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韋纘

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韋 纘(い さん、466年 - 510年)は、北魏官僚は遵彦[1][2]本貫京兆郡杜陵県[3][4]

経歴

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韋珍の長男として生まれた。13歳で中書学生となり、聡明俊敏で物の道理をわきまえていたため、博士の李彪に称賛された。秘書中散に任じられ、侍御中散に転じた。ときに孝文帝は名だたる沙門と談論を交わしていたが、韋纘はこれを記録して遺漏がなかったことから、帝に賞賛された。散騎侍郎の位を受け、太子中舎人に転じた。そのまま黄門を兼ね、さらに司徒右長史を兼ねた。まもなく長兼尚書左丞に転じた。景明元年(500年)、寿春裴叔業が北魏に帰順し、尚書令王粛揚州刺史として寿春に出向することになった。韋纘は王粛に請われてその長史となり、平遠将軍の号を加えられ、梁郡太守を兼ねた。景明2年(501年)、王肅が死去すると、韋纘は宣武帝の命により揚州の事務を代行した。任城王元澄が王肅に代わって揚州刺史となると、韋纘は引き続き長史をつとめた。正始元年(504年)、韋纘は元澄出征の留守をまもっていたところ、南朝梁の将軍の姜慶真がその虚に乗じて寿春を襲撃し、その外郭を占拠した。まもなく奪回されたが、韋纘は罪に問われて免官された。永平3年(510年)、死去した。享年は45[1][2]

脚注

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  1. ^ a b 魏書 1974, p. 1014.
  2. ^ a b 北史 1974, p. 959.
  3. ^ 魏書 1974, p. 1009.
  4. ^ 北史 1974, p. 955.

伝記資料

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参考文献

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  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4