鹿島館
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鹿島館 (岩手県) | |
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別名 | 鬼柳鹿島館・鬼柳城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 和賀氏(鬼柳義綱?) |
築城年 | 不明、南北朝時代? |
主な改修者 | 和賀氏 |
主な城主 | 和賀氏、鬼柳氏、後藤半七 |
廃城年 | 天正18年(1590年)頃 |
遺構 | 曲輪 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
位置 | 北緯39度16分09.2秒 東経141度05分15.9秒 / 北緯39.269222度 東経141.087750度座標: 北緯39度16分09.2秒 東経141度05分15.9秒 / 北緯39.269222度 東経141.087750度 |
地図 |
鹿島館(かしまだて)は、 岩手県北上市上鬼柳5地割にあった日本の城。別称は鬼柳鹿島館[2]・鬼柳城。
概要
[編集]陸奥国和賀郡鬼柳村に所在した。城跡は和賀川右岸の比高20メートル余の河岸段丘縁部に立地し、七郭に分かれる。1971年(昭和46年)と1972年(昭和47年)に北上市教育委員会によって一部発掘調査が行われたが、現在は土木工事によって半壊している。
歴史・沿革
[編集]館主は和賀一族の鬼柳氏で、東方にあった丸子館から南北朝時代に鬼柳義綱が移り住んだとされるが、遺物の年代から室町時代後期の館と考えられている。和賀川下流領域の各郷を支配し、応永8年(1401年)以降、宗家に変わって和賀郡一円の惣領頭となったが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置により所領没収、城地追放の処分がなされた。
天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「鬼柳 平城 破 南部主馬助持分 代官 鬼柳源四郎」とある。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 北上市教育委員会『鹿島館遺跡調査報告書』 14巻〈文化財調査報告〉、1975年3月 。
- 北上市教育委員会『鹿島館遺跡調査報告書』 15巻〈文化財調査報告〉、1975年3月 。
- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典3 岩手県』角川書店、1985年。ISBN 4-040-01030-2。