杜陵県 (陝西省)
中国地名の変遷 | |
建置 | 前65年 |
使用状況 | 北周に廃止 |
秦 | 杜県 |
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前漢 | 杜陵県 |
新 | 饒安県 |
後漢 | 杜陵県 |
三国 | 杜陵県 |
西晋 | 杜城県 |
東晋十六国 | 杜城県 |
南北朝 | 杜県 万年県に合併 |
杜陵県(とりょう-けん)は、紀元前65年から紀元3、4世紀頃まで中国にあった県である。前漢の都長安の南東郊外にあり、これは現在の陝西省西安市雁塔区三兆邑西北にあたる[1]。前身は秦の杜県。前漢のとき宣帝の陵墓杜陵を築くことになり、杜陵県に改称した。新代の一時期饒安県と改称したがすぐに戻され、晋代には杜城県と改称した。北魏のときまた杜県と改称し、北周のとき廃止になった。
歴史
[編集]もと杜伯国があった地で[2]、秦の武公の11年(前687年)に杜県が置かれた[3]。
前漢の宣帝は、幼いころ祖父と父が謀反の罪で殺され、皇族の身分ではあったが庶民同然に育てられた。青年期の宣帝は遊侠を好んで長安近郊を動き回っていたが、たいていは杜県の下杜にいた[4]。即位した宣帝は、元康元年(前65年)に杜県に自らの陵墓(杜陵)を造ることに決め、杜陵県と改名させた[5]。宣帝は杜陵を充実させるため、丞相、将軍、列侯、吏二千石、百万銭の資産を持つ富豪を、杜陵に移した[5]。宣帝は黄龍元年(前48年)12月に死に[6]、翌初元元年(前48年)1月に杜陵に葬られた[7]。京兆尹に属した。前漢の時代に杜陵には樊嘉という富豪がいた[8]。
新のとき、天鳳2年(15年)4月の郡の再編で京兆尹はなくなり、杜陵県は光尉郡に属した[9]。年は不明だが饒安県と改称した[2]。
新滅亡後の戦乱で、建武2年(26年)9月、群雄の一人延岑と、逄安が率いる赤眉軍が杜陵で戦い、赤眉軍が大敗した[10]。
後漢では新による組織・名称改変は戻され、京兆尹のもとに杜陵県が置かれた。
晋代に杜陵県は京兆郡の下に置かれた[11]。京兆郡は京兆尹を改めたものである。後の地誌によれば、晋の時代に杜城県と改められ、北魏のときふたたび杜県と名を変え、北周のとき万年県に併合された[12]。
行政長官
[編集]脚注
[編集]- ^ 陳力「漢の長安城周辺の集落」11頁。
- ^ a b 『漢書』地理志第8下。ちくま学芸文庫『漢書』3、277頁。
- ^ 『史記』秦本紀第5。新釈漢文大系『史記』1(本紀1)、243 - 244頁。
- ^ 『漢書』宣帝紀第8。ちくま学芸文庫『漢書』1、234頁。
- ^ a b 『漢書』宣帝紀第8。ちくま学芸文庫『漢書』1、247頁。
- ^ 『漢書』宣帝紀第9。ちくま学芸文庫『漢書』1、264頁。
- ^ 『漢書』元帝紀第9。ちくま学芸文庫『漢書』1、274頁。
- ^ 『漢書』貨殖伝第61。筑摩学芸文庫『漢書』7、472頁。
- ^ 『漢書』王莽伝第69中、天鳳2年4月条。ちくま学芸文庫『漢書』391頁。光尉郡に属したことは、『漢書』顔師古注に引く『三輔黄図』による。今伝わる『三輔黄図』巻之一、三輔治所。『三輔黄図校証』5頁。『三輔黄図校釈』13頁。にも同文がある。
- ^ 『後漢書』劉玄劉盆子列伝第1。
- ^ 『晋書』巻14志4地理上、雍州、京兆郡。
- ^ 『読史方輿紀要』巻53、杜陵城。中文出版社版、四の2310頁。
- ^ 『漢書』傅常鄭甘陳段伝第40。ちくま学芸文庫『漢書』6、234。『漢書』には竟寧中とあるが、竟寧は元年しかない。
参考文献
[編集]- 司馬遷『史記』。吉田賢抗『史記』1(本紀1)(新釈漢文体系)、明治書院、1973年。
- 班固『漢書』。小竹武夫訳注『漢書』1 - 8、筑摩書店(ちくま学芸文庫)、1998年。
- 范曄『後漢書』。
- 作者不明『三輔黄図』。陳直『三輔黄図校証』、陝西出版社、1980年。何清谷『三輔黄図校釈』、中華書局、2005年。
- 顧祖禹『読史方輿紀要』。中文出版社、1981年。原著は明清代。
- 陳力「漢の長安城周辺の集落」、『阪南論集』(人文・自然科学編)、第38巻1号、2002年10月。
- 中央研究院「漢籍全文資料庫」、2017年6月閲覧。
関連項目
[編集]- 杜陵県 (広東省) - 同名の県