高田山惠助
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高田山 惠助(たかだやま けいすけ、1917年3月25日[1] - 1983年12月7日[2])は、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身[1]の昭和時代の元大相撲力士。白玉部屋→芝田山部屋→高田川部屋→高砂部屋所属。本名は金野 恵助[1]。最高位は東十両8枚目[1]。得意技は右四つ、寄り。
経歴
[編集]同郷の横綱宮城山が引退直後に部屋を興した白玉部屋(のち芝田山部屋)に入門。1931年5月場所に初土俵を踏んだ。当初の四股名は師匠が以前名乗った「岩手川」。幕下時代の1940年1月場所に「高田山」と改名した。1941年5月場所に十両に昇進[1]。この場所8勝7敗と勝ち越した。翌1942年1月場所には東十両8枚目まで番付を上げたが、右膝を捻挫して途中休場。幕下に陥落、その後は勝ち越すことなく1944年1月場所で廃業した[1]。十両陥落後の1943年に師匠の宮城山が死去、高田川部屋に移籍、更に高田川部屋の師匠も間もなく死去したため、高砂部屋に移籍した。
廃業後は帰郷し、酒造会社や工務店などに勤務し、地元の小学生に相撲を指導した[3]。
1983年に66歳で死去した。
主な成績
[編集]- 通算成績:74勝83敗18休 勝率.471
- 十両成績:11勝10敗9休 勝率.524
- 現役在位:21場所
- 十両在位:2場所
場所別成績
[編集]春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1931年 (昭和6年) |
x | x | (前相撲) | x | ||
1932年 (昭和7年) |
x | x | x | x | ||
1933年 (昭和8年) |
x | x | x | x | ||
1934年 (昭和9年) |
x | x | 西序二段20枚目 2–4 |
x | ||
1935年 (昭和10年) |
東序二段22枚目 1–5 |
x | 東序二段30枚目 4–2 |
x | ||
1936年 (昭和11年) |
西三段目32枚目 5–1 |
x | 東三段目7枚目 4–2 |
x | ||
1937年 (昭和12年) |
東幕下25枚目 2–0–9 |
x | 東幕下21枚目 5–8 |
x | ||
1938年 (昭和13年) |
東幕下31枚目 8–5 |
x | 東幕下15枚目 2–5 |
x | ||
1939年 (昭和14年) |
西幕下27枚目 4–3 |
x | 東幕下16枚目 4–4 |
x | ||
1940年 (昭和15年) |
西幕下15枚目 4–4 |
x | 西幕下7枚目 5–3 |
x | ||
1941年 (昭和16年) |
東十両14枚目 8–7 |
x | 東十両8枚目 3–3–9[4] |
x | ||
1942年 (昭和17年) |
東幕下3枚目 3–5 |
x | 西幕下10枚目 2–6 |
x | ||
1943年 (昭和18年) |
西幕下24枚目 2–6 |
x | 東幕下42枚目 3–5 |
x | ||
1944年 (昭和19年) |
東幕下51枚目 引退 3–5–0 |
x | x | x | ||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
改名歴
[編集]- 岩手川(いわてがわ)1931年5月場所 - 1939年5月場所
- 高田山 惠輔(たかだやま けいすけ)1940年1月場所 - 1941年1月場所
- 高田山 惠助(たかだやま けいすけ)1941年5月場所 - 1944年1月場所
参考文献
[編集]- 『馬っこの里・せんまや・むかしいま』千厩青年商工クラブ、1984年。一関市立千厩図書館所蔵。
- 小池謙二『大相撲星取大鑑』昭和編第1巻、医聖社、1986年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『大相撲星取大鑑』178頁。
- ^ 岩手県一関市千厩町せんまや街角資料館展示資料による。
- ^ 『馬っこの里・せんまや・むかしいま』25頁。
- ^ 右膝関節捻挫により6日目から途中休場