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黒井明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒井 明
黒井 明
生誕 1903年5月27日
日本の旗 日本 山形県米沢市
死没 (1933-03-10) 1933年3月10日(29歳没)
日本の旗 日本 高知県室戸岬
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1924 - 1933
最終階級 海軍少佐
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黒井 明(くろい あきら、1903年明治36年)5月27日 - 1933年昭和8年)3月10日)は、日本海軍軍人海兵51期卒)。水上機機長としての不時着水時の行動で責任感の鑑と称えられた。のちに殉職し最終階級海軍少佐

生涯

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山形県出身。米沢藩士族の出身で、曾祖母は「国字四書」で知られる黒井繁乃。父は松江高等女学校校長・黒井小源太。父の弟が黒井悌次郎である。府立一中を経て、海軍兵学校51期を卒業。1924年大正14年)12月、海軍少尉任官樋端久利雄木梨鷹一工藤俊作らが同期生である。

黒井は霞ヶ浦海軍航空隊飛行学生を卒業し搭乗員となる。1925年(大正15年)12月、海軍中尉に進級し横須賀海軍航空隊附を経て、1927年昭和2年)12月、水上機母艦能登路」乗組となる。1929年(昭和4年)4月、演習中に搭乗機の発動機故障により済州島沖に不時着水した。

商船「香取丸」が偶然、黒井らを発見し救助にあたる。風速25メートル[1]の荒天の中、黒井と商船の意思疎通は阻害され、商船員は艇を下ろして救助に向かい黒井機まで近づいた。しかし、黒井は「機を捨てて身柄のみ救助されるのは辞退する」と述べ救助を断る。悪天候の中、商船に飛行機を曳航することは不可能であった。黒井ら搭乗員は翌日未明まで機を守ったが、午前5時近くに転覆。黒井機搭乗員は鶴羽兵曹が殉職し、白川兵曹と黒井は潜水艦に救助された。この黒井の行動は「海軍飛行将校の責任感の鑑」[1]と称えられた。なお、商船員の決死的行動も海員として模範的なものであり[2]、現地に留まり黒井らを救助した潜水艦に緊急信号を発信している。連合艦隊司令長官谷口尚真は、経緯を記述するよう黒井に勧めたが黒井は断った[2]

同年11月、霞ヶ浦海軍航空隊教官となり、海軍大尉へ進級。1932年(昭和7年)重巡愛宕」乗組となり同艦飛行長となる。翌年連合艦隊基本演習に参加し、3月4日の発艦飛行演習中に高知県室戸岬沖で行方不明となる。海軍省が認定した殉職日は3月10日であった。同年、白川兵曹は五島列島付近で殉職した。ただしこの事故は敵に攻撃されたものではなかったため、戦死扱いではない。

黒井ら海兵51期の航空機での殉職者は14名である[3]米沢海軍武官会会員。

出典

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  1. ^ a b 『大海軍を想う』「責任感の結晶」
  2. ^ a b 『遠い潮騒』「黒井明少佐」
  3. ^ 聞き書き 日本海軍史』p.182

参考文献

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  1. 「海軍少佐黒井明叙勲ノ件」(ref:A10113114400)
  2. 「愛宕機密第25号の78.3.15 90式2号水上偵察機愛宕第1号遭難事故調査報告」(ref:C05023333000)
  • 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。 
  • 戸高一成聞き書き日本海軍史』PHP出版、2009年。ISBN 978-4-569-70418-0 
  • 松野良寅『遠い潮騒 米沢海軍の系譜と追想』米沢海軍武官会、1980年。