高鍋町立高鍋東小学校
表示
(高鍋東小学校から転送)
高鍋町立高鍋東小学校 | |
---|---|
北緯32度7分43.1秒 東経131度31分3.2秒 / 北緯32.128639度 東経131.517556度座標: 北緯32度7分43.1秒 東経131度31分3.2秒 / 北緯32.128639度 東経131.517556度 | |
過去の名称 |
高鍋尋常高等小学校 高鍋国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 宮崎県児湯郡高鍋町 |
校訓 |
教育目標 「高い志をもち、自らを律して、力強く生きる児童を育成する」 |
設立年月日 | 1904年(明治37年)9月5日 |
創立記念日 | 10月3日 |
学期 | 3学期制 |
学校コード | B145240115275 |
所在地 | 〒884-0002 |
宮崎県児湯郡高鍋町北高鍋4600番地 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
高鍋町立高鍋東小学校(たかなべちょうりつ たかなべひがししょうがっこう)は、宮崎県児湯郡高鍋町北高鍋にある公立小学校である。
概要
[編集]- 生徒数:612名
- 学級数:標準19 特別支援4
(2015年5月1日現在)[1]
教育方針
[編集]- 教育目標
- 「高い志をもち、自らを律して、力強く生きる児童を育成する」
- 目指す児童像
- 自ら学び、深く考える子ども 「かしこく」
- 礼儀正しく、思いやりのある子ども 「やさしく」
- ねばり強く、元気な子ども 「たくましく」
沿革
[編集]- 1778年(安永7年) - 明倫堂を創設。
- 1872年(明治5年) - 明倫堂の活動を停止。
- 1873年(明治6年)頃 - 旧明倫堂の建物にて「第七番小学校」を開校[2]。
- 1876年(明治9年) - 「嶋田小学校」に改称。
- 1887年(明治20年) - 嶋田小学校と上江小学校が合併し、高鍋・上江両村共立の「高鍋小学校」となる[3]。
- 1888年(明治21年) - 高月に新校舎が落成し移転。
- 1892年(明治25年) - 「高鍋上江村組合小学校」に改称[4]。
- 1893年(明治26年) - 6月、「高鍋尋常高等小学校」に改称[4]。
- 1895年(明治28年) - 4月、尋常科を「高鍋尋常小学校」に、高等科を「高鍋高等小学校」に分離[4]。
- 1904年(明治37年)
- 9月3日 - 現在地(菖蒲池西)に新校舎が落成し移転。
- 9月5日 - 落成式・開校式を挙行。
- 1908年(明治41年) - 3月、高鍋上江高等小学校組合が解散し[5]、高鍋尋常小学校に高等科を併置、女子補習科を付設した「高鍋尋常高等小学校」が開校[6]。
- 1912年(明治45年) - 4月10日、同校内に高鍋町立実科高等女学校を開校。
- 1913年(大正2年) - 創立10周年記念式を挙行。
- 1927年(昭和2年) - 4月4日、日米親善として、アメリカ合衆国から贈られた「青い目の人形」が到着し、歓迎会を開催。
- 1941年(昭和16年) - 4月1日、国民学校令の施行により、「高鍋国民学校」に改称。
- 1946年(昭和21年) - 創立記念日を「10月3日」とすることに決定。
- 1947年(昭和22年) - 4月1日、学制改革(六・三制の実施)により、「高鍋町立高鍋東小学校」に改称。
- 1949年(昭和24年) - 昭和天皇が本校を訪問(昭和天皇の戦後巡幸)[7]。
- 1955年(昭和30年) - 学校給食を開始。
- 1968年(昭和43年) - 9月24日、台風16号の接近による竜巻で講堂が大破。
- 1969年(昭和44年) - 3月31日、鉄筋造の体育館が竣工。
- 1985年(昭和60年) - 高鍋東音頭を制作。
- 2004年(平成16年) - 創立100周年記念式典を挙行。
- 2014年(平成26年) - 創立110周年記念式典を挙行。
交通
[編集]周辺
[編集]著名な出身者
[編集]脚注
[編集]- ^ 「公立小中学校施設の概要について」 宮崎県
- ^ 高鍋町史 p852
- ^ 高鍋町史 p879
- ^ a b c 高鍋町史 p880
- ^ 高鍋高等小学校は廃止し、上江村に上江尋常小学校(現・高鍋西小学校)が開校した。
- ^ 高鍋町史 p952
- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、102頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
- ^ “スケボー英代表ブラウンさん(本県出身)笑顔と勇気世界に挑む”. Miyanichi e-press. (2021年8月2日) 2021年8月4日閲覧。