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コンドル (学名:Vultur gryphus)は、タカ目コンドル科に分類される鳥類。南アメリカ大陸アンデス山脈に生息する。南米コンドル 、アンデスコンドルとも呼ばれる。
おなじコンドル科の大形種としてアメリカ合衆国の西海岸に生息するカリフォルニアコンドル (Gymnogyps californianus)がある。両種とも生きた獲物を狩るのではなく、主に大型動物の死体を漁って食物としている。
これらの大型の2種と何種かの中型種を含む新大陸におけるコンドル科の鳥はコウノトリに近い系統群(タクソン)であると思われていたが、現在では否定されている。ちなみに、コンドルとよく似た外見を持つハゲワシ類はタカ科であり、鷹、鷲、トビ、ハヤブサなどといった通常の猛禽類と同様の、旧大陸における同じように死体食の生態の大型猛禽類である。
コンドルの大きさは、クチバシから尾の先までがおよそ1.2m、両翼の端から端の長さがおよそ3mで、10kg以上になる。翼長ではもっと大きい鳥もあるが、翼の幅(前の縁から後ろの縁までの長さ)が極端に大きく、翼の面積がたいへん広くなっている。これは上昇気流に乗って空高く舞い上がるのに適している。成鳥の羽は黒く、首の付け根にある帯状の白い羽毛と、特に雄鳥の羽の白い班または帯だけが例外である(この白い班または帯は、成熟してから初めての換羽を終えるまで現れない。)。真ん中の指が大きく発達しており、後ろ指はわずかに現れている程度である。爪はまっすぐであまり鋭くない。すなわち、足はコウノトリのように歩く事に適していて、真のタカ目の猛禽である鷹や鷲などのように攻撃に用いたり餌をがっちり捕獲するのには適していない。他の猛禽類の例とは異なり、雌は雄よりも小さい。
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ペルー共和国(ペルーきょうわこく)、通称ペルーは、南アメリカ西部に位置する共和制国家である。北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面する。首都はリマ。
紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地だった。その後スペインに征服された植民地時代にペルー副王領の中心地となり、独立後は大統領制の共和国となっている。
公用語による正式名称は、スペイン語表記では República del Perú(レプブリカ・デル・ペルー)。ケチュア語、アイマラ語表記は共に Piruw である。通称は Perú。公式の英語表記は Republic of Peru(リパブリック・ オヴ ・ペルー)。通称は Peru。日本語表記による正式名称の訳はペルー共和国。通称はペルー。漢字では「秘露」と表記される。
ペルー (Perú) という言葉の語源には諸説あるが、16世紀始めにパナマ地峡のサン・ミゲル湾付近を支配していたビルー (Birú) という首長に由来し、パナマの南にビルーという豊かな国が存在するとの話を当地の先住民から伝え聞いたスペイン人が転訛してピルーと呼ぶになり、それがペルーになったというものが最も有力な説である。その後スペイン人のコンキスタドールによってインカ帝国はペルーと呼ばれ、そこからペルーという言葉がこの地域を指す名称となった。植民地時代にはペルー副王領が成立し、19世紀に独立した後もペルーの名が用いられている。
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フランシスコは、第266代ローマ教皇(在位:2013年3月13日 - )。就任は3月19日であり、この日にサン・ピエトロ広場において就任ミサを執り行った。新教皇の選出にあたり、日本のカトリック中央協議会は声明を発し、枢機卿自身は「フランチェスコ」とイタリア語で発音したが、「日本では英語の発音で『アッシジの聖フランシスコ』との呼び名が定着している」ので、混乱を避けるために「報道機関も英語読みで統一してほしい」と要請した。そのとき、併せてアッシジのフランチェスコとの混同を避けるために「日本の教会は1世を付けて呼んでいく」と付言したが、その後教皇庁大使館より日本カトリック中央協議会に通知があり、新教皇名には「1世」を付けないことになり、新教皇名を「教皇 フランシスコ」として各小教区・信徒・司祭・修道者に周知するよう指示がなされた。
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)は、1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス特別区フローレス区で、イタリア系移民の子として生まれた。父のマリオ・ホセ・ベルゴリオは、ピエモンテ州のポルタコマーロ出身の鉄道職員であり、母のレジーナ・マリア・シヴォリもまたイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身である。夫婦は中流の労働者階層で5子をもうけたが、ホルヘ・マリオは幼少期に感染症により肺の一部を摘出している。マリオ・ホセはホルヘ・マリオが小学校を卒業すると「教育上の配慮から」会計士事務所に働きに出された。サレジオ会が経営するラモス・メジア学院(現在のウィルフリド・バロン学院)を経て、ブエノスアイレス大学で化学を学び修士号を取得した。
ベルゴリオは1958年3月11日にイエズス会に入会し、ブエノスアイレス特別区ビジャ・デボト区の神学校で司祭になるための勉強を始め、1960年にまずブエノスアイレス州サン・ミゲル市のサン・ホセ高等学院で哲学を学んだ。その後1964年から1965年にかけて、サンタフェ州のインマクラーダ学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバヴァドール学院でも同じ教科を教えた。
