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鹿野琢見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鹿野 琢見(かの たくみ、1919年4月15日 - 2009年10月23日)は、日本弁護士。1969年、東京第二弁護士会副会長。弥生美術館および竹久夢二美術館を創設し理事長を務めた。また立原道造記念館の創設にも関わり同館理事長を務めた[1]

略歴

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人物

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高畠華宵関連

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1929年(昭和4年)発行の雑誌『日本少年』の巻頭口絵は高畠華宵の「さらば故郷!」であった。当時10歳であった鹿野は強烈に感動し、出征するまで勉強部屋に保管しておいたが、敗戦により復員したときには失われていた[5]

1965年(昭和40年)3月に華宵(当時77歳)が兵庫県の明石愛老園にいることを知り、「『さらば故郷!』のような絵を再び描いていただければ…」と手紙を送る。華宵からは折り返し返事があり、その後『新さらば故郷!』を送られるに至った。自宅には、華宵作品を集めた「華宵の間」をつくり、一般にも公開するようになった。華宵も度々滞在することになった。10月には「華宵会」を結成した[5]

1966年(昭和41年)7月31日、華宵没す。看取ったのは鹿野と加藤謙一であった。鹿野は告別式を営み「さし絵葬」と命名した[6]

著書

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寄稿・関連書籍

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  • 「華宵画伯と私」 『高畠華宵名作画集』 講談社、1967年
  • 「座談会 高畠華宵を語る」 『想いでの華宵絵ごよみ』 ノーベル書房、1969年
  • 「華宵先生回想」・「華宵先生の死を弔うの辞」『画家の肖像 高畠華宵の伝記と作品』(高畠華晃編著) 「画家の肖像」高畠華宵の伝記と作品刊行会、1971年
  • 「大衆の中に生きつづけた画家」 『高畠華宵名画大集』 講談社、1976年
  • 「晩年の華宵」 『日本の童画6 高畠華宵/蕗谷虹児/中原淳一』 第一法規出版、1981年
  • 「創設にあたり」 『弥生美術館 夢二と大正ロマンの画家たち』 弥生美術館、1984年
  • 「序にかえて」 『高畠華宵名画集 優美、華麗な叙情画の世界』 講談社、1984年
  • 「泣き虫華宵」 『別冊太陽 高畠華宵 美少年美少女幻影』 平凡社、1985年
  • 「さらば故郷! との出会い」 『生誕100年 大正ロマンを描いた 高畠華宵展』 朝日新聞社、1988年
  • 「中原さん回顧」 『中原淳一の世界 図録』 讀賣新聞社、1989年
  • 「創設にあたり」 『弥生美術館 大衆のこころに生きた絵画家たち』 弥生美術館、1990年
  • 「ごあいさつ」 『竹久夢二美術館 -その美と愛と悲しみ-』 竹久夢二美術館、1991年
  • 「夢二と華宵 - そのプロフィール」 『大正昭和ロマン画家たち 竹久夢二 高畠華宵 蕗谷虹児展』 毎日新聞社、1994年
  • 「立原道造記念館の設立」 『立原道造(「国文学解釈と観賞」別冊)』 至文堂、2001年
  • 「私のとっておき」 読売新聞、2002年1月28日(32面都民版記事)
  • 「鹿内弁護士の弁」 さくら隆『パンダと覚せい剤』 共栄書房、1982年[7]

脚注

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  1. ^ 鹿野琢見「立原道造記念館の設立」『「国文学解釈と鑑賞」別冊 立原道造』 至文堂、2001年
  2. ^ 「弥生町名騒動記」 『法のまにまに』
  3. ^ 「華宵の間 由来記」 『法のまにまに』
  4. ^ 「創設にあたり」 『弥生美術館 大衆のこころに生きた絵画家たち』
  5. ^ a b 松本品子編『高畠華宵』pp134-135、河出書房新社、2008年
  6. ^ 「華宵を追悼することば」『法のまにまに』
  7. ^ a b 『弁護するこころ』と『パンダと覚せい剤』は同じ事件を扱った著作である。『弁護するこころ』は元被告さくらの弁護人としての著作。『パンダと覚せい剤』は元被告の著作であり、鹿野は作中では鹿内弁護士として登場する。なお、さくら隆は元被告のペンネームである。

関連項目

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外部リンク

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