コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

鶴屋八幡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
株式会社鶴屋八幡
Tsuruya Hachiman Co.,Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
541-0042
大阪府大阪市中央区今橋4丁目4-9
北緯34度41分27秒 東経135度29分56秒 / 北緯34.69083度 東経135.49889度 / 34.69083; 135.49889座標: 北緯34度41分27秒 東経135度29分56秒 / 北緯34.69083度 東経135.49889度 / 34.69083; 135.49889
設立 1947年
業種 食料品
法人番号 4120001084670 ウィキデータを編集
事業内容 和菓子の製造販売
代表者 今中智英(代表取締役社長)
資本金 6000万円
従業員数 300名
関係する人物 今中伊八
外部リンク https://www.tsuruyahachiman.co.jp/
テンプレートを表示

株式会社鶴屋八幡(つるや はちまん、: Tsuruya Hachiman Co.,Ltd.)は、大阪の老舗和菓子[1][2]

小豆の選別から製餡まで自社工場で製造している[2]

沿革

[編集]

1702年元禄15年)に虎屋伊織(とらやいおり、正式には虎屋大和大掾藤原伊織(とらややまとだいじょうふじわらのいおり))が創業する[3]。虎屋伊織は大阪で初めて饅頭を売り出し、好評を博した[1]。虎屋伊織は、饅頭切手(持参人に饅頭を引き渡す一種の商品券)を発行したことでも知られる[1]。大坂での商品切手の嚆矢であった[1]

大坂内外に絶大な信用を築いた虎屋伊織であったが、幕末になると9代目当主が病弱なうえ、実子がなかったことや、世情不安などから経営が行き詰まる[1]。この時に9代目当主と虎屋伊織が閉店しては困る大坂の茶人からの要請と、虎屋伊織に原料をおさめていた八幡屋(やはたや)の後押しと受けて、虎屋伊織に永年奉公をしていた今中伊八は虎屋伊織の製法や原料など全てを踏襲し、文久3年(1863年)に高麗橋通り丼池に鶴屋八幡を創業する[1][2]。屋号の鶴屋八幡は、八幡屋の厚意に報いる意味で「つるややはた」とした[1]

「つるややはた」が「つるやはちまん」になった経緯は不明[1]

1951年(昭和26年)に3代目社長今中豊三PR誌『あまカラ』(のち『あまカラ春秋』)を刊行する[1]小島政二郎吉井勇吉屋信子北大路魯山人といった執筆陣の寄稿により、鶴屋八幡のみならず、大阪文化そのものの喧伝に寄与することになった[1]。『あまカラ』は200号まで発刊された[1]

  • 1915年(大正4年) - 合名会社鶴屋八幡設立。
  • 1932年(昭和7年) - ご紋章菓子謹製(菊花と桐花)ご下命。
  • 1947年(昭和22年) - 株式会社鶴屋八幡設立。

主な商品

[編集]

手塚治虫との関わり

[編集]

手塚治虫の大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)の同級生に今中宏という人物がいるが、鶴屋八幡を経営する一族の1人である[4]。今中宏が自身の祖父今中久吉を描いた似顔が、ヒゲオヤジのキャラクター原案となっている[4]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 菓子街道を歩くNo.156 大阪”. 全国銘菓(全国銘産菓子工業協同組合). 2022年6月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e 岸朝子『新訂版 全国五つ星の手みやげ【近畿/中国編】』東京書籍、2014年、526-527頁。ISBN 978-4487808267 
  3. ^ 鶴屋八幡の歴史 | 御菓子司 鶴屋八幡 三百余年の伝統
  4. ^ a b 第35回:大阪さんぽ(前編)手塚少年に芽生えた科学する心を訪ね歩く!!」『虫ん坊』2014年8月号(149)、TezukaOsamu.net、2022年6月14日閲覧 

外部リンク

[編集]