高間省三
高間 省三(たかま しょうぞう、1848年(嘉永元年) - 1868年(慶応4年)8月1日(1868年9月16日))は、江戸時代末期(幕末)の広島藩士。戊辰戦争で活躍した。諱は正忠。
生涯
[編集]出生
[編集]1848年(嘉永元年)、安芸広島藩士の砲術家高間寛八(多須衞)のもとに生まれる。
幼年期には「直太郎」と呼ばれていた。少年時代から、心意気、度量、発想などが人並みはずれて大きかった。小節(細かいこと)にはこだわらず、好んで大義を語る、目を引く存在だった。
学問所
[編集]1865年(慶応元年)3月、18歳のときに広島藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)に入学、植田兼山らに師事する。後に同藩校の助教になる。文武に優れた藩中きってのエリートで将来を嘱望される。
1866年(慶応2年)5月、第二次長州征伐の指揮を執るために広島に来ていた老中・小笠原長行の横暴に対して、学問所関係者の若手から反発が起きる。「老中を打ち取るべし」と決し、小笠原の暗殺を謀る。広島藩に建白した署名した55人の中に高間省三がいた。
同年10月、岡山・井原の一ツ橋家の興譲館[1](こうじょかん)へ遊学する。館長で著名な儒学者で開明派だった阪谷朗廬[2][3]に学ぶ。
神機隊
[編集]1867年(慶応3年)秋に、薩長芸軍事同盟で、広島藩に神機隊が志和(東広島市)に発足すると、興譲館の遊学を切り上げて帰藩し、みずからの意志で入隊した。
父・高間多須衞から奥流の砲術を学ぶ。神機隊の志和練兵所で、農民出身の兵士たちと寄宿し、砲術訓練をおこなう。
戊辰戦争
[編集]1868年(慶応4年)正月に、京都で鳥羽伏見の戦争が起こる。広島藩には、備中・備後に出動せよとの朝命が出る。高間省三は指揮官の一人として出動し、2月に帰広した。
3月に神機隊320余人[4]は奥州に出兵を決議する[5]。藩主の聴許が下り、広島藩の豊安丸に便船して大坂に向かう。
高間省三は砲隊長として一隊の兵を率いていた。神機隊は大坂から京に入る。新政府から奥州応援の命令が下る。
閏4月、神機隊は江戸に向かう。江戸では泉岳寺などを宿舎とする。
5月15日、神機隊は上野彰義隊との戦いで、高間省三たちは飛鳥山に陣取り、彰義隊の落ち武者たちを斬獲(ざんかく)する。
5月末、神機隊に甲府城応援の命令がある。向かう途中で、振武軍(彰義隊から分裂した隊)の追討をおこなう。そして、甲府城を守る。
江戸への帰途、敵方が所沢駅で屯って掠奪すると聞いて、高間省三は馬で馳せて、その巣窟に入り、諭して降伏させ、武装解除をさせた[6][7]。
7月、神機隊は奥州への派遣を要請し、出兵が認められる[8]。
その後、神機隊は会津への最短の白河・会津ルートか、35里もある相馬・仙台藩へルートの選択で、奥羽越列藩同盟31藩の中軸である仙台藩と戦う平潟口を選んだ。
7月23日から26日まで、広野駅(宿場)で鳥取藩とともに戦う。23日から25日まで広野の新政府軍は神機隊と合わせると約600人の兵であり、同盟軍を相手に激戦となり、鳥取藩の砲隊長も死すほど、大勢の死傷者が出た。26日に長州藩兵と岩国藩兵が来援し、長州藩兵が同盟軍陣地に突入した結果同盟軍は潰走した。[9]。その後も、神機隊は連日の転戦で、苦戦・善戦をくり返す。
7月28日は進みて冨岡駅に入る。千代岡原の敵兵は丘陵に3カ所の砲台を築いており、激しく弾丸が飛んできた。新政府軍は神機隊が僅かに砲1門を有していたに過ぎなかったため、苦戦したが長州藩兵が損害を出しながらも敵の堡塁に突っ込み、格闘の末これを攻め落としたため形成は新政府軍に有利となり、熊ノ町南方の関門を奪取することに成功した[10]。
8月1日、第二次浪江の戦いが雨のなかで始まる。この地を攻め落とされると後がない相馬中村藩と新政府軍双方が死力を尽くした戦いになった[11]。
前日(7月晦日)、省三は父親に、「皇国の興廃は今日にあり」と手紙をしたためる[12]。高間省三はこの第二次浪江の戦いで 正面から顔に銃弾をうけて即死した。遺体は自性院(福島県・双葉町)に埋葬される。
戊辰戦争において戦没した高間以下78人を奉祀するため水草霊社(現広島護国神社)が創建された。
戦前の軍人の必携書であった『忠勇亀鑑 : 軍人必読』(軍人は武勇を尚ぶべし)[6]において、高間は武勇に優れた軍人の代表として紹介される。忠勇亀鑑が戊辰戦争で取り上げた人物は高間省三ただひとりである[13][14]。
高間省三の慰霊碑
[編集]広島城下・山根町の聖光寺に「高間壮士之碑」がある。明治3年の建立で、恩師・阪谷朗廬の撰文である(漢文)。
- 高間省三は、この日(慶応4年8月1日)に、大砲隊の部下らと盃を交わし、拳を闘わせて連勝したあと、能を優雅に舞いながら、「かならず敵の大砲三、四門は奪ってみせる」と謡いおわるや否や、大声一下、突撃を命じた。燃えさかる高瀬川の橋をみずから先頭に立って突破し、敵砲台ひとつを奪った(敵陣一番乗り)。そして次の砲台へと躍り込んだ。その刹那、顔面に敵弾を受けた。
