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駅路寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

駅路寺(えきろじ)は、慶長3年(1598年)に定められた徳島藩の制度。蜂須賀家政は藩内主街道(阿波五街道)に沿った真言宗八ヶ寺に寺領10石を与え、往還する旅人に便宜を図るよう命じた。八ヶ寺は全て山号を駅路山とされ、総称して駅路寺という[1]。これらの寺院は旅人の宿泊のほかに、治安維持、災害時の避難場所などにも利用する事を想定したものとされる。[2]

寺院一覧

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街道 山号 寺院名 所在地 備考
淡路街道 豊山 長谷寺 鳴門市撫養町木津 新四国曼荼羅霊場第二番札所
川北街道 駅路山 瑞運寺 板野郡上板町引野 後に四国八十八箇所第六番札所の安楽寺に併合
伊予街道 寶生山 福生寺 吉野川市山川町川田
伊予街道 中本寺駅路山 長善寺 三好市東みよし町中庄 阿波西国三十三観音霊場(西部)11番札所
伊予街道 宝珠山 青色寺 三好市池田町佐野 指定時は駅路山往還寺。
阿波西国三十三観音霊場(西部)20番札所
土佐街道 駅路山 梅谷寺 阿南市桑野町鳥居前
土佐街道 駅路山 打越寺 海部郡美波町山河内
土佐街道 駅路山 円頓寺 海陽町宍喰浦 昭和21年の南海地震により被災し廃寺

脚注

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  1. ^ 衣川仁 2009, p. 95.
  2. ^ 有形文化財古文書 紙本墨書 駅路寺文書”. 鳴門市. 2023年9月2日閲覧。

参考文献

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  • 三好昭一郎「徳島藩駅路寺制の展開 : 領主による寺院利用の一事例」『地方史研究』第253巻、地方史研究協議会、1995年2月、1-18頁、ISSN 05777542 
  • 衣川仁「徳島藩駅路寺制に関する一考察」(PDF)『徳島大学総合科学部人間社会文化研究』第16巻、徳島大学総合科学部人間社会文化研究編集委員会、2009年、95-109頁、ISSN 09199411