高井麻巳子 ほほえみメッセージ
高井麻巳子 微笑伝言 高井麻巳子 ほほえみメッセージ 高井麻巳子 ハローほほえみメッセージ | |
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ジャンル | バラエティ |
放送方式 | 録音 |
放送期間 | 1986年10月14日 - 1988年3月27日 |
放送時間 |
火曜 20:30 - 21:00 → 日曜 21:30 - 22:00 |
放送局 | ニッポン放送 |
ネットワーク |
西日本放送、KBCラジオ (※1986年10月 - 1987年3月のみ) |
パーソナリティ | 高井麻巳子 |
プロデューサー | 湯浅明[1] |
ディレクター | 佐藤仁志[2] |
提供 |
全日空ワールド (※1987年10月 - 1988年3月の間のみ) |
特記事項: 1986年10月14日 - 1987年3月31日の間は『アイドル夢工場』の枠で放送。 |
高井麻巳子 ほほえみメッセージ(たかいまみこ ほほえみメッセージ)は、1986年10月14日から1988年3月27日までニッポン放送で放送されていたラジオ番組。パーソナリティは高井麻巳子。
放送時間
[編集]概要
[編集]本番組は、スタート当初はおニャン子クラブ出身のメンバー4人が日替わりでパーソナリティを務めた枠『アイドル夢工場』(月曜日 - 木曜日 20:30 - 21:00)の火曜日で放送開始。開始当初の番組タイトルは「高井麻巳子 微笑伝言(ほほえみメッセージ)」。『アイドル夢工場』の4番組の内、本番組だけが1987年4月以降も継続となり、毎週日曜日21:30からの枠に移動、これを機に「なかなか『微笑伝言』を『ほほえみメッセージ』と読んでもらえなかった」といった理由で、番組タイトルを『高井麻巳子 ほほえみメッセージ』に改題[3]。毎週日曜日21:30の枠は『ニッポン放送ショウアップナイター』の直後の枠だったため、ナイター中継が延長した場合本番組は短縮あるいは中止になり、これのために1987年4月中は3回とも休止になったということがあった[2]。1987年10月からは全日空ワールドの一社提供番組となり、同年11月からは全日空のブランド名『ハローツアー』に因んで『高井麻巳子 ハローほほえみメッセージ』に改題された。
はがきは毎週4,000 - 5,000通のペースで届き、その内訳は男性9割、女性1割だった[2]。番組中でリスナーみんなで行動するというサークル『高井ギャラリー』も結成された[2]。
1988年3月27日放送の最終回は当時ニッポン放送で一番大きかったスタジオ「ラジオハウス銀河(銀河スタジオ)」でリスナーを集めての公開収録の模様が放送された。そこでリスナーからの「結婚はどれくらいの歳でしたいですか?」との質問に高井は「歳ではなく、したい時にしたい」と笑いながら答えていたことがあった[4]。
1986年10月から1987年3月の間、火曜20:30で放送していた当時は西日本放送とKBCラジオにネット(『アイドル夢工場』の枠一括でネット)されていたが、1987年4月以降、日曜21:30枠に移動してからはニッポン放送のみでの放送だった。テーマ曲に使われていた曲は、ネイティブ・サンの『In Basic Pants』[5]。
主なコーナー
[編集]- ドキドキ初体験
- リスナーからの様々な「初体験」話を募集していた。
- 麻巳子の四次元ポスト
- 自分あてのラブレター
- リスナー作の、自分宛ての手紙を紹介していた[1]。
- 納豆の
詩
- 『自分あてのラブレター』の後継のコーナー。高井が納豆嫌いであることからコーナー化されたもので、自分の嫌いなものや駄目なことなど、自分の弱点をテーマにして、これを逆に「好きなもの」として詩にしたものを紹介していた[2][1]。
- 学生VS社会人
- 1987年4月からスタート。リスナー各々の身の回りの小さな出来事を紹介しながら「その時、社会人ならこうする」というテーマのトークを挟んでいた[3]。
- 今週のボツハガキ
- その回ではがきを読まれなかったリスナーのうち、ごく一部を名前だけ紹介。
ゲスト
[編集]- 忌野清志郎(1987年2月24日)
- 岸本加世子(1987年5月24日)
- 藤井郁弥(当時チェッカーズ、1987年9月6日)
- 藤井郁弥、藤井尚之(藤井兄弟 当時チェッカーズ、1987年11月29日)
- 工藤静香(1988年2月21日)
スタッフ
[編集]脚注
[編集]ニッポン放送 日曜21:30 - 22:00 枠 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
カモン・ザ・ナイト 大江戸アドヴェンチャー
(19:00 - 22:00) |
高井麻巳子 ほほえみメッセージ
↓ 高井麻巳子 ハローほほえみメッセージ |