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魏観

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

魏 観(ぎ かん、生年不詳 - 1374年)は、初の学者官僚は杞山。本貫鄂州蒲圻県

生涯

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元末に蒲山に隠居した。至正24年(1364年)、朱元璋武昌を下すと、魏観は招聘されて国子助教に任じられた。後に浙江按察司僉事に転じた。至正27年(1367年)、両淮都転運使に転じた。入朝して起居注をつとめた。朱元璋の命を受けて呉琳とともに四方に遺賢を求めた。洪武元年(1368年)、大本堂が建てられると、魏観は太子や諸王に経書を講義した。ほどなく文原吉詹同呉輔趙寿らとともに天下を分行して遺才を訪ね求めるよう命じられ、推挙した人物の多くは任用された。洪武3年(1370年)、太常寺卿に転じ、諸祀典を考訂した。洪武帝(朱元璋)の意にかなって、侍読学士となり、ほどなく祭酒に転じた。翌年、孔子を祀る礼について上奏しなかった罪に問われて、竜南知県に左遷されたが、まもなく呼び戻されて礼部主事となった。洪武5年(1372年)、推薦を受けて蘇州府知府として出向した。前知府の陳寧の統治が過酷で、「陳烙鉄」と呼ばれていた。魏観は陳寧の手法を全て改め、儒教的な教化や風俗の改善を旨とする統治をおこなった。黌舎を建て、周南老・王行・徐用誠を招聘し、教授の貢穎之とともに学儀を定めた。王彜・高啓・張羽に経書や史書を考訂させ、高齢有徳の民である周寿誼・楊茂・林文友を郷に行かせて飲酒の礼をおこなわせた。翌年、四川参知政事に抜擢された。赴任しないうちに、蘇州府の民衆に留任を請願され、蘇州府知府の任にもどされた。

かつて張士誠は蘇州旧治に宮殿を置き、府治を都水行司に移した。洪武7年(1374年)、魏観はその地が低くて狭いことから、府治を旧治に戻した。また蘇州の濠を浚渫し、水利事業を興した。蔡本が魏観は呉国(張士誠)の基を復興しようとしていると誣告した。洪武帝は御史の張度を派遣してその事案を調べさせたが、張度は魏観と仲が悪かったため、告発を真とする報告を上げ、魏観は王彜や高啓とともに処刑された[1]。洪武帝はほどなく事実を察して後悔し、魏観の遺体をその郷里に葬らせた。

著書に『蒲山集』4巻があった[2]

脚注

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  1. ^ 『牧斎初学集』巻22に「王彝與魏觀高啓同誅洪武七年也」とある。『殿閣詞林記』巻6に「七年觀以舊治為士誠竊據且郡多水患乃修府浚河以壯士觀以資民利御史張度誣其興既滅之基遂與高啓等倶獲罪」とある。
  2. ^ 明史』芸文志四

参考文献

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  • 『明史』巻140 列伝第28