青梅神社
青梅神社 | |
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所在地 | 群馬県館林市本町2丁目 |
位置 | 北緯36度14分47.19秒 東経139度31分56.86秒 / 北緯36.2464417度 東経139.5324611度座標: 北緯36度14分47.19秒 東経139度31分56.86秒 / 北緯36.2464417度 東経139.5324611度 |
主祭神 | 菅原道眞、素盞嗚命、猿田彦神[1] |
社格等 | 無格社 |
創建 | 赤井照光城主時代(1471年〜1562年)[2] |
本殿の様式 | 春日造柿葺[3] |
例祭 | 10月17日[4] |
地図 |
青梅神社(あおうめじんじゃ)は、群馬県館林市本町2丁目にある神社。青梅神社の名は『旧館林町神社明細帳』により、宗教法人名もそのようになっているが、『邑楽郡誌』には青梅天満宮と記されているほか、青梅天神とも呼ばれる[1][3]。
由緒
[編集]縁起によると、菅原道眞が太宰府に左遷された際、楊枝の先に梅の実を刺して東西南北にそれぞれ1個ずつ投げた[2][1]。最初に北へ投げたのが、出雲国に落ち花久理梅[注釈 1]となり、続いて南は讃岐国に落ち花さく梅[注釈 2]となった[2][7]。西は筑前国太宰府の飛梅となり、東は上野国館林に飛び当青梅天神になったとされる[2][8]。この4社を日本四社と呼び、そのうちのひとつとされる[2][1]。
歴史
[編集]一説によると、館林城下に鎮座する前、のちに館林に城を築く赤井氏が青柳城を拠点としていた頃、城下に天神祠があり、それが青梅神社の前身であったとも伝えられている[8]。
館林城下には赤井照光が城中鎮護のため勧請したとされ、『館林代々城主聞書』には「谷越町[注釈 3]天神の宮は追手門の外の南方に有之候処文禄四(1595年)乙未年今の所へ移す」とあることより、元々は現在の三角公園南西付近にあったと見られている[2][8][3]。それを榊原康政時代の文禄4年(1595年)、修理を加えつつ谷越町に移したと伝えられる[2][8][3]。その後慶長16年(1611年)にも再度修理が加えられた[8][3]。しかし社地があまりにも手狭であったため、寛永18年(1641年)春、榊原忠次の代になって、家臣の加藤甚内にを奉行として、隣地であった三宅新左衛門の屋敷を収用し、境内を広げ社殿を改築した[8][3]。以後町内が営繕を担当したとされる[3]。
江戸時代以前は当社は千眼寺末の宝幢寺境内に鎮座しており、同寺の管理下にあり別当も住職が務めていた[8]。現在でも幣殿の庇下に庚申塔が数基あり、当時の名残を示している[8]。
1910年(明治43年)10月25日[注釈 4]、北隣にあった八坂神社を合祀した[8][3]。この八坂神社も当社と同様、江戸時代中は遍照寺末の円蔵院境内にあり、当時は牛頭天王社と呼ばれていた[8]。
祭神
[編集]境内
[編集]境内地364.83坪(1206㎡)[4]。
社殿
[編集]- 本殿
- 間口3尺2寸(122cm)、奥行5尺6寸(213cm)、春日造柿葺[3]。
- 寛永18年(1641年)再建[3]。
- 幣殿
- 間口1間3尺(342cm)、奥行2間(456cm)、切妻造瓦葺[9]。
- 拝殿
- 間口3間4尺3寸(847cm)、奥行2間3尺(570cm)、入母屋造瓦葺[10]。
- 寛永8年(1631年)築、文久2年(1862年)改修[2][10]。
- この拝殿の格天井は、幕末の改修で浮世絵師北尾重光が完成させた[2]。太い木が井桁に組まれ、上に板が張られた造りで、色鮮やかな動植物が77枚描き出されている[2]。
境内末社
[編集]記念碑
[編集]- 天満宮標柱
- 参道の入り口にあり、二段の台石を持ち総高は2.3m程度[10]。表面に「日本四社青梅天満宮」右側に「寛政六年(1794年)甲寅歳九月二十有五日後岡美啓敬書」とある[1][10]。裏面には
