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高村栄一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たかむら えいいち
髙村 榮一
本名 津田 信夫(つだ のぶお)
別名義 髙村 英一
環 晴夫(たまき はるお)
波多 秀夫(はた ひでお)
勝 俊二(かつ しゅんじ)
生年月日 (1902-11-26) 1902年11月26日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 岐阜県
職業 俳優
ジャンル 歌舞伎新派劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1923年 - 1971年
主な作品
唸る鉄拳
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高村 栄一(たかむら えいいち、1902年11月26日 - 没年不詳)は、日本の俳優[1][2][3][4]

概要

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髙村 榮一と表記されることもある。本名は津田 信夫(つだ のぶお)[1][2][3]。旧芸名は環 晴夫など[1][2][3]

来歴・人物

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1902年(明治35年)11月26日岐阜県に生まれる[1][2][3][4]

順天中學校(現在の順天中学校・高等学校)から慶應義塾大学経済学部に進学するが、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で敢え無く中退[1][2][3]。その後、東京毎夕新聞新聞記者となるが、中学時代に歌舞伎の巡業劇団に加わったり、大学時代にも翻訳劇団に関係したことから俳優に転向し、環晴夫名義で森三之助明石潮遠山満五月信子らの一座を転々とする[1][2][3]

1925年(大正14年)、東亜キネマに入社すると共に髙村栄一と改名[1][2][3]。多数の現代劇時代劇敵役として活躍する。1932年(昭和7年)、松竹蒲田撮影所へ移籍し、芸名も勝俊二と改名[1][2][3]1934年(昭和9年)、再び芸名を髙村栄一に戻して大都映画に移籍するが、1942年(昭和17年)の大映統合に伴い東京撮影所に移籍し、1971年(昭和46年)の大映倒産まで脇役として活躍した[1][2][3]。しかし、その後の消息は明らかになっていない。没年不詳

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、329頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、330頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『日本映画人改名・改称事典』国書刊行会、2004年。
  4. ^ a b 『日本人物レファレンス事典 芸能篇1 (映画・演劇・タレント)』日外アソシエーツ、2014年。 

外部リンク

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