青松敬鎔
2011年、ロッテ浦和球場にて | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府京都市伏見区 |
生年月日 | 1986年12月7日(38歳) |
身長 体重 |
185 cm 83 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手、捕手、三塁手 |
プロ入り | 2004年 ドラフト7巡目 |
初出場 | 2006年9月26日 |
最終出場 | 2015年6月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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青松 敬鎔(あおまつ けいよう、1986年12月7日 - )は、京都府京都市伏見区出身の元プロ野球選手(内野手・捕手)。右投右打。妻はタレントの鷲巣あやの[1]。2015年9月11日から2016年の現役引退までは、青松 慶侑(読み方は本名と同じ)という登録名を用いていた[2]。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]上宮太子高等学校への在学中には、春夏ともに、阪神甲子園球場での全国大会に出場できなかった。2004年のプロ野球ドラフト会議で、捕手として千葉ロッテマリーンズから7位で指名。契約金3000万円、年俸450万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は63。上宮太子高校から直接NPBの球団へ入った選手は、青松が初めてであった。
プロ入り後
[編集]2005年、福岡ダイエーホークス時代に城島健司を指導した古賀英彦二軍ヘッドコーチから「(捕手として)城島を凌ぐセンスの持ち主」と評価されたが、一軍公式戦への出場機会はなかった。
2006年、2月26日に開かれた第1回WBC日本代表との練習試合で一塁を守ると、イースタン・リーグの公式戦では、一塁手として31試合、捕手として16試合に出場した。打率.257、4本塁打という成績を残したことから、9月19日に入団後初の出場選手登録。9月26日の対西武ライオンズ戦(インボイスSEIBUドーム)7回表に代打で一軍デビューを果たしたが、一軍公式戦で初安打を放つまでには至らなかった。シーズン終了後には、9年振りに再開されたハワイ・ウィンターリーグに派遣。息子の応援に来ていたロジャー・クレメンスの球をブルペンで受ける幸運もあった。
2007年、イースタン・リーグ公式戦に、一塁手として26試合、捕手として23試合に出場。しかし、打率が.159にとどまるなど打撃が振るわず、一軍公式戦への出場機会はなかった。
2008年、イースタン・リーグ公式戦では、打率.252、8本塁打と打撃が復調。守備面でも、33試合で捕手、13試合で一塁手、1試合で三塁手に起用されると、いずれのポジションでも失策を記録しなかった。しかし、ロッテ球団と支配下選手契約を結んでいた捕手でただ1人、一軍の公式戦へ出場できなかった。
2009年、イースタン・リーグ公式戦38試合の出場で、打率.244、4本塁打をマーク。前年から若干調子を落とした影響で、一軍昇格の機会はなかった。
2010年、イースタン・リーグ公式戦78試合で、打率.259、8本塁打を記録するなど打撃が復調。シーズン当初は、主に一塁を守っていた。一軍正捕手・里崎智也の背筋痛で他の捕手が二軍から昇格したことや、二軍の正捕手だった金澤岳が故障したことを背景に、シーズン終盤からは二軍の正捕手に定着。チームの同リーグ優勝やファーム日本選手権制覇に貢献したが、5年続けて一軍から遠ざかった。
2011年、イースタン・リーグ公式戦63試合に出場したが、打率は.220で、本塁打を1本も放てなかった。
2012年、イースタン・リーグ公式戦57試合に出場。打率.262、3本塁打を記録した。
2013年、春季キャンプの直前に、登録ポジションを捕手から内野手へ変更[3]。イースタン・リーグ公式戦では、76試合の出場で、打率.292、10本塁打を記録[4]。さらに、サブローが7月31日に故障で離脱したことから、右の代打の切り札として、7年振りに一軍昇格を果たした。翌8月1日の対北海道日本ハムファイターズ戦(QVCマリンフィールド)6回裏に代打で起用されると、適時二塁打を放ったことで一軍初安打・初打点を記録[5][6]。8月3日の対オリックス・バファローズ戦(ほっともっとフィールド神戸)では、「6番・指名打者」として、一軍公式戦で初めてスタメンに起用。3安打を放って、自身初の猛打賞を記録した[4]。シーズン通算では、一軍公式戦9試合に出場。打率.313、長打率.438、3打点という成績を残した。
2014年、3月26日に開かれた北海道日本ハムファイターズとのイースタン・リーグ公式戦で、審判員への侮辱行為によって退場を命じられたため、リーグから厳重注意と制裁金15万円の処分を受けた[7]。同リーグの公式戦全体では、チーム最多の105試合に出場。打率.313、13本塁打という好成績を残したが、一軍公式戦では3試合の出場にとどまった。
2015年、イースタン・リーグ公式戦85試合に出場すると、15本塁打で本塁打王、打率.298で首位打者のタイトルを獲得した。一軍公式戦では、6月6日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)4回表に、石川雅規からの左越ソロ本塁打で一軍初本塁打を記録。
シーズン通算では、プロ入り後最多の13試合へ出場したものの、打率が.150にとどまった。なお、9月11日には、登録名を青松 敬鎔から青松 慶侑へ変更することが発表された[2]。
2016年、イースタン・リーグ公式戦では、チーム最多の115試合に出場。打率.278、13本塁打を記録したが、一軍公式戦への出場機会がないまま、10月1日に球団から戦力外通告を受けた[8]。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示[9]。
NPB他球団での現役続行を希望していたため、11月12日に12球団合同トライアウト(甲子園)へ参加。捕手や一塁の守備に就く一方で、シートバッティング形式の対戦では、5人の投手を相手に5打数2安打1三振という結果を残した[10]。しかし、他球団から獲得のオファーを受けるまでには至らず、この年限りで現役を引退した[11]。
引退後は野球界を離れ、2017年1月よりソニー生命保険で営業として働く。2020年4月、営業所長に昇進。
選手としての特徴
[編集]ロッテでの現役時代には、チームに数少ない長距離打者として、イースタン・リーグで数々の打撃タイトルを獲得。2012年までは捕手として登録されていたが、実際の公式戦では、打力を買われて、内野手や指名打者として出場する機会が多かった。
