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麻植 持光(おえ もちみつ)は、戦国時代の武将。「麻殖持光」とも呼ばれる。阿波国美馬郡内山城[1]主。
麻植氏は阿波忌部氏の流れを汲み、忌部神社大宮司でもあった。
勝瑞城主・細川持隆の信任を得て、「持」の偏諱を受けた。天文22年(1553年)に細川持隆が重臣の三好実休に殺害された為、持光が実休の攻略を企図するも、敗退。再起を図り阿波郡の国人・川人備前守を頼るも断られ、逆に攻撃を受け讃岐国に逃れ同国丹生で戦死したという[2]。
- ^ 家賀城。
- ^ 阿部猛ほか編『戦国人名辞典』(新人物往来社、1987年)p164~165参照