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順天巡撫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

順天巡撫 (仮名:じゅんてん じゅんぶ, 拼音:Shùntiān xúnfǔ) は、前期から初期にかけて存在した巡撫。明代における正式名称は「巡撫順天等府地方兼整飭薊州等處邊備」[1]

明代

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正統以降は都御史 (都察院の官職名) が巡撫を兼任する傾向が強く、「巡撫都御史」として財務・民政・監察という基本的な職務に加え、軍糧管理を中心とした軍務も担っていた。軍務については巡撫都御史の外にも、提督軍務、参賛軍務、賛理軍務、協賛軍務、鎮守といった各都御史が派遣されてきたが、英宗正統帝がオイラット軍に拘束された土木の変を境に、軍務を主務とする都御史、中でも提督軍務都御史と巡撫との併合が進むようになり、巡撫は強力な軍事的権限を握るようになっていた[2]

英宗が再び践祚すると (天順帝)、天順初期に巡撫が革去 (廃止) され、後に復活するも軍事権限は取り払われたが、成化以降、巡撫は再び軍事権限を掌握するようになる[2]。成化2年 (1466) には順天に賛理軍務都御史[注 1]が初めて設置され巡撫を兼任し、順天永平の二府、後には河間真定保定を加えた五府、成化7年 (1471) には更に順徳広平大名の三府を加えた八府を管轄した[1]

成化8年 (1472)、広大な畿輔 (近畿) の土地を分轄するため、居庸関を中心に東西で二分割し、東に新・順天巡撫、西に保定巡撫がそれぞれ設置された。順天巡撫は順天・永平の二府を管轄し、定員一名が遵化県 (現河北省唐山市遵化市) に駐在した。崇禎2年 (1629)、永平巡撫が分設され、山海軍務提督を兼務させたことで、順天巡撫の管轄区域は順天一府のみとなった[1]

清代

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清朝の北京入城 (明清交替) 後、順治帝直隷省に宣大総督と順天・保定・宣府の三巡撫を設置した。清代の順天巡撫は、明代同様に定員一名が遵化に駐在し、管轄区域は明代の永平巡撫を併合して順天永平の二府とした。

直隷においては直隷山東河南総督と順天・保定の統廃合が行われた。順治8年 (1651)、宣府巡撫が宣大総督に統合されて廃止された。[注 2]同13年 (1656)、宣大総督が順天巡撫に統合されて廃止された。[注 3][4]同18年 (1661) 旧暦10月には、直隷省に直隷総督が設置され、保定巡撫に統合される形で順天巡撫は廃止された[5]

任職者 着任年 解任年
1 宋權 順治1年 (1644) 順治3年 (1646)[6]
2 柳寅東 順治3年 (1646)[7] 順治4年 (1647)[8]
3 耿焞 順治4年 (1647)[9] 順治5年 (1648)[10]
4 楊興國 順治5年 (1648)[11] 順治9年 (1652)[12]
5 王來用 順治9年 (1652)[13] 順治10年 (1653)[14]
6 祖重光 順治15年 (1658)[15] 順治18年 (1661)
7 韓世琦 順治18年 (1661)[16] 順治18年 (1661)[17]

脚註

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註釈

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  1. ^ 参考:「賛理」は助処で、「賛」も「助」もともに「たすける」の意。
  2. ^ 参考:『世祖章皇帝實錄』巻64 (順治9年4月6日段5347) には「宣府巡撫宜裁以總督兼理」とある[3]
  3. ^ 参考:『世祖章皇帝實錄』巻119 (順治15年7月4日段7157) には「己亥裁宣大總督」とあるが、巻101 (順治13年閏5月30日段6542) に「丁丑宣大總督張懸錫陛辭」とあり、これ以降同職位は空きのままになっていた。

典拠

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  1. ^ a b c “職官二 (都察院 附總督 巡撫)”. 明史. 73. https://zh.wikisource.org/wiki/明史/卷73#都察院_附總督_巡撫 
  2. ^ a b おわりに. “明代巡撫制度の變遷”. 東洋史研究: 77-78. 
  3. ^ “順治9年4月6日段5347”. 世祖章皇帝實錄. 64 
  4. ^ “職官三 (總督)”. 清史稿. 116. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷116#總督 
  5. ^ “順治18年10月15日段8225”. 聖祖仁皇帝實錄. 5 
  6. ^ “順治3年1月20日段3805”. 世祖章皇帝實錄. 23. -. "擢順天巡撫・宋權、爲內翰林國史院大學士。" 
  7. ^ “順治3年2月11日段3824”. 世祖章皇帝實錄. 24. -. "陞太僕寺少卿・柳寅東、爲都察院右僉都御史、巡撫順天贊理軍務。" 
  8. ^ “順治4年3月13日段4099”. 世祖章皇帝實錄. 31. -. "甲寅。初、兵部侍郎・李元鼎、薦其門下人・倪先任、於順天巡撫・柳寅東。寅東收用、給以牌劄。尋、馬賊・劉傑等被獲、稱先任亦其同黨。事聞、下刑部議、擬元鼎棄市、寅東革職杖責。得旨「免元鼎死、及寅東杖責、俱革職。」" 
  9. ^ “順治4年3月18日段4103”. 世祖章皇帝實錄. 31. -. "以……江西巡撫・耿焞、爲都察院右僉都御史、巡撫順天等處。" 
  10. ^ “順治5年3月26日段4381”. 世祖章皇帝實錄. 37. -. "陞順天巡撫・耿焞、爲兵部右侍郎、兼都察院右僉都御史、總督宣大山西、兼理糧餉。" 
  11. ^ “順治5年4月2日段4387”. 世祖章皇帝實錄. 38. -. "丁卯。陞光祿寺卿・楊興國、爲都察院右副都御史、巡撫順天、贊理軍務。" 
  12. ^ “順治9年9月3日段5455”. 世祖章皇帝實錄. 68. -. "順天巡撫兵部右侍郎・楊興國、引疾請假。允之。" 
  13. ^ “順治9年9月15日段5464”. 世祖章皇帝實錄. 68. -. "以……原任總督陝西糧餉戶部右侍郎・王來用、爲兵部右侍郎、兼都察院右副都御史、巡撫順天等處地方、贊理軍務。" 
  14. ^ “順治11年8月21日段6009”. 世祖章皇帝實錄. 85. -. "戊寅。降順天巡撫・王來用一級、調用。以其咨奏稽遲也。" 
  15. ^ “順治15年10月19日段7242”. 世祖章皇帝實錄. 121. -. "陞山西右布政使・祖重光、爲都察院右副都御史、巡撫順天、提督軍務。" 
  16. ^ “順治18年6月3日段8110”. 聖祖仁皇帝實錄. 3. -. "以宗人府啓心郎・韓世琦、爲順天巡撫。" 
  17. ^ “順治18年10月15日段8225”. 聖祖仁皇帝實錄. 5. -. "吏部題「直隸已設總督。其順天・保定、兩巡撫、應裁去一員。」得旨「順天巡撫、著裁去。韓世琦、調江寧巡撫。其順天等處地方、著保定巡撫・王登聯兼管。」" 

典拠

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史書

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論文

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  • 奥山憲夫「明代巡撫制度の變遷」『東洋史研究』第45巻第2号、東洋史研究會、1986年9月、241-266頁、CRID 1390290699810890880doi:10.14989/154151hdl:2433/154151ISSN 0386-9059 

Web

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