御宿町立御宿小学校
御宿町立御宿小学校 | |
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北緯35度11分18.7秒 東経140度21分18.0秒 / 北緯35.188528度 東経140.355000度座標: 北緯35度11分18.7秒 東経140度21分18.0秒 / 北緯35.188528度 東経140.355000度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 御宿町 |
共学・別学 | 男女共学 |
学校コード | B112210007205 |
所在地 | 〒299-5102 |
千葉県夷隅郡御宿町久保2085番地 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
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御宿町立御宿小学校(おんじゅくちょうりつ おんじゅくしょうがっこう)は、千葉県夷隅郡御宿町久保にある公立小学校。
五倫黌(ごりんこう)という別名を持つ[1]。
概要
[編集]- 2007年3月に同町岩和田の岩和田小学校が廃校となり、同年4月より統合された。
教育目標
[編集]「元気に学ぶ」-体も頭も心も元気-
重点目標
[編集]- 児童が動いて学ぶ活動を積極的に進める。
- 安全・安心な学校づくりを一層進める。
- 指導力の向上に努める。
めざす児童像
[編集]- 「体も元気」 健全な生活習慣 進んで運動する 進んで働く
- 「頭も元気」 自ら学ぶ 根気強く学ぶ 気付く
- 「心も元気」 元気にあいさつ よさを認める 夢を持つ
交通
[編集]なぎさマラソン
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
概要
- 毎年、11月後半もしくは12月前半あたりに午前中、御宿中央海岸で、毎年恒例の御宿小学校の「なぎさマラソン」がおこなわれており、大勢の保護者も応援に駆けつけるほどの恒例行事となっている。
- 砂浜を走るというのが、このマラソン大会の最大のポイントとなり、各学年の男女別に走り、距離は5,6年生の1000mが最長となっている。
沿革
[編集]御宿小学校
[編集]- 1874年(明治7年)2月 - 浜小学校、久保小学校創立[2]。
- 1877年(明治10年)5月 - 久保小学校を分割し高山田小学校を設置[2]。
- 1879年(明治12年)1月 - 久保小学校を浪花村岩和田小学校附属分教場、高山田小学校を布施村上布施小学校附属校に改める[2]。
- 1881年(明治14年)10月 - 第2次教育令に基づき浜小学校に初等科・中等科を置く[2]。
- 11月 - 岩和田小学校附属六軒町教場を設置[2]。
- 1885年(明治18年)1月 - 上布施小学校附属高山田教場、岩和田小学校附属六軒町教場、岩和田小学校附属久保分教場を浜小学校に移管[2]。
- 1887年(明治20年)2月 - 浜小学校を須賀尋常小学校と改称、高山田簡易科を設置[2]。
- 1889年(明治22年)6月 - 須賀尋常小学校を御宿尋常小学校と改称、高山田簡易科を高山田分校と改称[3]。
- 1891年(明治24年)2月1日 - 久保分教場、六軒町分教場廃止[3]。
- 1892年(明治25年)5月 - 高山田分校廃止[3]。
- 11月 - 高等科を併置、御宿尋常高等小学校となる[3]。
- 1902年(明治35年)9月28日 - 大暴風雨のため校舎3棟が倒壊、村内各寺院を教室に充てて授業を行う[4]。
- 1907年(明治40年)5月 - 校舎再建のため村内各戸あたり5厘の日掛貯金を開始[4]。
- 1914年(大正3年)7月 - 新校舎落成[5]。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 御宿町国民学校と改称[6]。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 御宿町立御宿小学校と改称[7]。
- 1959年(昭和34年)3月6日 - 白鳥省吾作詞・佐藤吉五郎作曲による校歌を制定[7]。
- 1961年(昭和36年)10月 - 校旗を制定[7]。
- 1967年(昭和42年)10月27日 - 校舎が全面改築され、鉄筋コンクリート3階建の新校舎が落成[8]。
- 2007年(平成19年)3月 - 岩和田小学校が御宿小学校に統合され閉校となる[9]。
岩和田小学校
[編集]- 1874年(明治7年)2月 - 岩和田村に岩和田小学校設立、安立寺を仮校舎とする[10]。
- 1889年(明治22年)4月 - 法蔵寺に移り仮校舎とする[10]。
