角松はバブル景気の頃ニューヨークにも部屋を持っており、曲創りやライブは日本、レコーディングはアメリカという日々を過ごしていた。『TOUCH AND GO』でそれまでの経験をひとまず活かし切り、次に発案したのが、米国のプロデューサーに自分を委ねつつ自分で制作環境創りとプロデューサー選びをするというものだった。アメリカでのコンピューター・プログラミングによる音楽制作の見学は、後に中山美穂の『CATCH THE NITE』やジャドーズのプロデュースなどで活かされることになった[4]。
本作に収録されているヴァージョンは、1988年発売の12inchリミックス・コンピレーション「Voices From The Daylight 〜Gold 12inch items」[注釈 5]収録のリミックス・バージョンのオープニングをコラージュしている。アレンジはオリジナルのディティールを継承しつつ、近年ライブで披露する際のアレンジになっている。ちなみにベースの山内薫によるスラップのフレーズは、長年角松のバックバンドのメンバーだった青木智仁がライブで編み出したもので、彼に敬意を表してライブアレンジにおける不動のフレーズとして現在でも使われているものである[4]。
「Cryin' All Night」のアレンジは日本では80年代、歌謡曲の編曲家が好んで模倣したもので曲自体はポップだが、実際に楽曲を解体・解析すると、緻密・複雑・高度な手法で作成された楽曲であることが改めて判明し、角松は当時の米国のミュージシャンの先進性、優秀さを改めて感じることとなった。原曲ではデイヴィッド・フォスターのピアノプレイだった8分音符の細かい刻みは小林が演奏しており、角松は「こんなふうな雰囲気を出せて、尚且つパワーと正確性を備えて弾ける人はもう本邦にはほとんどいないだろう」と絶賛している。グレイドンのバッキングギターも鈴木英俊が精緻に解読して再現。またシンセサイザーは森俊之が角松の自宅スタジオにあるリ・イシュー版のアナログシンセを駆使して70年代当時のシンセの再現を試みている。角松と小林、森、鈴木の4人で、再現実験室みたいな感じでスタジオで構築したが「ピアノのボイシングはこうだ」、「ギターのフレーズはこうだった」、「シンセの音色はこれだった」と徹底的に追求し、オタクの部活や大学の軽音楽サークルみたいな感じで本当に楽しかったそうである[8][15]。
オリジナルのトミー・ファンダーヴァーグによるヴォーカルは自分ではとても真似できないと感じ、オリジナルから1音下げたキーでアレンジされている。だがその分、オリジナルにはない小此木まりと亜季緒による女性コーラスがポップさと軽快さを出してくれたので、若干落ち着いた大人の「Cryin' All Night」になったと振り返っている[15]。
『ALL IS VANITY』で提唱したテーマは「バック・トゥ・ベーシック(原点回帰)」で、当時主流になっていたプログラミング・サウンドに飽きを感じていた角松は、もう一度生演奏による録音に拘ってみたくなったそうである。そして目指したサウンドは1970年代後半から80年代前半の所謂「AOR」的なものへの回帰だった。アメリカ・ミュージシャンで録ったロサンゼルス録音サイド・日本ミュージシャンで録った東京録音サイドに分かれて、日米の腕利きミュージシャンが参加。また本作のアソシエイト・プロデューサー小林が『ALL IS VANITY』でも共同プロデューサーに招かれたが、小林を『EARPLAY』に招いたのも『ALL IS VANITY』での仕事を「想い出」として、「思えば遠くに来たもんだ」感を演出したかったからだそうである。
今回の打ち込みを中心としたアレンジは2015年の『TOSHIKI KADOMATSU SPECIAL LIVE TOUR 秋の旅情サスペンス「お前と俺」』 [注釈 8]用に作成したものをそのまま使用し、そこに角松のギター、小林のアコースティックピアノ、本田雅人ブラスアレンジによるホーンセクションを追加している。バックシンガーは小此木と吉川恭子で、前年度のライブ以降レコーディングでもいつか試したいと思っていたので、このセッションは適時と思い起用された。また本作のギターは自分でやっている時間がなかったため重要なところは鈴木に任せているが、この曲ではL側R側とも角松自身がレスポールで弾いている[17]。
「Cryin' All Night」と「Can't Hide Love」の2曲のベーシック・アレンジは小林に依頼。ドラムは打ち込みだがスティーヴ・ガッドのドラムをサンプリングして使用している[7]。打ち込みにしたのは時間がなかったことと、小林のソロ・アルバム『soliloquy』でのリズム・トラック作りが見事だったのでそれを依頼したかったのがある[18]。
『WEEKEND FLY TO THE SUN』は、角松にとっては最も心残りがある作品で、『SEA BREEZE 2016』のように歌のリテイクとリミックスをしたい最先鋒だという[注釈 10]。まだ経験もスキルもないにもかかわらず敢行されたロサンゼルス録音は当時の自分には分不相応だったと述懐している。ただメロディラインや歌詞にはその後を感じさせるオリジナリティがあり、個人的に好感を持っていた曲があり「CRESCENT AVENTURE」もその一つだったが、何十年も演奏していなかった曲であり今回は今なりのリメイクがされている[19]。
