高潤
高 潤(こう じゅん、546年 - 575年)は、中国の北斉の皇族。馮翊王。高歓の十四男[1][2][3]。母は鄭大車。字は子沢[1][2][3][4]。
経歴
[編集]幼いころ高歓に「わが家の千里駒なり」と評された[1][2][3]。天保元年(550年)5月に北斉が建てられると、6月に高潤は馮翊王に封ぜられた[5][6][7]。まもなく侍中・開府儀同三司に任ぜられた。東北道大行台尚書左僕射・定州刺史となった。刺史のまま都督定瀛幽南北営安平東燕八州諸軍事を加えられた[4]。河清元年(562年)1月、尚書左僕射となった[8][9][10]。高潤の容姿は美しく、14、5歳で母の鄭妃と同衾し、不倫のことがあったと噂された。高潤は成長すると官吏の仕事を習いおぼえて、不正の摘発に力をそそいだ。王迴洛と独孤枝が官田を侵奪して賄賂を受けた事件を摘発して、武成帝に賞賛された[11][12][3]。太子少師となり、録尚書事を兼ねた。河清3年(564年)3月、司空に上った[13]。天統元年(565年)4月、司空に転じた[14]。天統2年(566年)10月、太尉に転じた[15][16][17]。天統3年(567年)8月、大司馬[18][19][20]。入朝して司州牧となった[4]。天統5年(569年)11月、太保[21][22][23]。河南道行台録尚書事を歴任した。武平2年(571年)9月、太師[24][25][26]。武平3年(572年)8月、太尉[27][28][29]となった。太宰をつとめ、再び定州刺史となった[30][31][3][32]。武平6年(575年)8月22日、病が高じて州館で死去した[32]。享年は30[33]。仮黄鉞・左丞相の位を追贈された[30][31][3]。諡は文昭といった。武平7年(576年)2月11日、鄴城の西北30里の釜水の南に葬られた[32]。
脚注
[編集]- ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 168.
- ^ a b c 北斉書 1972, p. 139.
- ^ a b c d e f g 北史 1974, p. 1868.
- ^ a b c 趙 2008, p. 471.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 79.
- ^ 北斉書 1972, p. 52.
- ^ 北史 1974, p. 246.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 118.
- ^ 北斉書 1972, p. 90.
- ^ 北史 1974, p. 282.
- ^ 氣賀澤 2021, pp. 168–169.
- ^ 北斉書 1972, pp. 139–140.
- ^ 北史 1974, p. 284.
- ^ 北史 1974, p. 287.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 125.
- ^ 北斉書 1972, p. 99.
- ^ 北史 1974, p. 288.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 127.
- ^ 北斉書 1972, p. 100.
- ^ 北史 1974, p. 289.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 129.
- ^ 北斉書 1972, p. 102.
- ^ 北史 1974, p. 291.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 132.
- ^ 北斉書 1972, p. 105.
- ^ 北史 1974, p. 293.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 133.
- ^ 北斉書 1972, pp. 105–106.
- ^ 北史 1974, p. 294.
- ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 169.
- ^ a b c 北斉書 1972, p. 140.
- ^ a b c 趙 2008, p. 472.
- ^ 趙 2008, p. 473.
伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0。