしては冷静さを欠いているのではないですか?こういう場合は、分母と分子を考えに入れるべきです。
上で示したように、未勝利戦で負け続けているような馬ですらとりあげるメディアがあり、8000頭どころか、登録前の仔馬もカウントすると、1万頭以上の競走馬(地方競馬も忘れないで下さい)に出典はあるでしょう。まあ、1頭の例外もなく「すべての」競走馬に夥しい量の出典がある、とまで言ったら言い過ぎだったでしょうね。でも、JRAの年間3454のレースの全勝ち馬(2勝する馬もいるので3454頭ではない)に対し、3454の言及があるとしたら、分母が3500で分子が3500なら「ゴロゴロいる」と私は表現します。
せっかく事業報告書をご覧になったのですから、もっと最後まで読んでいただければよかった。年間の競走数は3454で、そのうち重賞が136ですので、数の上では4%弱になります。「3454分の136」だったら私は「ごろごろいる」とは言わないかもしれません。「136」という数ではなく、「どれだけ選抜されているのか」を考慮にいれますので、単に25分の1というのではなく、優勝劣敗の原則で選抜された上位4%である、ということも忘れないで下さい。
そして「500万下」というのは、その優勝劣敗のシステムで下から2番めの階級にすぎないのです。言ってみれば「甲子園出場をかけた地方大会の1回戦を勝った」というところです。甲子園の地方大会の1回戦を100対0で勝てば、地方紙の高校野球欄には載るでしょうね。珍事として。でも、相手が野球を初めて1週間のチームだったかもしれないし、普通は「100対0で勝った!凄い!レジェンド!」みたいに大騒ぎはしないでしょう。500万条件は、あくまでも500万条件としての扱いだということです。
「サラブレ」では条件戦にはいちいち言及がないのかもしれませんが、競馬ブックやGallopや日刊紙では、ダービーまでのあいだ、76鞍ほどの「500万特別」に勝った馬は、どこかで「クラシック候補」として取り上げられます。

もちろん、忘れないで欲しいのですが、競馬分野では、1勝もあげていないハルウララを筆頭に、唯競走成績主義・唯重賞主義ではありません。重賞を勝っていない馬の記事もいっぱいあります。今回の2件は、それらの域には満たない、と、私は判断したということです。

カゼノコの件はカゼノコのノートで承りますが、前提として、何度も読むことをおねがいしているWikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められるや、信頼性の評価についても、きちんと読んだ上でにしてください。そうでないとまた対話になりません。「エキセントリックな主張」を自称する素人がマイナーなネット情報源で行っている「当事者が繰り返し否定した極端な見解」(一次情報しかない)と、権威を認められた複数の専門家による合議による評価で、世界中に公式情報として流通し永久に残るもの(二次情報がある)、とを対等に扱おうとし、方針文書や他人の意見を読もうともしなかったのは、Bellcricketさんです。--柒月例祭会話2014年11月23日 (日) 16:00 (UTC)[返信]

ご連絡

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議論が停滞しているため、幅広くコメントを求めるためにコメント依頼を提出しておきました。1対1の議論では埒が明かないと思いますので、他者からも広くコメントをいただいたほうがよいと判断しました。--HOPE会話2014年11月29日 (土) 17:11 (UTC)[返信]

  • コメントええと、あくまでも私一人の見解ですが、私は、Bellcricketさんが私の投票行動や見解を否定しようとしたので反論しただけであって、「削除依頼」で賛否が割れること自体は構わないと考えています。現時点での削除依頼の動向をどう判定するかは見る人によって違うと思われ、票の数では削除票が多いと見る人もいるでしょうし、削除という合意が形成されていないとみる人もいるでしょう。私は「削除依頼の帰結」としてはどちらになったとしてもそれは判定者の判断ということでよいと思っています。
依頼者さんの依頼文にもあったとおり、「ビミョーな案件」だと思っていますので(片方が初重賞で惨敗したのでひとまずビミョー感は遠ざかりましたが)、同じものを見て賛否がわかれること自体は、私は当然だと思っています。「Bellcricketさんの存続票はおかしいだろ」みたいな意見はまったくもっていません。
私としては、この場でなにかこれ以上議論を進めるとか、なにかを結論づけたり決定するとか、「1対1の議論で白黒つける」みたいなことは考えてはいないですので、ここでの議論がこのままフェードアウトしたとしても、それはそれでよいと思っています。--柒月例祭会話2014年11月30日 (日) 12:19 (UTC)[返信]