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魏咎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

魏 咎(ぎ きゅう、? - 紀元前208年)は、中国戦国時代後期から代にかけての政治家魏豹の兄、または従兄。秦末に王を名乗ったが、秦に攻められ、自殺した[1][2]

生涯

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魏王室の公子であり、魏の甯陵君(寧陵君)に封じられた。

魏王假3年(紀元前225年)、魏が秦に滅ぼされると、魏咎も平民におとされた。

二世元年(紀元前209年)7月、陳勝・呉広の乱が起こって中国全土が騒乱状態になる。魏咎も陳勝の元に赴いて配下となる。

二世2年(紀元前208年)10月、陳勝の配下である魏出身の周巿の地の平定を行う。魏咎は魏の地の平定に加わらず、陳に留まった。

同年11月、は周巿を王として立てようとしたが、周巿は魏王室の後裔である魏咎を迎えて王としたいと考えて、斉や趙の要請を受けず、陳勝に魏咎を迎え入れようと交渉する。

同年12月、使者が魏と陳の間を5回往復する交渉が行われた後、陳勝は魏咎を魏へ派遣する。魏咎は周巿らに擁立されて魏王となった。周巿は魏の相となる[3]。しかし、同月に、陳勝が秦の将軍の章邯と戦い敗走して、部下の荘賈に裏切られて殺される。

同年端月(1月)、秦軍を率いる章邯は陳勝を破ると魏を攻めてきた。秦と魏は臨済において戦いを繰り広げた。陳平が若者たちを引き連れて臨済にいる魏咎に仕えてきた。魏咎は陳平を太僕に任命する。しかし、魏咎が陳平の意見を聴き入れず、陳平を讒言する者もいたので、陳平は逃亡して項羽に仕えた[4]。魏咎は臨済において、章邯の軍に包囲される。

同年4月、臨済に危急が迫り、魏咎は周巿を派遣して、援軍を斉と楚に請う。項梁は(一族の)項它を援軍に送り、斉の田儋は田巴に兵を率いて周巿とともに魏を救援した。章邯はこの軍も撃破し、周巿らを討ち取ってしまい、臨済はまた包囲される。

同年6月、斉王の田儋が援軍として臨済に来る。しかし、章邯の夜襲を受けて、斉と魏の軍は大敗する。田儋も臨済において、戦死した[5][6][7]。魏咎は魏の民の為に章邯に降伏を誓約する。誓約が成立したため、魏咎は焼身自殺をした。

魏咎の死後、項梁を頼って逃亡していた弟または従弟の魏豹は懐王(楚の懐王玄孫で擁立された西楚義帝)より数千の兵を借り、魏の20余城を攻め落とし、章邯が項羽に降ると、自ら魏王と称した。

史料

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脚注

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  1. ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』秦楚之際月表第四・魏豹彭越列伝による。
  2. ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。まだ、秦代では正月を端月とする。
  3. ^ 『史記』陳渉世家
  4. ^ 『史記』陳丞相世家
  5. ^ 『史記』田儋列伝
  6. ^ 臨済における攻防の事実関係・前後関係は断定しにくい。
  7. ^ 斉と魏が敗れており、楚の名が無いため、『史記』魏豹彭越列伝に見える項它らが周巿とともに戦った章邯との戦いは、『史記』田儋列伝に見える田儋が戦死した戦いとは、別と見なした。