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馬渡 (ひたちなか市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 茨城県 > ひたちなか市 > 馬渡 (ひたちなか市)
馬渡
馬渡の位置(茨城県内)
馬渡
馬渡
馬渡の位置
北緯36度23分53.22秒 東経140度33分49.85秒 / 北緯36.3981167度 東経140.5638472度 / 36.3981167; 140.5638472
日本の旗 日本
都道府県 茨城県
市町村 ひたちなか市
人口
2024年(令和6年)6月30日現在)[1]
 • 合計 8,391人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
312-0012[2]
市外局番 029[3]
ナンバープレート 水戸

馬渡(まわたり)は、茨城県ひたちなか市大字郵便番号は 312-0012[2]

概要

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国営ひたち海浜公園、国指定史跡馬渡埴輪製作遺跡(5世紀末〜6世紀)がある[4]本郷川上流域に位置し、干しいも(乾燥芋)の畑が多く存在する。

地名は源義家が奥州遠征の途中馬を引き連れて川を渡ったことに由来するという伝承がある[5][6]。鎌倉時代に見える地名。常陸国吉田郷のうち。文禄3年太閤検地を機に那珂郡に属した。1889年明治22年)から1954年昭和29年)までは、前渡村の大字であった。

馬渡は、もと川が二又に流れていたので、二又という地名だったが、八幡太郎義家が奥州征伐のとき数十頭の軍馬を引き連れてこの川を渡ったので、馬渡というようになった。軍馬が馬を洗ったところを「馬洗い」という。また「馬洗所」が「マアレド」となまり、「マワタリ」になったといわれている。--勝田市史編さん委員会(編)1987年 『勝田市史 民俗編 p745』

歴史

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  • 1595年(文禄4年) - 佐竹氏一族の佐竹義久知行地となる[7]
  • 1624年 - 1645年(寛永後期) - 馬渡郷を本郷と改め、青塚村とニ亦村を合併して馬渡村と改称する[7]
  • 1740年(元文5年) - 戸数209、人口976人、馬116頭とある[7]
  • 1889年(明治22年) - 市町村制施行により、足崎村と長砂村と合併し、前渡村となる[8]

世帯数と人口

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2024年(令和6年)6月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数 人口
馬渡 3,523世帯 8,391人

道路

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学校

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寺社

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  • 酒列神社 - 馬渡は、本郷・下宿・ 中宿・上宿で構成され、酒列神社を鎮守の神としている。本郷は古くからあった部落で、俗に馬渡本郷とか本馬渡と呼ばれていて、沢田の海岸からの移住者とは歴史的な背景の格差があったことを暗示している。鎮守の祭りも本郷の人々が参加しない限り、宿だけでは執行できなかった。これは、宿の人々が後から移住したからであると考える[9]

参考文献

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  • 角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店、1983年、885頁。ISBN 4-040-01080-9 
  • 『日本歴史地名大系 第8巻 茨城県の地名 (オンデマンド版)』平凡社、2002年6月30日。ISBN 4-582-91027-0 

脚注

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  1. ^ a b ひたちなか市の人口と世帯数(常住人口)”. ひたちなか市 (2024年6月30日). 2024年7月15日閲覧。
  2. ^ a b 日本郵便 - 馬渡の郵便番号
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
  4. ^ 講談社. “日本の地名がわかる事典”. 〔茨城県〕馬渡. 朝日新聞社コトバンク). 2017年3月19日閲覧。
  5. ^ 勝田市史編さん委員会 編, 1987年, 『勝田市史 民俗編』p745
  6. ^ 勝田市史編さん委員会 編, 1974年, 『勝田の昔話と伝説』”. 2018年3月25日閲覧。
  7. ^ a b c 平凡社(2002)、p.209
  8. ^ 平凡社(2002)、p.867
  9. ^ “教えて!!かたりべさん” (PDF). ひたちなか商工会議所報 No. 165: p. 6/10. (2017-12-10). http://www.hcci.jp/pdf/kaihou1712.pdf 2018年1月4日閲覧。. 

外部リンク

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