高向宇摩
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時代 | 飛鳥時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
主君 | 推古天皇 |
氏族 | 高向臣 |
子 | 国押 |
高向 宇摩(たかむく の うま)は、飛鳥時代の豪族。姓は臣。
出自
[編集]『新撰姓氏録』「右京皇別」によると、高向臣(高向朝臣)氏は蘇我氏の一族で、「石川同氏、武内宿禰六世孫猪子臣之後也」とあり、この猪子が宇摩の父親であると考えられている。『古事記』中巻にも、建内宿禰の子、蘇賀石河宿禰の子孫とある[1]。氏の名称は、河内国錦部郡高向(現在の大阪府河内長野市高向)による。なお、高向玄理の系譜は、高向史氏で、旧姓は漢人であり、別の一族である。
経歴
[編集]高向宇摩の名前が歴史上に現れるのは、『書紀』巻第二十三の、628年の推古天皇崩御後、誰を皇嗣とすべきかで蘇我蝦夷・阿倍内麻呂主導のもとで群臣が集まった際に、大伴鯨が亡き天皇は田村皇子を遺詔で指定したと発言し、采女摩礼志・中臣御食子らと共にそれに賛同した、ということと、この会合に不服を唱え、叔父の蝦夷の意向を尋ねようとした山背大兄王のところへ、その場に参加していた群臣らと共に蝦夷の代わりに使いに行った、ということのみである[2]。
以後、歴史書には一切登場していない。蘇我本宗家滅亡の際には、子・国押が蘇我氏を見限って、中大兄皇子に帰服している。
天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により、高向臣氏は同年11月に他の52氏と共に朝臣姓を授与されている[3]