青山幸度
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青山 幸度(あおやま よしのり、寛文元年(1661年) - 寛保2年3月15日(1742年4月19日))は、江戸時代前期から中期の旗本。初めは天方姓を称した。通称は次郎大夫、藤七郎、喜兵衛。号は宗智。
生涯
[編集]元禄4年(1691年)6月25日、桐之間御番となる。同年9月25日に小納戸に転じる。12月2日に職務を免じられて小普請となる。元禄5年(1692年)3月18日、書院番となる。元禄14年(1701年)7月5日、父・幸高の領地の内、摂津国武庫郡の300石を継ぐ。宝永3年(1706年)3月に職を辞し、正徳3年(1713年)3月19日に書院番士に復職し、享保16年(1731年)3月9日に老齢により職を辞する。
享保18年(1731年)8月14日、天方から青山に改姓する。享保20年(1735年)12月21日に致仕し、家督は長男の幸猛が継いだ。
寛保2年(1742年)3月15日、死去。享年82。墓所は梅窓院。
系譜
[編集]出典
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第729