馮唐
馮 唐(ふう とう、生没年不詳)は、前漢の人。先祖は戦国時代に韓支配下の上党で郡守に任じられ、秦に圧迫された上党の地を趙に献上して華陽君となった馮亭だが、長平の戦いで馮亭戦死後にその宗族は別れ、祖父の代は趙の人だったが、父の時に代に移住して代国の相となり、漢の時代になり安陵に移った[1][2]。
略歴
[編集]馮唐は孝行で知られ、文帝の時に郎中署長となった。あるとき文帝は彼に「貴方はどうして郎となったのか?家はどこにある?」と尋ねたので、馮唐はありのまま答えた。文帝は「私は鉅鹿で戦った趙将李斉(李牧の弟とされる[3])の賢明さを聞いて以来、鉅鹿のことを思わない日は無い。貴方は彼を知っているか?」と聞いた。馮唐は「李斉は廉頗・李牧には敵いません」と言った。文帝は「廉頗や李牧を将にできれば匈奴を怖れることもないのだが」と嘆息したが、馮唐は「陛下が廉頗や李牧を得たとしても用いることはできないでしょう」と言ったため、文帝は怒って禁中に入っていった。しばらくして文帝は馮唐を召し出し、「どうして公衆の面前で私を辱めず、人のいないところで言わないのだ?」と叱責した。馮唐は「私は田舎者で隠すことを知らなかったのです」と答えた[4]。
文帝は馮唐に「貴方はどうして廉頗や李牧を得たとしても用いることはできないと言ったのだ?」と聞いた。馮唐は「古の王は将を派遣する際には、軍の功績や恩賞は国の外で決められ、帰ってから報告したと聞きます。李牧も恩賞を外で決め、国内からそれを覆すことはしませんでした。だから李牧は匈奴を追い払い秦を抑えることができたのです。私が聞くところでは、雲中郡守をしていた魏尚は私費まで出して士卒に振る舞い、このお陰で匈奴も雲中を避け、匈奴が侵入した時には魏尚が迎撃して多くの敵を殺しました。そもそも兵士は農地を離れて従軍しているのですから、どうして法令を知っているでしょう。力戦して首級を挙げたところで、功績を幕府に報告すると、見合う恩賞は与えられず、役人が法でがんじがらめにするという状態です。思うに陛下は法には大変明るいのですが、賞は大変軽く、罰は大変重くなっています。また魏尚は報告した首級の数が6つ合わないというだけで罪となり、爵位は削られ刑徒となっています。そうしたところから、陛下は廉頗や李牧を得たとしても用いることはできないと言ったのです」と答えた[5]。
文帝はその日のうちに馮唐に節を持たせて使者とし、魏尚を赦免して雲中郡守に再び任命した。それから馮唐を車騎都尉に任命し、中尉と郡国の戦車兵を仕切らせた[6]。
10年後、景帝の時代になり、景帝は馮唐を楚国相とした。また武帝が即位し、賢良を求めた際に90歳を超えていた馮唐が推挙された。馮唐は老年で行けなかったので子の馮遂を郎に任命した[7]。
後世の逸話
[編集]樊建が給事中であったとき、司馬炎が諸葛亮の治政について質問したところ、樊建は、「自分の悪い点を知らされれば必ず改めて、過ちを強引に押し通すことはせず、賞罰の間違いのなさは、神明を感動させるに足るほどでした」と答えた。司馬炎が「立派だ。わしがこの人(諸葛亮)を手に入れて自分の補佐役にしていたならば、今日の苦労はなかったであろう」と言うと、樊建は、額を地に着けてお辞儀をし、「臣(わたくし)が密かに天下の噂を聞きますに、みな鄧艾が無実の罪を着せられていると申しております。陛下はご存じでありながら処理なされません。これこそ馮唐が言った『廉頗・李牧を手に入れても起用できない』という言葉に当たらないでしょうか」と言った。司馬炎は笑って、「わしはこのことをはっきりさせようと思っていたところだ。君の言葉は、わしの気持ちを呼び覚ましてくれた」と言った。かくて、詔勅を発して鄧艾の無実をはっきりさせた[8]。
