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騶虞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
騶虞
和漢三才図会(1712年)

騶虞(すうぐ)とは古代中国の伝説上の生き物。騶吾(すうご)とも。品格を持った仁徳を示す瑞獣とされ仁獣と称される。

概要

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中国の文献では一般的に騶虞は、仁徳をもった君主が現れたときに姿を見せる瑞獣として描かれている。姿はのようだが性質穏健で獣を捕食しない。『説文解字』では尾が体よりも長く、黒い斑点を持つ色の白い虎のようなかたちをしていると描写されている[1]。『山海経』の「海内北経」に記載されている騶吾は騶虞とおなじものであると見られており、「騶虞」という表記で記されている文献もある[2]。騶吾は体に五彩の色をそなえた虎のような大きさの獣で、尾が体よりも長いとされる[3]

中国の『三才図会』には、文王の時代に姿を現わした[4]という伝承が記されている。永楽帝の時代には、開封で捕らえられた騶虞が皇帝に贈られたという記録がある。また山東での目撃談もあったという。この目撃談は黄河の水が澄んだことや、ベンガル地方まで派遣された鄭和艦隊の分遣隊がキリンを持ち帰ったことなどと併せて瑞祥とされた。

騶虞の語が登場する最古の例は『周礼』の「春官」である。また『詩経』に収められた一篇「騶虞」の題およびその一節[5]などもあるが、ここで述べられている騶虞とは狩猟に関することを司る役人の職名(騶人・虞人)[4][6]で、仁獣としての存在を意味しているかどうかは疑わしいと魯詩学派(の時代に出た『詩経』の解釈学派のひとつ)では説かれていた[7]

食事

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仁獣である証しとして、肉として食べるのは自然と死んだ獣のみで、生活をしている獣を狩り捕って食べることはないとされている。また、草木などに対しても同様で必用以上に踏み荒らして移動をすることをしないという[2][4]。同様に獣を捕食しないとされる中国に伝わる霊獣には酋耳(しゅうじ)というものもある[4]

騶虞とジャイアントパンダ

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オランダの中国学者ヤン・ユリウス・ローデウェイク・ドイフェンダックは、白い体に黒い模様をもつという記述から永楽帝に贈られたという騶虞はジャイアントパンダではなかったか[8]と1930年代に主張している。日本ではあまりとりあげられていないが、欧米などでは彼の主張に追随して現在の著述家のなかにも騶虞はもともとジャイアントパンダを指していたものではないかと考える者がいる[9]

出典

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[ 埤雅、釋獸 ] 騶虞、尾參於身、白虎黑文、西方之獸也、云云、不生草、食自死之肉

[ 字彙 ] 騶虞、仁獸也。

[ 淮南子、道應訓 ] 屈商乃拘文王於羑里、於是散宜生乃以千金天下之珍怪、得騶虞雞斯之乘、玄玉百玨、大貝百朋、玄豹黄羆、靑豻白虎、文皮千合、以獻於紂、云云、紂見而説之、乃免其身、殺牛而賜之。

[ 史記、司馬相如傳 ] 囿騶虞之珍羣、徼麋鹿之怪獸。

脚注

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  1. ^ 「中國哲學書電子化計劃」『説文解字』卷六 虍部
  2. ^ a b 馬昌儀 『古本山海経図説』 下巻 広西師範大学出版社 2007年 929頁
  3. ^ 高馬三良 訳 『山海経 中国古代の神話世界』 平凡社 1994年 142頁 ISBN 4582760341
  4. ^ a b c d 寺島良安 『和漢三才図会』6、島田勇雄・竹島純夫・樋口元巳訳注、平凡社東洋文庫〉、1986年、398頁。
  5. ^ 「中國哲學書電子化計劃」『詩經』國風 召南 「騶虞」
  6. ^ 小林一郎 『経書大講』第6巻 詩経 上 平凡社 1938年 94-95頁
  7. ^ 吉川幸次郎 『中国詩人選集 詩経国風 上』 岩波書店 1955年 93-94頁
  8. ^ Duyvendak, J.J.L. (1939), "The True Dates of the Chinese Maritime Expeditions in the Early Fifteenth Century The True Dates of the Chinese Maritime Expeditions in the Early Fifteenth Century", T'oung Pao, Second Series, 34 (5): 402, JSTOR 4527170
  9. ^ China Giant Panda Museum: Historical Records in Ancient China Archived July 6, 2012, at the Wayback Machine.. Supposed Chinese historical terminology appears in the Chinese version of this article, 我国古代的歴史記載 Archived July 6, 2012, at the Wayback Machine.