コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

黒田善治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒田 善治
生誕 1871年4月20日
日本の旗 日本 茨城県
死没 (1944-12-29) 1944年12月29日(73歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1891年 - 1921年
最終階級 陸軍少将
テンプレートを表示

黒田 善治(くろだ よしはる、1871年4月20日明治4年3月1日) - 1944年昭和19年)12月29日[1][2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級爵位は従三位勲二等功四級男爵[3]

経歴・人物

[編集]

茨城県平民坂本芳平の次男(兄に退役陸軍歩兵大佐・坂本左狂)として生まれ、1898年(明治31年)黒田久孝の養子となり、1900年(明治33年)12月に家督を継ぎ、襲爵する[3][4]

1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業[1][5]。翌年、陸軍歩兵少尉1898年(明治31年)大尉を経て、1909年(明治42年)5月に中佐近衛歩兵第4連隊附となる[3][4]。この間、日露戦争の功により功四級金鵄勲章を賜る[3][4]

その後は、1912年大正元年)9月に佐倉連隊区司令官、1914年(大正3年)8月に陸軍歩兵大佐歩兵第2連隊長、1916年(大正5年)8月に近衛歩兵第4連隊長を経て、1918年(大正7年)7月に陸軍少将・歩兵第10旅団長となり、シベリア出兵に従軍[1][5][6]。シベリアにて病に罹り、1921年(大正10年)4月に待命、同年10月に予備役に編入した[1][5]

1928年(昭和3年)8月には隠居に伴い華族栄典を喪失した[7]

哲川と号し篆刻を能くし、また花卉盆栽の栽培を嗜んだ[3]

栄典

[編集]

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』289頁。
  2. ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館、1996年)575頁
  3. ^ a b c d e f g h 『人事興信録』第8版、ク78頁。
  4. ^ a b c d 『人事興信録』第4版、く19頁。
  5. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』101頁。
  6. ^ 『官報』第50号、大正元年09月30日。
  7. ^ 『官報』第816号、昭和3年9月16日。
  8. ^ 『官報』第1825号「叙任及辞令」1918年9月2日。
  9. ^ 『官報』第2767号「叙任及辞令」1921年10月21日。
  10. ^ 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『黒田 孝雄』 - コトバンク

参考文献

[編集]
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第4版、人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。

関連項目

[編集]
  • 御宿町立御宿小学校 - 1902年に暴風雨で校舎が倒壊した後、1戸あたり1日5厘の日掛け貯金を募って再建された、というエピソードに感激した黒田が、「五厘」と儒教の「五倫」をかけて、「五倫黌」と書かれた扁額を寄贈した。このことから「五倫黌」の異名がある。
日本の爵位
先代
黒田久孝
男爵
黒田(久孝)家2代
1900年 - 1928年
次代
栄典喪失