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高市貴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高 市貴(こう しき、生年不詳 - 538年)は、中国東魏軍人本貫善無郡[1][2][3]

経歴

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北魏孝昌初年、恒州の劉崙らが乱を起こすと、市貴は都督となって、兵を率いて劉崙を討ち、一戦して撃破した。撫軍将軍・諫議大夫に累進した。永安元年(528年)、爾朱栄孝荘帝を擁立したとき、市貴は推戴に協力した。衛将軍光禄大夫・秀容大都督・第一領民酋長に転じ、上洛県伯の爵位を受けた。爾朱栄が葛栄を滏口で攻撃すると、市貴は前鋒都督をつとめた。葛栄が平定されると、市貴は使持節・汾州刺史に任じられ、まもなく晋州刺史となった。建明元年(530年)、紇豆陵歩藩并州に侵入すると、市貴は高歓に従って戦功を挙げ、驃騎大将軍・儀同三司に任じられ、常山郡公に封じられた[4][2][3]

普泰元年(531年)、高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、市貴もこれに参加した。樊子鵠が叛くと、市貴は大都督の婁昭の下で乱を討った。樊子鵠が平定されると、市貴は西兗州刺史に任じられたが、州には赴任しなかった。天平元年(534年)、再び晋州刺史に任じられた。高歓の命により洪峒の要所に派遣されて駐屯した[5][2][3]

天平4年(537年)、高歓が沙苑の戦いで敗北し、晋州行事の封祖業が城を放棄して撤退すると、州民の柴覧が人々を率いて東魏から離反した。高歓が市貴に命じて柴覧を討たせると、柴覧は柴壁に逃亡し、市貴は柴覧を撃破して斬った。このとき、東雍州南汾州の間には民衆叛乱が多かったが、市貴が柴覧を平定すると、みな帰順して生業に復したとされる。後に秀容の5000戸が山胡に呼応して叛くと、市貴は行台となり、東魏の諸軍を率いて乱を平定した。元象元年(538年)、高歓の下で宇文泰邙山に討った。晋州刺史・西道軍司となり、兵を率いて懐州の潘集の乱を討った。現地に到着する前に、道中で病没した。都督并汾懐建東雍五州諸軍事・太尉公并州刺史の位を追贈された[6][2][3]

子の高阿那肱後主の側近として気に入られるようになると、市貴は成皐王に追封された。次男の高孔雀が市貴の後を嗣いだ[7][2][3]

脚注

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  1. ^ 氣賀澤 2021, p. 258.
  2. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 254.
  3. ^ a b c d e 北史 1974, p. 3049.
  4. ^ 氣賀澤 2021, p. 258-259.
  5. ^ 氣賀澤 2021, p. 259.
  6. ^ 氣賀澤 2021, p. 259-260.
  7. ^ 氣賀澤 2021, p. 260.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4