黒田源次
人物情報 | |
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別名 | 有馬 源次 |
生誕 |
1886年12月4日 日本熊本県熊本市 |
死没 |
1957年1月13日 (70歳没) 日本大阪府 |
出身校 | 京都帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 心理学・美術史 |
研究機関 | 京都帝国大学、満州医科大学、東京国立博物館、奈良国立博物館、奈良国立文化財研究所 |
学位 | 文学博士 |
黒田 源次(くろだ げんじ、1886年12月4日 - 1957年1月13日)は、熊本県出身の日本の心理学者・美術史家。号は「喪心亭」、「薼廬」。
経歴
[編集]- 出生から修学期
1886年、熊本県熊本市で有馬源内の次男として生まれた[1]。黒田家の養子となった[2]。済々黌、第五高等学校を経て、京都帝国大学文科大学哲学科に進学。心理学専攻で学び、1911年に卒業。同大学大学院に進学した。
- 研究者として
1914年、京都帝国大学医科大学の副手に採用され、生理学を修めた。1920年、医学部講師に昇格。1923年、学位論文『両眼視現象の研究に就て』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得[3]。1924年、日独文化協会日本研究所[4]の初代所長として文部省海外研究生になってベルリンに駐在。ライプチヒとベルリンで学んだ。
- 満州医科大学時代
1926年に帰国して、満州医科大学教授に就いた。1929年、満州医科大学の中に東亜医学研究室を創設した。1931年、再び生理学研究のため欧州に留学し、1934年まで滞在した。1939年、満州医科大学附属図書館館長、医学陳列館館長、予科主事となった。また、東亜医学研究所所長に就いた。
- 太平洋戦争後
1946年、敗戦に伴い引き揚げ帰国。1947年、東京国立博物館陳列科嘱託、国立博物館奈良分館長に就いた。1952年、奈良国立博物館館長に就任(~1957年)。1952年、奈良国立文化財研究所所長となった。在任中に発病し、1957年に心臓疾患のため入院中の大阪大学医学部附属病院で死去。[5]
研究内容・業績
[編集]関心は多岐にわたり、研究は心理学、医学、薬学、支那学、考古学、美術史、日本古代史など多方面に及んだ。
- 民具研究
1924年に発足した関西の郷土玩具の研究・同好会である「婢子会」の同人であった[6]。
家族・親族
[編集]著書
[編集]- 著書
- 『芭蕉翁伝』聚英閣 1923
- 『条件反射論:意識生活の生理学的解釈』生田書店 1924
- 『心理学の諸問題』寶文館 1926
- 『シーボルト研究』1927
- 『西洋画の影響を受けたる日本画』京都中外出版株式会社 1928
- 『上方絵一覽』佐藤商太郎商店 1929
- 再版 東洋書院 1978
- 『長崎系洋画』創元社 1932
- 『最近独逸に於ける日本学研究の傾向』日独文化協会 1934
- 『宋以前医籍考』(全3冊) 東亜医学研究所 1936-1940
- 『高勾麗と契丹』(戦時夏期大学講座 6) 平壤商工会議所 1943
- 『満洲史観:滿洲史の時代的区分』満州民族学会 1943
- 『司馬江漢』東京美術 1972
- 『気の研究』東京美術 1977
- 共編著
- 論文
- 「注意作用の分類に就て」『心理研究』第1巻 1912年
- 「視覚の範囲に於ける刺激閾の意味」『心理研究』 第4巻 1913年
- 「色彩感覚刺激閾の実験的研究」『心理研究』 第5巻 1914年
- 「パブロフの条件反射研究法に就て」『心理研究』第10巻 1916年
- 「反復作用説に就いて」『心理研究』第11巻 1917年
- 「両眼視野の優越、闘争及び融合を規定する外部条件について」『日本心理学雑誌 (京都)』 第1巻 1号 1918年
黒田源次に関する資料
[編集]- 『有馬源内と黒田源次:父子二代の一〇〇年』砂川雄一・砂川淑子著 2006-2007
- 増補改訂版 2014年
参考文献
[編集]- 『日本美術年鑑』昭和33年版 東文研アーカイブデータ(東京文化財研究所)
- 『邦文心理学文献目録稿』国立国会図書館支部上野図書館 1953
- 『日本心理学者事典』クレス出版、2003年。ISBN 4-87733-171-9。
- 「故黒田源次博士追悼記」『心理学研究』 第28巻 1号 1957
- 岡西為人「黒田源次先生と東亜医学」日本医学史学会関西支部『医譚』復刊第15号 1957
脚注
[編集]- ^ 黒田源次 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年7月9日閲覧
- ^ 『人事興信録 第18版 上』人事興信所、1955年、く47頁。
- ^ 『岡山醫學會雜誌』32
- ^ 国立公文書館
- ^ 『日本心理学者事典』クレス出版、2003年、424頁。ISBN 4-87733-171-9。
- ^ Kokeshi wiki
- ^ 吉田千之『竜南人物展望』九州新聞社出版部、1937年、p.376。