黎裕宗
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裕宗 黎維禟 | |
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後黎朝 | |
第24代皇帝 | |
王朝 | 後黎朝 |
在位期間 | 1705年4月 - 1729年5月18日 |
姓・諱 | 黎維禟(黎維祹) |
諡号 | 純正徽柔温簡慈祥寛恵遜敏和皇帝 |
廟号 | 裕宗 |
生年 |
永治5年10月20日 (1680年12月10日) |
没年 |
永慶3年1月21日 (1731年2月27日) |
父 | 熙宗 |
母 | 温慈皇太后 |
后妃 | 鄭氏玉欉 |
陵墓 | 古都陵→金石陵 |
元号 |
永盛 : 1705年 - 1720年 保泰 : 1720年 - 1729年 |
黎裕宗(れいゆうそう、レ・ズトン、ベトナム語:Lê Dụ Tông / 黎裕宗)は、後黎朝大越中興期の第24代皇帝。名は黎 維禟(レ・ズイ・カップ、ベトナム語:Lê Duy Cáp / 黎維禟)[1]、または黎 維祹(レ・ズイ・ダオ、ベトナム語:Lê Duy Đào / 黎維祹)[2]とも。
生涯
[編集]熙宗の長男。正和26年(1705年)、父帝から譲位されて26歳で即位した[3]。永盛8年(1712年)にキリスト教の布教を禁止した。永盛15年(1719年)12月、清から遣わされた内閣中書の鄧廷喆より安南国王に封じられた[1][2]。保泰4年(1723年)に科挙で初めて武挙を設けた[1]。
保泰10年4月21日(1729年5月18日)に安都王鄭棡から脅迫を受けて、次男の皇太子黎維祊に譲位して太上皇となった[1]。永慶3年1月21日(1731年2月27日)に52歳で崩じ、古都陵(現在のタインホア省ティエウホア県ティエウド社)に葬られた。後に雷陽の金石陵(現在のタインホア省トースアン県トースアン市鎮)に改葬された。1968年に北ベトナムの考古学チームによる発掘調査が行われ、遺体の状態は良好で多くの服飾品が出土した。
出典
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永盛年間に鋳造された永盛通宝
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保泰年間に鋳造された保泰通宝
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