- 9月 - 岩和田尋常小学校と改称[10]。
- 1894年(明治27年)1月 - 校舎が完成し移転[10]。
- 1902年(明治35年) - 高等科を設立し岩和田尋常高等小学校と改称[11]。
- 9月28日 - 大暴風雨により校舎倒壊、大福寺・浄願寺・安立寺に分散し授業を実施する[11]。
- 1904年(明治37年)4月24日 - 校舎再建[11]。
- 1908年(明治41年)4月1日 - 高等科を廃止し岩和田尋常小学校に戻る[11]。
- 1941年(昭和41年)4月1日 - 浪花村立岩和田国民学校と改称[12]。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 浪花村立岩和田小学校と改称[13]。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 町村合併により御宿町立岩和田小学校と改称[13]。
- 1974年(昭和49年)2月 - 加藤まさを作詞・作曲による校歌を制定[13]。
- 2007年(平成19年)3月 - 御宿小学校に統合され閉校[9]。
「五倫黌」
[編集]御宿小学校は「五倫黌」(ごりんこう)の別名を持つが、その由来は以下の通りである。
1902年(明治35年)9月28日、暴風雨(足尾台風)により、御宿小学校の校舎3棟が全て倒壊し、村内の各寺院を教室として授業を行うことになった[14]。当時の御宿村の財政では校舎の再建は不可能であったため、御宿小学校校長の伊藤鬼一郎[注釈 1]は、校舎再建費用を捻出するため、全村民に対して、1戸あたり毎日5厘ずつの日掛け貯金を呼びかけた。この貯金は全村民の協力のもと、1907年(明治40年)5月1日に正式に発足し、1912年(明治45年)5月1日からは1戸あたり1日1銭に値上げされた。この結果、1914年(大正3年)7月までに1万5000余円の貯金が集まり、共同貯金会の寄付金と合わせ3万余円となった。新校舎は1911年(明治44年)4月に起工し、1914年7月に落成した[16]。
佐倉連隊区司令官の黒田善治[注釈 2]は、御宿を訪れた際に、この「五厘講貯金」と呼ばれた貯金の話を知って感激した。黒田は後年、1930年(昭和5年)10月に伊藤元校長を訪問し、「五倫黌」と書かれた扁額を寄贈した。「五倫黌」は、「五厘講」と儒教の「五倫」、学校を意味する「黌」とをそれぞれかけたものである[18]。この扁額は校舎の玄関に掲げられていたが、1967年に校舎が全面改築された後は校長室に飾られている[19][1]。
御宿小学校では、児童会活動の中に「五倫委員会」があり、同校における望ましい児童の姿を表す言葉として「五倫の子」という表現がされている。また、御宿小学校のホームページは「ごりんのひろば」と命名されている[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c “ごりんのひろば”. 御宿町立御宿小学校. 2021年7月31日閲覧。
- ^ a b c d e f g 御宿町史編さん委員会 1993, p. 615.
- ^ a b c d 御宿町史編さん委員会 1993, p. 616.
- ^ a b 御宿町史編さん委員会 1993, p. 617.
- ^ 御宿町史編さん委員会 1993, p. 618.
- ^ 御宿町史編さん委員会 1993, p. 620.
- ^ a b c 御宿町史編さん委員会 1993, p. 621.
- ^ 御宿町史編さん委員会 1993, pp. 622–623.
- ^ a b 「4,526人の児童が巣立った岩和田小学校が閉校」『御宿』第529号、御宿町、2-3頁、2007年3月 。
- ^ a b c d 御宿町史編さん委員会 1993, p. 601.
- ^ a b c d 御宿町史編さん委員会 1993, p. 604.
- ^ 御宿町史編さん委員会 1993, pp. 605–606.
- ^ a b c 御宿町史編さん委員会 1993, p. 607.
- ^ 御宿町史編さん委員会 1993, pp. 617, 631, 1024.
- ^ 御宿町史編さん委員会 1993, pp. 629–634.
- ^ 御宿町史編さん委員会 1993, pp. 617–618, 631–632.
- ^ “五倫文庫”. 御宿町. 2021年7月26日閲覧。
- ^ 御宿町史編さん委員会 1993, pp. 633–634.
- ^ 大内 2006, p. 33.
参考文献
[編集]- 大内要三『一日五厘の学校再建物語――御宿小学校の誇り』窓社、2006年11月30日。ISBN 4-89625-083-4。
- 御宿町史編さん委員会 編『御宿町史』御宿町、1993年3月30日。