コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

二子城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
二子城
岩手県
飛勢城跡石碑
飛勢城跡石碑
別名 飛勢城
城郭構造 平山城
天守構造 不明
築城主 和賀氏
築城年 不明
主な改修者 和賀氏
主な城主 和賀氏鬼柳氏後藤半七
廃城年 天正18年(1590年
遺構 曲輪、土塁、堀切、腰曲輪
指定文化財 史跡等未指定[1]
位置 北緯39度19分54.0秒 東経141度08分18.8秒 / 北緯39.331667度 東経141.138556度 / 39.331667; 141.138556座標: 北緯39度19分54.0秒 東経141度08分18.8秒 / 北緯39.331667度 東経141.138556度 / 39.331667; 141.138556
地図
二子城の位置(岩手県内)
二子城
二子城
テンプレートを表示

二子城(ふたごじょう)は、 岩手県北上市にあった日本の城。領主・和賀氏一族の居城。別名・飛勢城(とばせじょう)。

概要

[編集]

陸奥国和賀郡二子村に所在した。城跡は北上川湾曲部西岸の丘陵地帯あり、二子という名は地内北西部に小山が二つ並んでいることによる。丘陵東側には宿(しゅく)と呼ばれる城下町が形成され、二子城の中心部分に城主の居館跡(白鳥館)が存在し、周辺には家臣団の屋敷が配置されていたとみられる。現在、市立公園飛勢城跡として整備されている[2]

歴史・沿革

[編集]

室町時代以降、和賀郡惣領職として郡内を治めた和賀氏の居城跡で、築城年代は不明であるが、和賀氏の本拠地ははじめ北上川の対岸の更木(北上市更木町)に本拠地があったとされる(1797年刊『邦内郷村志』)。

二子城が和賀氏の本城となるのは、応永8年(1401年)4月28日に和賀時義が和賀郡惣領職に補せられた[3]直後とする説もある。天正18年(1590年)の奥州仕置で和賀氏が所領没収、城地追放処分を受けると、二子城には浅野長政の家臣・後藤半七が駐留したが、旧領回復を目指す和賀氏・稗貫氏が旧臣を集めて挙兵(和賀・稗貫一揆)、二子城を奪還した。しかし翌年の再仕置で蒲生氏郷勢に攻略され、当主の和賀義忠は逃亡途中に殺害された。天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「二子 平城 破 信直抱 代官 川村左衛門四郎」とある。

岩崎一揆

[編集]

慶長5年(1600年)、南部氏最上出陣中、伊達氏の支援を受けた和賀忠親は再度旧領回復を目指して挙兵(岩崎一揆)し、忠親は二子城を拠点として南部氏と戦った。和賀勢は花巻城を急襲(花巻城の夜討ち)し、三の丸、二ノ丸を制圧して本丸に迫ったが、援軍を得た南部勢に敗れて二子城を放棄、和賀勢は拠点を岩崎城に移した。

その他

[編集]

大手門は、南部氏花巻城に移したとされている。

脚注

[編集]
  1. ^ 「北上市内の指定・登録文化財」北上市公式HP
  2. ^ 「二子城」いわての文化情報大事典・岩手県公式HP
  3. ^ 「足利満貞安堵状」鬼柳文書

参考資料

[編集]
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年。ISBN 4040010302 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]