杉村勇造
人物情報 | |
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生誕 |
1900年11月1日 日本 東京市深川区 |
死没 |
1978年9月29日 (77歳没) 日本 東京都 |
学問 | |
研究分野 | 東洋美術、書誌学 |
研究機関 | 建国大学、東京国立博物館 |
杉村 勇造(すぎむら ゆうぞう、1900年11月1日 - 1978年9月29日)は、中国美術学者。号は「丁父」。大東文化大学名誉教授。
経歴
[編集]- 出生から修学期
1900年、東京市深川区亀住町(現・東京都江東区深川)で生まれた[1]。1919年、無窮会漢学研究生として中華民国・北京に留学。1924年、無窮会会長・平沼騏一郎の斡旋により3年間北京に留学。金石学を馬衡に、書誌学を徐鴻宝の下で学んだ[2]。
- 大陸での活動
1927年、北京東方文化事業総委員会の図書籌備員となり、人文科学研究所図書館の設立にあたった。
1932年、満州国立図書館、国立奉天博物館の開設準備に携わった。1933年10月に満日文化協会が発足すると、常務理事、満州芸文協会理事となった[3]。満州国立博物館の開設にあたり、1935年に満州国立博物館が開館すると、博物館の基幹雑誌『纂組英華』を刊行した。満州滞在中、満州各地で文化財や遺跡の調査・保存にあたった[2]。例えば、書誌学の点では、『満洲文大蔵経』などの稀覯書を発見し、その整理保存を進めた。考古学の遺跡調査の点では、集安の高句麗墓陵、丸都城址、興安嶺の遼代帝王陵、遼陽の漢墓調査などに参加。建国大学講師として教鞭もとった。
1944年、満洲芸文協会理事となり、美術局長兼翻訳処長。敗戦の後、1946年9月に東京に引揚げた。
- 太平洋戦争後
帰国後は、1947年8月に東京国立博物館嘱託となり、1946年6月に文部技官に任命された。1951年に同博物館考古課土俗室長、1958に資料課図書室長を命じられた。1962年に東京国立博物館を定年退任。
その後は、1966年9月より出光美術館顧問。1968年、大東文化大学教授となり、中国・日本文化史、美術史、中国語を担当した。1975年に大東文化大学を退任し、名誉教授となった。1978年、東京都にて死去。
委員・役職
[編集]- 出光美術館理事(1972- )
- 出光美術館常務理事
研究内容・業績
[編集]戦中・戦後を通じて中国文化人に知己が多く、日中の文化交流ならびに学術交流に尽くした[2]。戦後も3度訪中(1957年, 1966年, 1973年)した。
- 杉村文庫
旧蔵書は大東文化大学に収められ、「杉村文庫」となっている。中国の文化史、特に美術史、考古学関係を中心とした和漢書約3,600冊、洋書26冊、零葉11点、拓本14点が収蔵されている。文庫の目録として『大東文化大学所蔵杉村文庫目録』(1979)が刊行されている[4]。
著書
[編集]- 単著
- 共編著
- 翻訳
- 『新中国の考古収獲』中国科学院考古研究所 美術出版社 1963
参考
[編集]- 杉村勇造『日本美術年鑑』昭和54年版, 321頁. (東文研アーカイブ)
- 『日本人名大辞典』