ストリングスはTOM TOM 84によるアレンジが素晴らしかったので、バイオリンの藤堂昌彦に譜面を起こしてもらい、リアレンジして弦楽四重奏で録音された。ギターは原曲ではカルロス・リオスが演奏していたものを角松がこなしている。リズムトラックはあえてプログラミングにしているが、ベースは若手ベーシストの起用を思い立ち、ドラムの山本が在籍するフュージョンバンドDEZOLVEのベーシスト小栢伸五が弾いている。小栢は角松が音楽監督を務めたミュージカル『東京少年少女』[20]で「若手で楽器もできて演技、歌にも興味を持っている人」を探していたところ山本から紹介され、ミュージカルに出演することになった。前作『東京少年少女』[注釈 11]収録の「to be or not to be」をミュージカル用に小栢のベースで録り直した時に、角松は演奏の見事さに驚きその時点で「CRESCENT AVENTURE」のベースに彼を起用することを決めていた[19]。
3rdアルバム『ON THE CITY SHORE』[注釈 13]の小ヒットや杏里のプロデュースワークでようやくプロとして軌道に乗り始めた頃、レコード会社やプロダクションの意向で「リゾート・ミュージック」や「シティポップの貴公子」など本人にとっては有り難くもないコピーを飾られてしまい、当時はそのイメージから脱却するのに必死だった。そして当時傾倒していたクラブダンス・ファンクに自分のポップスをどうにかして融合できないか、どうやったらそういう音が作れるのか思案し、その結果レコーディング・エンジニアのマイケル・ブラウアーと出会い「Girl in the Box」[注釈 14]を制作し、そこで築いた信頼関係が『GOLD DIGGER』にも繋がっていった。まだヒップホップが普及していなかった当時の日本のポップシーンでラップやスクラッチなどを盛り込んだ『GOLD DIGGER』は角松曰く「ある意味賛否両論問題作」だったというが、オリコンチャート7位(本人は何位だったか忘れていた)を記録し、その後の角松の活動を盤石なものにする作品になった[22]。
「I Can't Stop The Night」は角松が初めてプログラミングに挑戦した曲だった。当時打ち込みサウンドに挑戦してみたかったが、Roland MC-4のように信号を打ち込むタイプは高価な上に複雑で扱いきれなかったため、当時発売されたばかりでミュージシャンが弾いた音をデーターとしてクォンタイズするタイプのYAMAHA QX 1を使い、角松と友成好宏、オペレーター林有三の3人で制作していった[22]。
『GOLD DIGGER』『TOUCH AND GO』『BEFORE THE DAYLIGHT』『REASONS FOR THOUSAND LOVERS』の一連の作品は角松のニューヨーク在住時代の4部作としており、内容は徐々に高度にまた贅沢になっていったという。セルフ・プロデュースをある程度完成させてからアメリカのプロデューサーに客観的に自分を観てもらいプロデュースを委託しながら本場の方法論を学んで行く、というやり方は角松にとって非常に有効だった。『REASONS FOR THOUSAND LOVERS』では半数をアメリカのプロデューサーに依頼し、半数をセルフ・プロデュースという体制になっており、当地で学んだことをリアルタイムで吐き出している様子が伺えると回想している。「End of The Night」はウェイン・ブライスウェイトのプロデュースで、彼は類稀な才人だったというが若くしてこの世を去ってしまった。角松はこの曲を書いた当時、作曲法における転調にハマっていて、トリッキーな転調を自然に聴かせるにはどうしたら良いかということに専心していた。この曲などはその実験性が如実に出ている作品で、その後の角松の作品における特徴の一つである転調の面白さの原点となった曲でもある[23]。
「ALL IS VANITY」は英語で「諸行無常」という意味である。当時色々と悩み事も抱えていて、それを無理矢理払拭しようとジタバタしていた時でもあり、その時なりの苦悩を表現したかったのだろうと回想している。そして今は、30年の時が流れ娘を持つ身となり、子供を大切に育てながらも自分の老いと向かい合わなければならなくなり、当時とはまた違う意味での「心の叫び」に聴こえてくるという[24]。
^『WEEKEND FLY TO THE SUN』のマルチトラック・テープはレコード会社(ソニー・ミュージックレコーズ)と、前々所属事務所(トライアングル・プロダクション)の関連企業(バミューダ音楽出版)に権利があるので実現可能であり、過去のインタビューではレコード会社側の権利が強い『SEA BREEZE』から『ON THE CITY SHORE』までデジタルアーカイブを行ったことを語っていたが、『WEEKEND FLY TO THE SUN』については一部のテープが前所属事務所(マーマレード)の倉庫に紛れ込んでいる状態だという。一応当時の社長だった梶岡勝にはアーカイブについての相談を行っているものの、楽曲の権利を管理しているボンド企画およびマーマレードの関連企業のマーマレード音楽出版も活動していない状態のため、権利関係の処理が複雑化している状況にある。
^「End of The Night」の歌い出しはサ行で始まるのだが、ボーカルにディセッサーもしくはシビランス・コントローラー(サ行やタ行の発音の頭が強いノイズに聴こえて聞き苦しい場合、頭のわずかな発音をカットする機械だが、かけすぎると頭が欠けてしまう)で処理をかけた際にアメリカ人がミックスをしたため日本語が分からず、歌い出しにゲートがかかりすぎていることに気づかないまま発音が欠けてる状態でミックスされてしまった。角松はミックスに立ち会っておらず、作品がマスター化されて初めてそれに気づいた。