一軍公式戦での出場試合数が最も多かった2015年には、4番打者でキューバ代表でもあるアルフレド・デスパイネがパンアメリカン競技大会への出場でチームを離れた期間中に、デスパイネの穴を埋める活躍が期待されていた。青松も「(自身の苗字とデスパイネの名前にちなんで)『アオパイネ』になります」と宣言していたが、一軍公式戦での通算本塁打は、この年に放った1本だけだった[11]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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2006 | ロッテ | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | .500 | .000 | .500 |
2013 | 9 | 17 | 16 | 2 | 5 | 2 | 0 | 0 | 7 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | .313 | .353 | .438 | .790 | |
2014 | 3 | 5 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .200 | .200 | .200 | .400 | |
2015 | 13 | 20 | 20 | 2 | 3 | 1 | 0 | 1 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | .150 | .150 | .350 | .500 | |
通算:4年 | 26 | 44 | 42 | 4 | 9 | 3 | 0 | 1 | 15 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 12 | 1 | .214 | .250 | .357 | .607 |
年度別守備成績
[編集]年 度 |
一塁 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | |
2013 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
2014 | 2 | 15 | 1 | 1 | 3 | .941 |
2015 | 12 | 48 | 5 | 0 | 3 | 1.000 |
通算 | 16 | 68 | 6 | 1 | 6 | .987 |
記録
[編集]この選手の記録に関する文献や情報源が必要です。 (2013年8月) |
- 初出場:2006年9月26日、対西武ライオンズ19回戦(インボイスSEIBUドーム)、7回表に大松尚逸の代打として出場
- 初打席:同上、7回表に許銘傑から死球
- 初安打・初打点:2013年8月1日、対北海道日本ハムファイターズ14回戦(QVCマリンフィールド)、6回裏に石井裕也から左適時二塁打[5][6]
- 初先発出場:2013年8月3日、対オリックス・バファローズ13回戦(ほっともっとフィールド神戸)、6番・指名打者として先発出場[4]
- 初本塁打:2015年6月6日、対東京ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、4回表に石川雅規から左越ソロ[12]
背番号
[編集]- 63 (2005年 - 2016年)
登録名
[編集]- 青松 敬鎔 (あおまつ けいよう、2005年 - 2015年9月10日)
- 青松 慶侑 (あおまつ けいよう、2015年9月11日 - 2016年)
登場曲
[編集]- 「Never Say Never」 Justin Bieber
脚注
[編集]- ^ “ロッテ青松が結婚 “一目ぼれ”お相手はタレント・鷲巣あやの”. スポニチ Sponichi Annex. (2014年2月13日) 2015年6月9日閲覧。
- ^ a b “青松選手 登録名変更のお知らせ”. 千葉ロッテマリーンズオフィシャルサイト. (2015年9月11日) 2015年9月22日閲覧。
- ^ “大松選手・青松選手 ポジション登録の変更について”. 千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト (2013年1月23日). 2015年6月9日閲覧。
- ^ a b c “ロッテ青松 プロ9年目初猛打賞 伊東監督”. スポニチ Sponichi Annex. (2013年8月4日) 2015年6月9日閲覧。
- ^ a b “青松 9年目でプロ初安打初打点、捕手から内野手転向で結果”. スポニチ Sponichi Annex. (2013年8月1日) 2015年6月9日閲覧。
- ^ a b “【ロッテ】青松転向後、初安打&初打点”. nikkansports.com. (2013年8月1日) 2015年6月9日閲覧。
- ^ “ロッテ青松、審判侮辱で制裁金15万”. nikkansports.com. (2014年3月27日) 2015年6月9日閲覧。
- ^ “来季契約について”. 千葉ロッテマリーンズ公式サイト (2016年10月1日). 2016年10月1日閲覧。
- ^ “自由契約選手|2016年度公示”. NPB.jp 日本野球機構 (2016年12月2日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ “65人が参加/12球団合同トライアウト詳細”. 日刊スポーツ. (2016年11月12日) 2016年11月13日閲覧。
- ^ a b “ロッテ戦力外の青松 引退へ「12年間やれたことは幸せ」”. スポーツニッポン. (2016年12月22日) 2016年12月22日閲覧。
- ^ “ロッテ 青松、11年目でプロ1号!妻の前で“アオパイネ”弾”. スポーツニッポン. (2015年6月6日) 2015年6月9日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 青松慶侑 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
- 青松慶侑オフィシャルブログ「不屈の青魂」 - Ameba Blog(最終更新2017年12月6日)
- 青松慶侑 (@keiyo_aomatsu8) - X(旧Twitter)
青松慶侑 (@kkeeiiyyoo) - X(旧Twitter)- Keiyou Aomatsu (@keiyou.aomatsu) - Instagram
- 青松慶侑 (keiyou888) - note