参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ 漢書 卷七十九 馮奉世傳 第四十九 (中国語), 漢書/卷079, ウィキソースより閲覧。 - 馮奉世字子明,上黨潞人也,徙杜陵。其先馮亭,為韓上黨守。秦攻上黨,絕太行道,韓不能守,馮亭乃入上黨城守於趙。趙封馮亭為華陽君,與趙將括距秦,戰死於長平。宗族由是分散,或留潞,或在趙。在趙者為官帥將,官帥將子為代相。及秦滅六國,而馮亭之後馮毋擇、馮去疾、馮劫皆為秦將相焉。 漢興,文帝時馮唐顯名,即代相子也。
- ^ 漢書 卷五十 張馮汲鄭傳 第二十 (中国語), 漢書/卷050#馮唐, ウィキソースより閲覧。 - 馮唐,祖父趙人也。父徙代。漢興徙安陵。
- ^ 『新唐書』宰相世系表 2上(巻72上) 趙郡李氏
- ^ 漢書 卷五十 張馮汲鄭傳 第二十 (中国語), 漢書/卷050#馮唐, ウィキソースより閲覧。 - 為郎中署長,事文帝。帝輦過,問唐曰:「父老何自為郎?家安在?」具以實言。文帝曰:「吾居代時,吾尚食監高祛數為我言趙將李齊之賢,戰於鉅鹿下。吾每飲食,意未嘗不在鉅鹿也。父老知之乎?」唐對曰:「齊尚不如廉頗、李牧之為將也。」上曰:「何已?」唐曰:「臣大父在趙時,為官帥將,善李牧。臣父故為代相,善李齊,知其為人也。」上既聞廉頗、李牧為人,良說,乃拊髀曰:「嗟乎!吾獨不得廉頗、李牧為將,豈憂匈奴哉!」唐曰:「主臣!陛下雖有廉頗、李牧,不能用也。」上怒,起入禁中。良久,召唐讓曰:「公眾辱我,獨亡間處虖?」唐謝曰:「鄙人不知忌諱。」
- ^ 漢書 卷五十 張馮汲鄭傳 第二十 (中国語), 漢書/卷050#馮唐, ウィキソースより閲覧。 - 當是時,匈奴新大入朝那,殺北地都尉卬。上以胡寇為意,乃卒復問唐曰:「公何以言吾不能用頗、牧也?」唐對曰:「臣聞上古王者遣將也,跪而推轂,曰:『闑以內寡人制之,闑以外將軍制之;軍功爵賞,皆決於外,歸而奏之。』此非空言也。臣大父言李牧之為趙將居邊,軍市之租皆自用饗士,賞賜決於外,不從中覆也。委任而責成功,故李牧乃得盡其知能,選車千三百乘,彀騎萬三千匹,百金之士十萬,是以北逐單于,破東胡,滅澹林,西抑彊秦,南支韓、魏。當是時,趙幾伯。後會趙王遷立,其母倡也,用郭開讒,而誅李牧,令顏聚代之。是以為秦所滅。今臣竊聞魏尚為雲中守,軍市租盡以給士卒,出私養錢,五日壹殺牛,以饗賓客軍吏舍人,是以匈奴遠避,不近雲中之塞。虜嘗一入,尚帥車騎擊之,所殺甚眾。夫士卒盡家人子,起田中從軍,安知尺籍伍符?終日力戰,斬首捕虜,上功莫府,一言不相應,文吏以法繩之。其賞不行,吏奉法必用。愚以為陛下法太明,賞太輕,罰太重。且雲中守尚坐上功首虜差六級,陛下下之吏,削其爵,罰作之。繇此言之,陛下雖得李牧,不能用也。臣誠愚,觸忌諱,死罪!」文帝說。
- ^ 漢書 卷五十 張馮汲鄭傳 第二十 (中国語), 漢書/卷050#馮唐, ウィキソースより閲覧。 - 是日,令唐持節赦魏尚,復以為雲中守,而拜唐為車騎都尉,主中尉及郡國車士。
- ^ 漢書 卷五十 張馮汲鄭傳 第二十 (中国語), 漢書/卷050#馮唐, ウィキソースより閲覧。 - 十年,景帝立,以唐為楚相。武帝即位,求賢良,舉唐。唐時年九十餘,不能為官,乃以子遂為郎。遂字王孫,亦奇士。魏尚,槐里人也。
- ^ 漢晉春秋 (中国語), 漢晉春秋#卷03, ウィキソースより閲覧。 - 泰始九年,理鄧艾,以其孫朗為郎中。時樊建為給事中,晉武帝問諸葛亮之治國,建對曰:「聞惡必改,而不矜過,賞罰之信,足感神明。」帝曰:「善哉!使我得此人以自輔,豈有今日之勞乎!」建稽首曰:「臣竊聞天下之論,皆謂鄧艾見枉,陛下知而不理,此豈馮唐之所謂雖得頗、牧而不能用者乎?」帝笑曰:「吾方欲明之,卿言起我意。」於是發詔治艾焉。