靫負部
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靫負部(ゆげいべ)とは、大化改新以前に朝廷を守護した職業部(品部)。国造の子弟を貢上させて組織したもので、王族に近侍し、親衛軍として奉仕したものである。靫部とも表記される。
概要
[編集]「靫負」とは「ユキオヒ」で、矢を入れる道具である靫を背負うものを指す。舎人部(とねりべ)とともに、ヤマト王権の親衛軍の中核を構成していたと推定され、丹比靫負部(反正天皇)・刑部靫部(おさかべのゆげいべ)(忍坂大中姫)、白髪部靫負(しらかべのゆげい)(清寧天皇)、勾靫部(まがりのゆげいべ)(安閑天皇)などが見られ、天皇や皇后の名を負う名代(なしろ)として組織されている。
ただし、このような組織は、大和王権特有のものではなく、水野正好によると、関東地方の6世紀の古墳の人物埴輪群から、馬を牽く人物は馬飼部、甲冑を帯び、靫などを負う武人群は靫負部に相当する、と述べている[1]。
舎人・膳夫(かしわで)などとともに、国造の子弟よりなる靫負と、それを資養するために置された名代・子代を、大伴氏が統率する官司制的な組織とみられている。その関係性については、天孫降臨神話や大化改新の際の大伴長徳などのほかに、『日本書紀』巻第七には、日本武尊が甲斐国酒折宮にて、「靫部」を大伴氏の祖先である武日に与えたというエピソードが記されている[2]。大伴氏と靫負との関係については、『新撰姓氏録』「左京神別」大伴宿禰の項目や、『令集解』所収の職員令に引用される弘仁2年11月28日官符にも記載されている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『別冊歴史読本特別増刊 古代王朝血の争乱』より「古代国家と古代軍制」から「大化前代の軍制」文:高橋崇、新人物往来社、1992年
- 『角川第二版日本史辞典』p972、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966年
- 『岩波日本史辞典』p1161、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
- 『日本の古代6 王権をめぐる戦い』、岸俊男:編、中公文庫、1996年より、「2.大王による国土の統一」の中の「部民制の展開」文:鎌田元一
- 『日本書紀』(二)、岩波文庫、1994年