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保定巡撫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

保定巡撫 (仮名:ホテイ ジュンブ, 拼音:Bǎodìng xúnfǔ) は、代から初にかけて存在した巡撫。明代における正式名称は「巡撫保定等府提督紫荊等關兼管河道」。[1]

成化8年 (1472) に居庸関以西を分離させる形で設置され、保定真定河間順徳大名広平、以上六における巡撫と、紫荊 (現易県)、倒馬 (現唐県)、龍泉 (現阜平県)、以上三関における提督を兼任した。真定に駐在し、定員一名。万暦7年 (1579) には河道の管理を兼務した。[1]

清朝の北京入城 (明清交替) 後、順治帝は宣大総督と順天・保定・宣府の三巡撫を設置した。保定巡撫は真定に駐在し、定員一名と定められた。その後、順治8年 (1651) に宣府巡撫が宣大総督に統合、[注 1]同13年 (1656) に宣大総督が順天巡撫に統合、[注 2][3]さらに同18年 (1661) に順天巡撫が保定巡撫に統合され、[4]そして康熙初頭に直隷巡撫に統合する形で保定巡撫は廃止された。

任職者 (清)

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着任年 解任年 任職者
1 順治1(1644)[5] 順治2(1645)[6][7][8] 王文奎 (沈文奎[9])
2 順治2(1645)[6][7][10] 順治3(1646)[11][12] 郝晉
3 順治3(1646)[13] 順治6(1649)[14][15] 于清廉
4 順治15(1658)[16] 順治17(1660)[17] 潘朝選
5 順治17(1660)[18] 順治17(1660)[19] 劉祚遠
6 順治17(1660)[20] 順治18(1661)[21] 王登聯

*上表は中央研究院歷史語言研究所が運営するWebサイト「清代職官資料庫」(保定巡撫) を基に作成した。『清實錄』以外の出典は全て同サイトに拠る。

脚註

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註釈

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  1. ^ 参考:『世祖章皇帝實錄』巻64 (順治9年4月6日段5347) には「宣府巡撫宜裁以總督兼理」とある。[2]
  2. ^ 参考:『世祖章皇帝實錄』巻119 (順治15年7月4日段7157) には「己亥裁宣大總督」とあるが、巻101 (順治13年閏5月30日段6542) に「丁丑宣大總督張懸錫陛辭」とあり、これ以降同職位は空きのままになっていた。

典拠

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  1. ^ a b “職官二 (都察院 附總督 巡撫)”. 明史. 73. https://zh.wikisource.org/wiki/明史/卷73#都察院_附總督_巡撫 
  2. ^ “順治9年4月6日段5347”. 世祖章皇帝實錄. 64 
  3. ^ “職官三 (總督)”. 清史稿. 116. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷116#總督 
  4. ^ “順治18年10月15日段8225”. 聖祖仁皇帝實錄. 5 
  5. ^ “順治1年7月27日段3347”. 世祖章皇帝實錄. 6. "以內弘文院學士・王文奎、爲都察院右副都御史、巡撫保定等處地方。……" 
  6. ^ a b “順治2年4月9日段3560”. 世祖章皇帝實錄. 15. "辛酉。陞保定巡撫王文奎、爲兵部右侍郎、兼都察院右副都御史、總督陝西三邊軍務。……刑部左侍郎・郝晉、爲兵部右侍郎、兼都察院右僉都御史、巡撫保定。" 
  7. ^ a b “順治2年4月22日段3569”. 世祖章皇帝實錄. 15. "……其保定巡撫王文奎 仍留原任。郝晉候另用。" 
  8. ^ “順治2年5月9日段3584”. 世祖章皇帝實錄. 16. "以保定巡撫・王文奎、爲兵部右侍郎、兼都察院右副都御史、總督淮揚等處、提督漕運海防軍務、兼理糧餉。……" 
  9. ^ “列傳26 (沈文奎)”. 清史稿. 239. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷239#沈文奎 
  10. ^ “順治2年5月16日段3590”. 世祖章皇帝實錄. 16. -. "以刑部左侍郎・郝晉、仍爲兵部右侍郎、兼都察院右副都御史、巡撫保定等府、提督紫荊等關、兼理海防軍務。" 
  11. ^ “順治3年11月9日段4016”. 世祖章皇帝實錄. 29. "保定巡撫・郝晉……承旨審鞫叛逆大案、游移參差、不能執法……降二級調用。" 
  12. ^ “順治4年3月7日段4094”. 世祖章皇帝實錄. 31. "降補保定巡撫・郝晉、爲山西按察使司副使、懷來道。……" 
  13. ^ “順治3年12月14日段4033”. 世祖章皇帝實錄. 29. "丙戌。陞直隸保定兵備道僉事・于清廉、爲都察院右僉都御史、巡撫保定等府、提督紫荊等關。……" 
  14. ^ 清史稿校註. 208. pp. 6567-6571 
  15. ^ “順治7年7月5日段4915”. 世祖章皇帝實錄. 49. "丙辰。降原任保定巡撫・于清廉……一級、調用。以失糾貪穢道臣・高登庸故也。" 
  16. ^ “順治15年7月14日段7164”. 世祖章皇帝實錄. 119. "以禮部右侍郎・潘朝選、爲兵部左侍郎、兼都察院右副都御史、巡撫保定、提督軍務。……" 
  17. ^ “順治17年3月19日段7685”. 世祖章皇帝實錄. 133. "吏部・都察院遵旨、甄別督撫、開列職名、具奏得旨「……潘朝選、著以原官解任回京。……」" 
  18. ^ “順治17年4月12日段7706”. 世祖章皇帝實錄. 134. "丙申。諭吏部「畿南重地、巡撫務在得人。劉祚遠、前典試陝西、摘發姦弊、才堪任用、著陞都察院右副都御史、巡撫保定・真・順・廣・大、五府地方、管轄紫荊等關、提督軍務、兼理糧餉。」" 
  19. ^ “順治17年6月下18日段7767”. 世祖章皇帝實錄. 137. "以原任憲臣・魏裔介參原任大學士・劉正宗、疏內詞連保定巡撫・劉祚遠、命祚遠解任聽勘。" 
  20. ^ “順治17年9月20日段7836”. 世祖章皇帝實錄. 140. "陞大理寺卿・王登聯、爲都察院右副都御史、巡撫保定・真・順・廣・大、五府地方、管轄紫荊等關、提督軍務、兼理糧餉。" 
  21. ^ 國立故宮博物院圖書文獻處清國史館傳稿 

史書

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Web

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