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青山幸高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
青山幸高
時代 江戸時代前期
生誕 寛永9年(1632年
死没 宝永3年9月14日1706年10月20日
別名 別名:幸隆、通称:松之助、藤蔵、号:宗閑
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家光家綱綱吉
氏族 青山氏
父母 父;青山幸成、母:福永氏
兄弟 幸利幸通幸正幸高堀親昌継室、
水谷勝宗正室、松平信久正室
天方倶通
幸遐幸度、圓廓(幽滴)、天方成展荒木政羽室、幸光、幸覃
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青山 幸高(あおやま よしたか)は、江戸時代前期の旗本。幸隆[1]とも伝わる。

生涯

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寛永9年(1632年)、摂津国尼崎藩初代藩主(当時は遠江国掛川藩主)青山幸成の四男として誕生した。父・幸成は寛永20年(1643年)に死去する前に次男・幸通、三男・幸正、四男・幸高にそれぞれ3000石、2000石、1000石を分与して青山三分家を創設し、2月16日に死去した。同年6月7日、幸高は摂津国武庫郡川辺郡内1000石を分知され、別家を創設した。

慶安3年(1650年)9月4日、小姓組番士となる。貞享3年(1686年)8月6日、走水奉行に任ぜられる。元禄9年(1696年)2月21日、走水奉行が廃止されると、寄合に列した。元禄14年(1701年)7月5日、家督を息子の幸遐に譲り、隠居料として米300俵を賜る。長男・幸遐には700石、次男・幸度には300石を分与した。

宝永3年(1706年)9月14日に死去。享年75。

系譜

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脚注

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  1. ^ 諸家系譜』第六十四と、梅窓院の墓誌より。

出典

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