高間省三の墓
[編集]- 福島県浪江町の常福寺では西軍5名戦死供養塔
高間家の由来
[編集]- 高間家は、美濃国の守護土岐氏の末裔である。土岐氏21代の山城守定政が美濃において死去した後、その孫が大和国高間(奈良県御所市)に移り住んで、姓を高間と改めた。高間与一郎正之のときに浅野長政に仕えた[15]。
- 浅野長政(豊臣秀吉の五奉行の首座に列していた・太閤検地の奉行)時代は、奉仕順(旧浅野・臣録による)では第6位にあった。関ヶ原の戦いでは浅野家は徳川家康についたことから甲府、紀州和歌山、広島へと転封してくる[16]。
- 広島の浅野宗家の家臣団では、高間家は最古参に世臣である。8代高間正益に男子がなく、広島藩の御用人本役の千石取りだった奥勘十郎の第三子・多須衞(たすえ)が高間家に入って9代目を継いだ。高間多須衞は武具奉行を経て、八条原城の築城奉行、大監察になる。
- 高間省三はその多須衞の長男で、誉れ高い秀才だった。浅野家の藩主父子は高間省三の戦死を悼み、多須衞あてに個人の感謝状とともに50石の加増がおこなわれた。広島藩における戊辰戦争の従軍兵は、神機隊の他の諸隊を含めると2700人余り。生死を問わず、そのなかで最高の行賞である。
- 省三の弟の彌之助は明治時代に慶応義塾に学び、広島で英語教師、やがて民権運動家となり、上海で客死する。彌之助の長男・完(たもつ)は太平洋戦争で海軍中将になっている。
脚注
[編集]- ^ 興譲館は、水戸の弘道館、萩の明倫館とならんで、海内三学館と称された。
- ^ 阪谷朗廬は著名な漢学者で開明派である。
- ^ 阪谷朗廬は、一橋家の所領である興譲館の館長だった。一橋慶喜が京都に呼んで育英の功績をたたえた。褒賞は辞退し、館費にと乞うた。広島藩は前々から学問所の教授として嘱望していた。王政復古で広島藩が一橋領を接収することになった折、朗廬は平和裏に解決を図った。これを機に、広島藩が朗廬を教授として招聘した。高間省三は接収に参戦しているが、子弟の関係がどう影響したのか、定かな資料は現存していない。
- ^ 清原源作(三次市)「関東征旧記」によると、隊卒324人。そのうち役職として医者6人、会計4人、監察6人、隊長6人、参謀3人、軍使2人、総督2人〆て28人に記す。
- ^ 広島藩は当初、財政難から出兵に反対だった。神機隊は藩兵ではなく自費で、そして思想を統一したことによる「義勇同志」として出兵を請願した。
- ^ a b 「忠勇亀鑑 : 軍人必読」吉田升太郎 著 高間省三:百二十七頁(73コマ)-百三十一頁(75コマ) 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757771/73
- ^ 大砲隊長高間省三が清原源作を一人連れて、早馬にて斥候した。(清原源作『関東征日記』明治元年発行)より
- ^ 当初は、政府軍は平潟(茨城県北茨城市)に集合し、平城(福島県いわき市)を攻める予定であった。しかし、神機隊は船の都合と嵐とで後れ、平城の攻撃には間に合わなかった。
- ^ 大山 (1968: 531-532)
- ^ 大山 (1968: 537)
- ^ 大山 大山「仙兵は第一線を捨て遠く相馬中村付近に後退した。他の友軍もともども後退したらしく、第一線で戦闘するものは僅かに相馬藩だけになった。だが相馬藩にしてみれば自国の領内戦であり、首都相馬中村に次第に切迫されている(熊ノ町から中村まで四十五キロ)。死活の問題である。従って独力必死で防戦するが、勿論裏面では色々と和平工作もあったらしいが、第一線の将士はまだ戦意を捨てていない。」(1968: 539-543)
- ^ 手紙は広島護国神社に奉納されている。
- ^ 『皇国の興廃この一戦にあり。~』は秋山真之の名言にあらず。2番煎じ 穂高健一ワールド
- ^ Webcat Plus
- ^ 武田正視「木原適處と神機隊の人びと」
- ^ 高間家・御判物および書状 浅野長吉(長政・天正16年)、浅野左京大夫(幸長・文禄3年、慶長6年)、浅野長晟(元和6年)、浅野綱長(延宝2年、元禄13年)、浅野吉長(宝永7年)、浅野重晟(明和3年)、浅野斎賢(享和2年、文化5年)
参考文献
[編集]- 高間家所蔵「高間省三の経歴」
- 穂高健一著「幕末歴史小説 二十歳の炎」(日新報道2014年06月)
- 穂高健一著「広島藩の志士」 (二十歳の炎新版) 南々社2018年 ISBN 4864890811
- 武田正視著「木原適處と神機隊の人びと」
- 橋本素助・川合三十郎編「芸藩志」
- 清原源作著「関東征旧記」
- 戊辰掃苔録 http://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/index.html
- 大山柏 『戊辰役戦史上』時事通信社 1968年