と刻まれている[1][10]。所謂四社者
西 筑前国飛梅社
南 讃岐国四季梅社
北 出雲国花久里梅社
東 当青梅社是也
文化財
[編集]- 館林青梅天神略縁起
と記されている[11]。一、抑々当社青梅天神は、日本四社の内東方の一社なり。日本四社と申は、天神筑紫江御下向に付、楊枝のさきに梅の実をさし、東西南北江御なけ候処に、先北方御なけ候は出雲国に根付、はなくり梅と申候て于今有之、南は讃岐国に根付五色の華咲、于今有之、西は筑紫宰府の飛梅、東方は上野国館林常成にて四季共に不絶有之候、依之青梅の天神と号す。往古青柳の城主赤井山城守城中の鎮守として城内に勧請す。天神曲輪と云所于今有之、常成の梅も分け木にて彼地に有之、
一、赤井但馬守殿、享禄元年戊子年狐の告により当所江城を築、縁起別有之、天神曲輪と申伝候。
一、榊原式部大輔殿御代、文禄四乙未町続にて煙焼の難、有之旨当時境内の中江可有遷宮よしにて則造営有之候
一、榊原遠江守殿御持節、慶長十六辛亥年御修覆有之候
一、榊原式部大輔殿、寛永拾八辛巳年、宮地狭有之付、三宅利左衛門と申給人の屋舗宮地に被召上、并町屋二軒半御買添、宮地一所に被仰付、加藤甚内と申仁、為普請奉行、本社并幣殿拝殿玉垣注連鳥居等、一式造営有之候、且又当社大門は先年紺屋町の方に有之処、傍にて参詣の往来不宜□て谷越町の町屋□□□御買上、大通江大門御付替、則表門并裏門共に御取立有之、殊に御信心不浅候て御在城の節は度々御参詣被成候
一、松平和泉守殿御代、正保元甲申年、町奉行西尾清左衛門殿、松原九左衛門殿被仰付、於大谷原松木三百本被下之、為普請奉行、荻野甚五左衛門と申仁に被仰付、御修覆有之候
一、宰相様神田の御殿へ被為成御座候節、寛文十二壬子年為御修覆料、白銀御材木拝領之、殊更御町奉行天野半右衛門殿、山河角之丞殿、御代官星伝左衛門殿江被為仰付唯今の拝殿御建替、大門の大鳥居新規に御取立被下之候
右御代々御城主様御建立被成下之候
右御代々御城主様御建立被成下候処、追々及大破候に付、比度幣殿并拝殿其外とも再建仕度心願に御座候得共、難及自力、御信心之御方は物の多少によらず御寄附被下度、然ル上は御姓名永代神前江印置、御武運長久、子孫繁栄の祈禱可抽丹誠候間何分宜御助成之程、偏奉希候敬白
安政六己未年二月
館林谷越町
菅霊山 宝撞寺
世話人
小林格次郎 伊藤半助 小室吉右衛門
橋田吉兵衛 小林平十郎 伊藤惣右衛門
武蔵屋孫右衛門 穀屋八郎右衛門 米屋栄蔵
木村吉兵衛 三河屋助次郎 釜屋治助
埼玉屋森蔵
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 館林の社寺, p. 34.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 現地案内板
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 館林市誌 歴史編, p. 865.
- ^ a b 館林市誌 歴史編, p. 876.
- ^ a b 出雲国 菅原天満宮.
- ^ a b 本地垂迹資料便覧.
- ^ 館林の社寺, p. 34,35.
- ^ a b c d e f g h i j 館林の社寺, p. 35.
- ^ 館林市誌 歴史編, p. 865,866.
- ^ a b c d e f g 館林市誌 歴史編, p. 866.
- ^ 館林市誌 歴史編, p. 866,867.
参考文献
[編集]- “出雲国 菅原天満宮”. 出雲国 菅原天満宮. 2020年1月2日閲覧。
- “「讃岐国名勝図会」巻之七 中間天満宮”. 本地垂迹資料便覧. 2020年1月2日閲覧。
- 館林市誌編集委員会 編『館林市誌 歴史編』館林市役所、1969年。
- 川島維知 著、館林市立図書館 編『館林双書 15 館林の社寺』館林市立図書館、1986年。
関連項目
[編集]- 館林の牛頭天王信仰 - 当神社に合祀された谷越町の八坂神社に関する項目。