高村田使
表示
時代 | 平安時代初期 |
---|---|
生誕 | 天平15年(743年) |
死没 | 弘仁9年11月17日(818年12月18日) |
官位 | 従四位下・東宮学士 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇 |
氏族 | 高宮村主→春原連→高村忌寸→宿禰 |
高村 田使(たかむら の たづかい)は、平安時代初期の貴族。氏姓は高宮村主のち春原連、高村忌寸、高村宿禰。官位は従四位下・東宮学士。
出自
[編集]高宮氏(高宮村主)は前漢の景帝の子である魯恭王の後裔を称した漢系渡来氏族[1]。大和国葛上郡高宮郷(現在の奈良県御所市西佐味付近か)を本拠とした[2]。
経歴
[編集]桓武朝初頭は右少史を務め、この間の延暦3年(784年)高宮村主から春原連に、翌延暦4年(785年)春原連から高村忌寸へと、一族の真木山と共に続けて改姓している。
延暦10年(791年)大外記に遷り、延暦11年(792年)外従五位下に叙せられる。延暦14年(795年)大学助に遷るが、延暦16年(797年)には大外記に兼帯で復任している。延暦17年(798年)安芸守として地方官に転じ、その後桓武朝末にかけては陰陽頭も務めている。
延暦25年(806年)平城天皇の即位後まもなくみたび大外記に復任して、平城朝前半まで務める。大同5年(810年)従五位上に叙せられた。嵯峨朝に入り、弘仁2年(811年)忌寸から宿禰に改姓する。その後は、皇太子・大伴親王の東宮学士を務めながら、弘仁6年(815年)正五位下、弘仁7年(816年)従四位下と順調に昇進した。
弘仁9年(818年)11月17日卒去。享年76。最終官位は東宮学士従四位下。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上。右少史
- 延暦3年(784年) 7月14日:高宮村主から春原連に改姓
- 延暦4年(785年) 3月19日:春原連から高村忌寸に改姓
- 延暦10年(791年) 3月21日:大外記[3]
- 延暦11年(792年) 正月7日:外従五位下[3]
- 延暦12年(793年) 11月22日:兼下総権介[3]
- 延暦14年(795年) 2月18日:大学助[3]
- 延暦16年(797年) 5月4日:兼大外記、止大学助[3]。日付不詳:兼大学助[3]
- 延暦17年(798年) 6月5日:安芸守[3]
- 時期不詳:従五位下(内位)。陰陽頭[3]
- 延暦25年(806年) 4月12日:大外記
- 大同5年(810年) 正月7日:従五位上
- 弘仁2年(811年) 閏12月27日:忌寸から宿禰に改姓
- 時期不詳:東宮学士
- 弘仁6年(815年) 正月7日:正五位下
- 弘仁7年(816年) 正月7日:従四位下
- 弘仁9年(818年) 11月17日:卒去(東宮学士従四位下)