高階寛経
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高階 寛経(たかしな の ひろつね、永仁2年(1294年) - 文和4年/正平10年12月28日(1356年1月30日))は、南北朝時代の公家。初名は従貞。従二位・高階重経の子。官位は正三位・右衛門権佐。
経歴
[編集]永仁7年(1299年)従五位下に叙爵。後二条朝では中宮権大進として中宮・徳大寺忻子に仕えたほか、木工頭や少納言を務めた。延慶元年(1308年)持明院統の花園天皇が践祚すると少納言を免ぜられ、官職を失う。
文保2年(1318年)大覚寺統の後醍醐天皇が即位すると、同年従四位下、元亨元年(1321年)従四位上、元徳元年(1329年)正四位下と昇進し、この間修理権大夫・右衛門権佐などを務めた。
その後の建武の新政での動静は明らかでないが、南北朝の分裂後は北朝に出仕したらしく、康永2年(1343年)従三位に叙せられて公卿に列し、貞和5年(1349年)正三位に至る。
文和4年(1355年)12月28日薨去。享年62。高階氏の氏人としては寛経が最後の公卿となった。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 永仁7年(1299年) 正月5日:従五位下(馨子内親王当年御給)
- 時期不詳:従貞から寛経に改名
- 乾元元年(1302年) 2月28日:木工頭
- 徳治2年(1307年) 正月29日:越前権介。4月3日:中宮権大進(中宮・徳大寺忻子)。4月24日:従五位上
- 時期不詳:少納言
- 延慶元年(1308年) 9月17日:去少納言
- 延慶3年(1309年) 2月8日:正五位下
- 文保2年(1318年) 7月7日:従四位下
- 元亨元年(1321年) 2月11日:従四位上
- 嘉暦3年(1328年) 7月20日:修理権大夫
- 元徳元年(1329年) 8月4日:正四位下。10月10日:去権大夫
- 元徳2年(1330年) 3月1日:右衛門権佐。8月4日:去佐
- 康永2年(1343年) 4月12日:従三位
- 貞和5年(1349年) 12月21日:正三位
- 文和4年(1355年) 12月28日:薨去
系譜
[編集]『系図纂要』による。
- 父:高階重経
- 母:不詳
- 生母不詳の子女
- 男子:高階茂経
参考文献
[編集]- 『公卿補任 第二篇』吉川弘文館、1982年