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魏牟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

魏 牟(ぎ ぼう、紀元前3世紀中ごろ)は、中国戦国時代公子[1]道家思想家[1]。旧中山国領に封ぜられた。公子牟中山公子牟とも呼ばれる。

書物として『公子牟』四篇の存在が『漢書芸文志に記録されているが現存しない[2]。『荀子』非十二子篇では思想家の它囂と並称して非難される[1]。『漢書』『荀子』それぞれに、その道家的思想が略述される[1]

名家公孫龍との交流が『荘子』秋水篇と『列子』仲尼篇に伝えられる[1]。『荘子』秋水篇では、魏牟が公孫龍に荘周の思想について教えを請われている[1]。一方『列子』仲尼篇では、魏牟が楽正子輿の公孫龍批判に反論し、「白馬非馬」などの学説を論拠を以て弁護している。同箇所では、魏牟は政治への関心が薄かったこと、公孫龍の門人だったことも伝えられる。『文心雕龍』諸子篇でも公孫龍と合わせて言及される[3]

呂氏春秋』審為篇には、思想家の詹何(詹子)との道家的な対話が伝えられる[4]。『荘子』譲王篇や『淮南子』 道応訓には、同様の対話が讃語を添えて伝えられる[4]

戦国策策に数度登場し[2]范雎に「贅沢は身を滅ぼす」と教えたこと(平原君の口を通じて語られる)や、孝成王建信君中国語版の重用を戒めたことが伝えられる。これらから紀元前3世紀中ごろに活動したと考えられる[2]。そのほか、『説苑』敬慎篇には魏冄との交流が伝えられる[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 諸橋 1931, p. 30f.
  2. ^ a b c 池田 2014, 秋水篇 訳注.
  3. ^ 戸田浩暁 訳注 『文心雕龍 上』 明治書院新釈漢文大系 64〉、1974年。261f頁。
  4. ^ a b 池田 2014, 譲王篇 訳注.
  5. ^ 王兆貴. “【歷史評析】魏公子牟的臨別贈言 | 縱橫古今” (中国語). 人間福報. 2023年4月29日閲覧。

参考文献

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  • 池田知久『荘子 全訳注 上・下』講談社〈講談社学術文庫〉、2014年。 上: ISBN 978-4062922371 下: ISBN 978-4062922388
  • 諸橋轍次荀子非十二子篇を讀む」『東洋学研究』第1号、駒沢大学東洋学会、1931年。 NAID 110006457409http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20611/ 

外部リンク

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