黒岡帯刀
黒岡 帯刀(くろおか たてわき、1851年8月28日(嘉永4年8月2日[1]) - 1927年(昭和2年)12月19日[1])は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将正三位勲二等。貴族院勅選議員。
経歴
[編集]薩摩国鹿児島郡鹿児島城下下竜尾町(現鹿児島県鹿児島市下竜尾町)で薩摩藩士(180石[2])・黒岡久直の長男として生まれる[1][3]。幼名仁之介、元服してからは城之介久馨と名乗る[4]。
東京海軍操練所を経て、英国、仏国に留学[1][5][6]。1874年7月、海軍少尉任官[1]。以後、ウラジオストック派遣、東海鎮守府在勤、海軍兵学校出勤、兼太政官権少書記官軍事部勤務、威仁親王英国留学随行・兼在英国公使館附、軍事部第五課長、軍事部第四課長兼軍事部第三課長、兼造船会議議員、参謀本部海軍部第三局長心得などを務め、1886年4月、海軍大佐に昇進[1][7]。
参謀本部海軍部第三局長、海軍参謀本部出仕、横須賀鎮守府参謀長を務め、日清戦争には筑波艦長、浪速艦長として出征した[1][7][8]。1897年12月27日、海軍少将に進み台湾総督府海軍参謀長に就任[1][7]。1901年7月4日待命、1902年7月4日休職を経て、1903年9月5日、海軍中将昇進と同時に予備役編入となり、1914年3月1日後備役を経て、1925年12月7日に退役した[1][7][8]。
1903年11月20日、貴族院勅選議員に任じられ[9]、薨去するまで在任した[6]。その他、鉄道会議臨時議員を務めた[6]。
1927年(昭和2年)12月19日薨去。墓所は鎌倉の寿福寺。同所には父久直の墓もある。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 勲章等
親族
[編集]黒岡家は豊州島津家7代目当主島津久賀の次男島津帯刀久元が家祖。正徳期から黒岡姓を名乗った。が祖母島津御屋地(島津家17代当主島津義弘の長女)の遺領500石を継ぎ、別家を立てたのに始まる。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『日本海軍史』第9巻、217頁。
- ^ 秦 2005, p. 205, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:黒岡帯刀
- ^ a b 『人事興信録』第7版、く18頁。
- ^ 黒岡帯刀の英国留学について 梅渓昇
- ^ 「故海軍中将黒岡帯刀位階追陞ノ件」
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』119頁。
- ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』12-13頁。
- ^ a b 『日本海軍将官辞典』148頁。
- ^ 『官報』第6118号、明治36年11月21日。
- ^ 『官報』第177号「叙任」1884年2月4日。
- ^ 『官報』第2591号「叙任及辞令」1892年2月23日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
- ^ 黒岡帯刀の英国留学について 梅渓昇 doi:10.5024/jeigakushi.1972.64
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第一法規出版、1995年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 人事興信所編『人事興信録』第7版、1925年。
- 内閣(昭和2年)「故海軍中将黒岡帯刀位階追陞ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113784800