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ロンゴロンゴは、イースター島で19世紀に発見された、文字あるいは原文字とも見られる記号の体系。現在も解読されていない。ロンゴロンゴが言語を書き表した「文字」であることが証明されれば、人類史上において数少ない、独自に発達した文字体系の一つであることになる。
ロンゴロンゴの記された24の木片 (文字板) が19世紀後半に収集されたが、風雨による損傷や、破損、焼失部分のあるものも多かった。これらは現在、世界各地の博物館に分散しており、イースター島に残っているものはない。ロンゴロンゴの記された木板は流木など、大きさ、形状が様々なもので、中にはイースター島の首長の杖や、古くから伝わる鳥人信仰に基づいた伝統儀式(ある種の競技)における勝者(tangata manu = 「タンガタ・マヌ」、鳥人と呼ばれる)の小像、伝統的な女性用の三日月形の装飾品「レイミロ」(reimiro)に記されているものもある。また、ロンゴロンゴの短文を含んでいると思われるペトログリフも見つかっている。口伝による伝承では、少数のエリートのみがロンゴロンゴを使用することができ、これらの文字板は神聖なものであると言われている。
別の見解として、元々文字は存在せず島民は口承で知識を語り継いでおり、布教目的で島に居住したカトリック宣教師が1864年に言及するまでロンゴロンゴの文字板の存在を立証するものは無く、現存する全てがヨーロッパ人接触後に作成されたものである可能性がある。この事から文字の存在を執拗に問いただすカトリック司教の不平を満たすために島の住民が意に沿うように報酬目的で自作したと思しき品がある事に加え、奴隷狩りと疫病で知識を口承する者が死に絶えた不安からヨーロッパ人に接触した事により文字(らしきもの)という概念が即席ながら作られたとする見解が存在する。
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ペレ (Pelé) こと、エドソン・アランチス・ドゥ・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento, 1940年10月23日 - )は、ブラジルの元サッカー選手。アフリカ系ブラジル人。サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録したその実績から「サッカーの王様(英語: The King of football、ポルトガル語: O Rei do Futebol)」、あるいは「20世紀最高のサッカー選手」と評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と見做されている選手である。
ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスで生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、発明王のトーマス・エジソンにちなんで「エドソン (Edson)」と名付けられた。しかしペレの出生証明書には「エジソン (Edison)」と表記されており、この誤表記は現在も訂正されていない。
父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ)はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた。180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが膝を痛めて退団。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなどサッカー選手としての成功とは無縁の人生だった。
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アルゼンチンの歴史では、アルゼンチン共和国の歴史について述べる。
アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11000年にアジアからベーリング海峡を渡ってやってきた人々だった。彼等はパタゴニアに「手の洞窟」を残している。
先インカ時代の15世紀以前からも、山岳地帯には、ケチュア系、アイマラ系の先住民(インディオ)が、ケチュア語でパンパと呼ばれた草原地帯や、同じくケチュア語でチャコと呼ばれた北部のサバンナ地帯にはチャルーア族や、グアラニー族といった狩猟民族や、原始的な農耕を行う部族が居住していた。
アルゼンチンの領域は、インカ皇帝トゥパク・インカ・ユパンキとワイナ・カパックの遠征によって征服され、タワンティンスーユ(インカ帝国)の一州であるコジャスーユに組み込まれたものの、北西部のアンデス山脈地方においてさえもインカ帝国の権威は強くなかった。インカ時代においてもアルゼンチンは辺境の地であったといえる。アルゼンチンにおけるインカ帝国の領域は現在のフフイ州、サルタ州、トゥクマン州、カタマルカ州、ラ・リオハ州、サン・フアン州、サンティアゴ・デル・エステロ州、メンドーサ州北西部にまで及んでいた。
16世紀のスペイン人による発見直前の現在のアルゼンチンの地域には、草原地帯、山岳地帯共に約12の部族、合計24の部族を併せておよそ340,000人のインディオがいたと推計されている。インカ帝国の一部であった北西部のアンデス地域が最も発展しており人口が多く、パンパには30,000人、パタゴニアには10,000人ほどのインディオがいたとされている。パタゴニアの名はフェルディナンド・マゼランが遭遇したインディオの足の大きいことに驚いたことから来ているが、パンパはケチュア語からであり、この草原地域にまでインカ帝国の影響があったことが窺える。アルゼンチンにおけるインカ文明の影響は、現在もアンデスのフォルクローレの代表的な曲『ウマウアカの男』に歌われるフフイ州ウマウアカ村のカルナバルなどに見てとれる。
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